1996春-9
「帰るぞ、靖彦」
ドアを開けるなりそう言い放った俺に、話し込んでいた黒沢という男がじろりと睨んできたが、そんなことは構わなかった。
「博之、血が出てる!」
俺を見て飛び上がるように駆け寄った靖彦がハンカチを出して俺の頬を拭った。洗面所でひっくり返っている男の指輪が頬を掠めた時に切ったのかもしれない。
ソファから上着を取り上げて部屋を出る俺を、慌てて靖彦が追いかけてくる。
その前に立ち塞がろうとする黒沢の肩を小突いて、俺は以前加納にもらった名刺を叩きつけた。
「トイレであんたの仲間が寝てるぞ。俺と話したければ、銀竜会を通してくれ」
靖彦の腕を掴んで引き摺るように店を出ようとしたが、
「血が止まらない・・・病院へ行こう」
俺の頬を凝視したまま、靖彦が声を震わせた。
滅多に見たことのない血の色に、動転しているのがまるわかりだ。
「こんなもん、ガムテープ貼っとけば治る」
手の甲で擦ると、べっとりと血がついた。思ったより深く切れたかもしれない。酔いもあったが、勘が鈍って動きがもたついたせいだ。
「じゃあ、せめて僕の家に行こう。救急箱がある。すぐ近いから」
そう言いながら、もうタクシーを呼んで手をあげていた。
まだタワーマンションが建つ時代ではなかったが、靖彦の住まいは六本木の高級マンションの最上階ペントハウスだった。
もう豪華なものに見慣れた俺でも、ぽかんと口が開くような豪邸だった。居間の天井まで届く一面のガラス窓の外にテラスが広がり、その向こうは星をちりばめたような都会のビル群の明りが煌めいていた。
【可哀そうな】御曹司は、金だけはふんだんに持っていた。
かいがいしく俺の傷を手当てする靖彦は、自分のピットブルが喧嘩したのが嬉しかったのかもしれないと勘ぐるほど楽し気に見えた。
「ここのところずっと帰ってなかったんだけど、ハウスクリーニングは入れてあるから、すぐ使えるよ」
客室の一つを俺に与えた後、着替えを出してバスルームの場所を教えてくれた。
普段の靖彦は都心のホテルに寝泊まりしていることを知っていたが、この無駄に広くて豪華な部屋には全く人の住んでいる気配が感じられなかった。
それこそホテルのようにきちんと整理され、何もかも揃っているが。
俺はシャワーを浴びた後、洗面所の鏡の前で靖彦の張ってくれたガーゼを剥がし、傷口をぴったり合わせてテープで抑え、さらにその上からガムテープを貼り直した。
縫うよりこの方がきれいに治るはずだ。
新しい下着の他に貸してくれたのは、俺が小学校低学年でとっくに卒業したパジャマという代物の上下だった。しかもテロテロしたシルクは気恥ずかしくて着るのも嫌で、下だけはいて出ると、
「靖彦、Tシャツ貸してくれ」 居間に向かって怒鳴った。
俺の頬のガムテープに唖然とした靖彦だったが、一瞬後には飛び立つように姿を消して、黒いTシャツを持ってきてくれた。
「傷跡だらけだ・・・」
俺がTシャツを頭からかぶっている間に、上半身を検分したのか、靖彦が痛ましそうにつぶやいた。
「ケンカばっかりしてたからな。バイクでも転んだし」
これは勲章みたいなものだと言っても靖彦には理解できないだろう。
「僕は一度も人を殴ったことも、人に殴られたことも無いよ」
「お勉強ばっかりしてたからだろ」
「そうだね・・・そればっかりだった・・・・」
パジャマの上着を握りしめて立ち尽くしている靖彦は俺より10歳近くも年上なのに、迷子の子供の様な頼りなさを漂わせていた。
飲み直そうということにして、ワインセラーにワインだけはふんだんにあったから、居間の床に座って二人でまた飲み始めた。
「これ、ヒロ君に渡しておくね」
俺はいつの間にか、博之からヒロ君に格上げされていた。それとも格下げだろうか。どちらにしても、精神的に俺が優位に立った証のような気がした。
靖彦が指で押しやってきたのは、鍵と部屋の暗証番号を書いた紙だった。
「僕がいない時でも、いつでも使っていいから」
「いいのかよ。誰かほかの奴と顔を合わせることになっても」
「ここへは掃除の人以外、他人を入れたことは無いよ」




