1996春-12
「なぁ、靖彦。一つ聞いてもいいか」
忙しくケースに荷物を詰めている靖彦の傍らのソファーにひっくり返ったまま、俺は靖彦なら答えを知っているのではないかと、ひそかに期待を込めて聞いた。
「シャングリ=ラってどこにあるんだろうな」
靖彦は手を止めて俺を見た。目が一層大きくなっている。俺がそんな単語を知っていたことが驚きなんだろうか。
慌てて付け加える。
「俺だって、シャングリ=ラが伝説の楽園だってのは知ってる。桃源郷。理想郷。エル・ドラド。エデン・・・・」
あれを覚えたのは、【よい子のことわざ図鑑】だったろうか。それとも分厚いナントカ用語辞典だったろうか。
「ヒロ君の言ってるシャングリ=ラは、実際には存在しない場所だよ」
「どこかそれに近いところはあると思うんだ。そこなら、俺も行ってみてもいい。海外ならパスポートも取る」
「伝説の楽園ではないかと言われている場所なら・・・・中国の雲南省・・・チベット・・・アンデスの奥地・・・インダス川のほとり・・・・」
靖彦の声が途切れた。そして、もう一度聞こえてきたのはひどく辛そうで苦い感情を飲みこんだような声だった。
「でもね、ヒロ君・・・・ファム・ファタールと同じことだよ。伝説の楽園は夢物語に終わらせていた方がいいんだ。
探そうとすると、憑りつかれてしまう。神の楽園と言われるものはほとんどがまがいものなんだ」
最後の方は俺に聞かせるためでなくて、自分への独白のようだった。
「あんたのシャングリ=ラは――マカオやラスベガスにあるのか・・・」
思わず口に出た俺の言葉に、靖彦は一瞬だけ見知らぬ他人を見るような冷たい視線を向けたが、声は優しかった。
「シャングリ=ラは、その人によってそれぞれ異なる場所になるんだと思う。ヒロ君の行きたいのは何処のシャングリ=ラなんだろうね」
「俺が行きたいわけじゃない。連れて行ってやりたい奴がいたんだ・・・・」
――いつか行きたい、シャングリ=ラ・ら・ら・~
捉まえ損ねた肩。掌を滑るシャツの布地の感触。虚空しか掴めなかった。キキは落ちて行き、人間の地面に叩きつけられる音。
連れて行かれるカイ。止められないガキの俺。俺が組長で、カイが若頭になるという虚しい約束。
俺の魂は、まだあの千種の学区の中を彷徨っているのだろうか。
叶えられなかった約束も、伝説の楽園でなら全て叶う。
「ヒロ君・・・」
甘い優しい声で、靖彦が俺を呼ぶ。
「ヒロちゃん・・・」
甘ったれたキキの声が重なる。
「ヒロさん・・・」
ショッポを咥えたカイの唇が囁く。
靖彦が抱きしめてくれるまで、俺は自分が泣いているのに気がつかなかった。
※ ※ ※
翌朝、靖彦をマカオまで案内するために迎えに来たコーディネーターという二人の男は、ドアを開けた俺を見てひどく下卑た笑いを見せた。
高級な服と丁重すぎる物腰を装っていても、二人が生島と同類の男たちだとわかる。
靖彦の金に群がるハイエナどもだ。
「タイに行けば、もっと若くて可愛い子がいくらでもいるってのに。あの人も物好きだね」
一人は靖彦の荷物を取りに一緒に奥へ入っていったが、戸口に残った方はじろじろと嘲るように俺を見ていた。
周りが俺たち二人をどう見ているか、その時になって鈍い俺にもはっきりわかった。
「真っ当な顔でマカオへ着きたかったら、その薄汚い口を閉じておけよ。おっさん」
ネクタイをぐっと引いて脅しをかけると、へなへなと腰が崩れかけたところで、尻を蹴り上げてやった。
多分、マカオに着くまでずっと尻を抑えていなくちゃならない破目になっただろう。
靖彦がいない一週間、俺は突然帰郷しなくてはならなくなった。




