1996春-10
身体は疲れていたし、ワインの酔いもまわっていたのに、ベッドにもぐっても俺はなかなか眠れなかった。
久々に喧嘩をした興奮がまだ燻っていて、目を閉じても眠くならない。
明りを消した部屋のドアが開いて、廊下の明りに浮かんだ影が部屋に入ってきた。
ドアが閉じると再び真っ暗になった中で、俺が眠っていると思ったのか、靖彦が傍らに腰を下ろして覗き込んでいる気配がした。
しばらくして、今夜ついたばかりの頬の傷のガムテープにそっと触れた指先が、額の傷跡をなぞり、髪の毛の中に差しこまれて優しく梳(くしけず)った。
ワインやケンカの酔いがまだ俺の血管の中を巡っていて、その優しい指先はひどく気持ちがよかった。
俺は黙って寝たふりをしたまま、しばらく靖彦のしたいようにさせていた。
遠い昔のクリスマス――24時間営業のマックの固い椅子の席で、カイは本当に眠っていたのだろうか。
俺が触れていると知りながら、眠っているふりをしていたのだろうか。今の俺と同じように。
「なぁ、靖彦――」
いきなり俺が声をかけたので、ぎくりとした靖彦の手がそのまま髪の中で固まった。
ベッドの脇のナイトランプの明りをつけて、顔だけ向けた。
「さっきのあれ、ファム・ファタールって・・・・相手は女って決まってるのか」
俺が見つめたまま返事を待っているのがわかったのか、靖彦の手が震えだし、いきなり目が潤んだ。
「そうだよ・・・男には女。女には男。運命の相手はそう決められてるんだ・・・」
震える言葉が紡ぎだされる血の気の失せた唇。カイもきっと同じことを告げただろう。
俺はカイが女であってほしいとは思わない。
肩を並べてどこまでも一緒に走って行きたかっただけだ――自分の内にある思いを押し殺すように蓋をした。
「――ファム・ファタールなんて夢物語だ。現実には存在するもんか」
吐き捨ててくるりと靖彦に背を向け、俺は毛布を頭まで引っ張り上げた。
靖彦の目に溢れた涙が零れ落ちる瞬間を見るのが嫌だった。
きっと靖彦にも、どこかで見失ったファム・ファタールがいたのだ。
※ ※ ※
居心地の良い靖彦のマンションに転がり込んだ俺は、その後ほとんど一緒に行動をするようになった。
三つ葉通運は大株主の創業家一族の影響はまだ大きいはずだったが、会長だった父親が亡くなった後、関西の本社に代表取締役社長の真壁が全権を握って居座っていた。
靖彦は東京支社の副支社長と系列の子会社クワルツ・ド・ロッシュの社長を務めている。クワルツ・ド・ロッシュは海外の家具・雑貨輸入会社で靖彦の個人会社だった。
会社に顔を出すのは、週に一、二度しか見なかった。あれで経営が務まるなら、ずいぶん社長業とは楽なものだと俺でも思えるほどだった。
毎晩のようにクラブやバーで派手に遊び回り、テレビでよく見る売れっ子女優や有名タレント、グラビアモデルらが次々と声をかけて加わってきた。
政界の若手議員や経済界の新進の経営者もグループに連なっていた。
いつも靖彦の傍らにいる俺にも男女問わず誘いの声がかかった。
多分、俺が少し異質で目新しい感じがしたのだろう。靖彦は笑いながらやんわりと、彼らを俺から追い払っていた。
そんなことをしなくても、俺にとってはどれも靖彦の金に群がる薄汚いハイエナどもにしか見えなかった――傍から見れば、俺も同類に変わりなかったが。
だが、靖彦の一番のめりこんでいたのはギャンブル、裏の世界で行われる違法カジノだった。
地方の町で行われていた細々としたスロットやパチンコしか知らなかった俺には、ラスベガスを模したような豪華な店内は別世界だった。
ルーレットの台もあったが、一番大きな金が動くのはバカラのテーブルだった。
まるでただの紙切れのように、100万単位の金が賭けられ、テーブルを囲む身なりのいい男たちが熱くなっていく。
靖彦は他では見せたことのないほどの興奮と熱狂に染まった顔をしていた。大きな目が星を宿したように異様に輝き、愉悦に溺れ陶酔していた。
俺の胸の奥底で、何かがチリチリとひりついていた。これと同じものを、どこかで知っていたはずなのに思い出せない。




