1996春-3
【アレキサンドライト】での支払いはすべて加納に付けておけばよかったが、今のところ金もない、芸能界へのコネもない俺は女の子たちからは総スカンを喰らっていた。
生島というオーナーは多忙らしく、何度行っても姿を見ることさえできなかった。
すっかり馴染みになったバーテンとカウンターで喋って時間を潰しただけで引き上げようかと思っていた時、
「あれ、君、最近よく見るね。若そうだけど、いくつ?」気安く声をかけてきた男がいた。
そう言う相手は30代半ばだろう。客の中にはテレビや雑誌で見かける顔が結構いたが、この男の顔は知らなかった。
だが、大勢の取り巻きや女の子たちを引き連れて大騒ぎしているところにはよく出くわして、気にくわない野郎だと思っていた。
それが表情に出たのだろう。男も顔を顰めたが、すぐにぷっと笑い出した。
「今日はゆっくり飲みたいと思ってたんだ。女の子たちは帰すから、君、付きあえよ」
えーっ!とか、いやーっ!とか騒ぎ立てる女の子たちに、「タクシー代あげるからね。気を付けてお帰り」万札をばらまくように渡している。
バーテンが俺の袖を引いて、「柘植さんですよ。柘植靖彦さん」と耳打ちした。
「そんな奴知らねぇよ」
「三つ葉通運の御曹司」
俺でも知っている全国展開の流通業の会社名を囁いて、バーテンが頷いて見せた。「お近づきになって損は無いですよ。生島さんも大事にしている上得意ですから」
「どうせろくでもないボンボンだろ」
自分のことは棚に上げて、俺は奥のソファで笑って俺を手招きしている男に思いっきりしかめ面をしてやった。
マネージャーが来て、拝み倒さんばかりにあいつの席に行けと頼んできた。それほどの上客なのかと腹が立ったが、事を荒立てて出入り禁止にでもされて生島というオーナーに会えなくなるのもつまらない。仕方なくマネージャーの顔を立てて奥の席に向かった。
「君の飲みたいものなんでも頼んでいいよ」
酒のリストメニューを俺に手渡して、男はにっこり笑った。箸より重いものを持ったことが無いに決まっている、白くて細い女の様な指先だった。きれいに手入れされた爪には透明なマニュキアが光っていた。
リストの中で一番高い550万のロマネコンティにしてやろうかとちらっと思ったが、さすがにそこまでワルにはなれなくて、1200円のジントニックを頼んだ。
「へぇ、可愛いの頼むんだね」 男の耳障りな笑い声が俺を苛立たせたが、知らん顔をしてやった。
バーテンが俺にこいつの素性を教えたように、俺がヤクザの息子だとマネージャーあたりがこいつにも教えているはずだ。
男は自分にはヴーヴ・クリコのシャンパンを頼んで、勝手に先に飲み始めていた俺に向けて気障にグラスを掲げて見せた。
「僕は柘植靖彦。33歳。君も自己紹介したら?」
こんな遅い時間になっても皺ひとつない上質のジャケットを着て、乱れのない軽やかな髪型をしている男は、整ってはいるがハンサムと呼ぶには線が細すぎる顔だった。
はっきりした二重の目も男にしては大きすぎた。殴ったら一発で泣きだすに違いない、意地も覇気もない優しげな顔。
それなのに、目が吸い寄せられるものがあった。
「首藤博之。24歳」
「どこの大学?僕は東大の経済だけど」
「秋川商科大学国際学科。あんたの聞いたことも無い三流大学だよ。で、親はヤクザだ。ただ今の財布の中身は一万二千円。他に知りたいことはあるか」
靖彦はグラスを持ったまま動きを止めて目を見開いていた。
「・・・僕がさっき聞いたのは、このビルが君の物だってことだったんだけど・・・」
他には何も聞いていなかったらしい。
何にショックを受けたのか――俺の大学か、所持金か、やっぱりヤクザの息子と言う所だろう――しばらく固まっていた靖彦は、気を取り直したように傍に置いたバッグを引き寄せて、四角い黒の革製ケースを取り出した。
蓋を開けた中にはきれいに煙草が並んでいて、それがシガレットケースだとわかったが、俺の周囲でそんなものを使う人間なんて見たことも無かったから、今度はこっちが物珍しくまじまじと見つめてしまった。
靖彦は落ち着こうとするように煙草を一本抜き出すと口に咥えて、同じブランドものらしいライターで火をつけた。
それを見ているうちに俺も煙草が吸いたくなって、ポケットからくしゃくしゃになったマルボロの紙箱を取り出した。口に咥えると、靖彦が自分のライターの火を差し出してきた。
手で断わって自分のジッポを引っ張り出して火をつけようとした時、ふわっと仄かなメンソールの匂いが漂ってきた。こいつらしいなと思いながら顔を上げた時、なんでぐずぐずとこの席を立たなかったのかわかった。
目の前にある靖彦の口許はよく似ていた――
ショッポを咥えたカイの唇。
「火、貸してくれよ。ヒロさん」 と、囁くカイの薄い唇。




