1996春-6
「ずいぶんと楽しそうなんだね」
俺と生島が笑いながら話していたカウンターの背後から靖彦の声が聞こえて振り返ると、黒服に奥のソファー席に案内されている途中らしく俺たちを睨んだだけで足を止めずに離れて行った。
「あらら・・・御曹司のご機嫌を損ねたらしい」 生島が大袈裟に片目を瞑ってみせた。
「ずいぶんお前がお気に入りみたいだな」
「俺みたいな育ちが悪い人間が物珍しいんでしょうよ」
「まあ、そういうことにしとくか――」 生島は意味深に笑って、俺の背を押した。
「ほら、御曹司が苛々してこっちを見てるぞ。早く行ってやれ」
御曹司というのが店での靖彦の隠れた呼び名だった。三つ葉通運創業家の御曹司――それに重ねられた言葉は【可哀そうな】御曹司だった。
柘植靖彦が何故【可哀そうな】御曹司なのか、教えてくれたのも加納だった。
三つ葉通運は旧財閥系の一族が創業者で、靖彦の祖父が全国展開の一部上場企業にした。順調にいけば靖彦はそのまま三代目に収まったのだろう。
だが、靖彦が東大を出て入社五年目に父親が体調を崩した。世間には隠されていたが、若年性のアルツハイマーだったらしい。
まだ若い靖彦に社長業は勤まるはずもなく、父親は外部から引き抜いた男を息子が会社を継ぐまでのつなぎ役の社長とした。
「真壁って言うのが現在の社長なんですがね、そいつがやり手だったんですよ。通販事業を大成功させて、今の三つ葉はそっちの方が儲け頭だ。
靖彦さんの父親は会長に退いていたんですが、三年前に亡くなった。それで靖彦さんは取締役専務から平の役員にまわされて、東京支社の閑職に飛ばされちまった」
「創業家なんだから、その真壁って社長を首にすればいいじゃないか」
「創業家といったところで、今時は株を全部持ってるわけじゃないし、業績を上げてる社長を首にするのは難しいんですよ。他の株主が黙っちゃいませんからね。
まあ、靖彦さんのおふくろさんが弁護士を連れて乗り込んだらしいんですが、社長は『いずれ、靖彦さんが十分に力を備えたら社長になって頂きます』って、期限をあやふやなまま知らん顔してるようです。
そこへきて昨年から、真壁が他社に勤めていた自分の息子を三つ葉へ入社させたんですよ。あれは自分の後継者にするつもりだろうと、三つ葉の中でも噂してるみたいですね」
「なんだ、一部上場企業ったって、中身はヤクザの跡目争いと同じだな。自分の会社を乗っ取られてんだから、靖彦も自分で怒鳴りこめばいいのに」
「まあ、お上品な御曹司には無理でしょうね。あの人にはそんな意地も欲もなさそうだし・・・おふくろさんというのはずいぶんと気の強い人だともっぱらの噂ですけどね」
他人の噂話だから、加納でなくとも人は面白おかしく陰で囁いているのだろう。
「博之さんも、首藤組を照也さんに乗っ取られかけてるんですから、怒鳴りこんだらどうです?」意地悪そうに加納が薄ら笑いを浮かべている。
「昔、それをやったらオヤジにぶん殴られた」
ショーヤには絶対敵わないと思っているから、俺はもう自分で怒鳴りこみにはいかれない。
――靖彦も俺と同じ思いなのだろうか。




