1996春-1
「――博之さんですか」
遅刻をしたら給料から差っ引くと脅されて、俺が大人しく【レインボーエステート】に勤め始めてひと月たった頃、一本の電話がかかってきた。
【シルバードラゴン】の社長の加納だと名乗った相手は、うちの所有する雑居ビルの中の店を指定して会う約束を取り付けてきた。
加納の名前は知っていた。首藤組の傘下の一つ、銀竜会は東京支部とも言える組織で、その組長である加納は親父の信頼も厚いということだったが、高田専務からは会うなと言われていた。
善良なおじさん、おばさんばかりの会社にうんざりしていた俺は、即座に加納の話に飛びついた。
麻布にある雑居ビルは、一、二階の飲食店を除いて、風俗関連の店が多く入っていた。その一つである【シルバードラゴン】はガールズバーだった。
カウンターの中には大きな胸を申し訳程度の布で覆った女の子たちが並んでいたが、加納は俺を奥のソファー席に呼んだ。
30代後半の仕立てのいいスーツに身を包んだ細身の男は、俺の知る地元のヤクザとは雲泥の差だった。
きれいに撫でつけた髪と縁なしの眼鏡。知らなかったらとてもヤクザには見えない相手だった。それでも右頬の唇の端からこめかみにかけて薄っすらと白い傷跡が見えた。
「首藤のオヤジには博之さんに会うなと言われていたんですが」少しの訛りもないきれいな標準語で薄く笑われると、奥底が見えなくて警戒したが、
「大きくなりましたね~見違えましたよ」と、親しげに眼を細める。
「俺はあんたと会うのは初めてだと思うけど」
「荒渡大瀬岬。俺もあの時あそこにいたんですよ」加納がにやりと笑ったので、途端に俺も気が緩んだ。
「警察が暴走族を一網打尽にしようとしてひでぇ検問した正月だ」
「ええ、一騒動でしたねぇ。族とヤクザが揉めて、拳銃ぶっ放した奴もいたし」 加納も思い出すように、懐かしそうに目を細める。
「俺はツレと車で参加してたんですが、そいつが博之さんを知ってて、あれが首藤組の組長の息子だって教えてもらったんです。ヤンチャしてましたよね」
「紅蓮の頃だ――」
一瞬、一列に並んだ単車の地響きするようなエンジン音が聞こえた気がした。
「中学の同盟の話も聞きました。いい跡目がいると思ってたんですけどね――オヤジはホントに博之さんに組を継がす気はないんですか」
「俺にはもうヤクザの時代じゃないって言ってた。あれは本音だと思う」
「暴対法以降やりにくくなったのは本当ですがね・・・まあ、組のことなら照也さんがいるから」
口に入れていた酒が急に不味くなった。
「ショーヤは元気にしてるのか」
「下の者にも慕われてるし、上の者にも目をかけられてますよ。いずれ今の若頭の滝さんをオヤジの舎弟に直して、照也さんを後釜に据えるんじゃないかって組の者は思ってるんじゃないかな」
ショーヤを褒めているはずなのに、加納の口調にはどこか毒が滲んでいた。
「おまえ、ショーヤが嫌いだろ」
遠慮なく指摘してやると、加納は驚いたように目を開き、それからにたりとヤクザの顔で笑った。
「できすぎるところが――ね」
それから加納は高田のおっさんが言わなかったようなことも色々話してくれた。
このビルの建物外側は真っ当な所有――かあさんの名義だが、入っている店のいくつかは加納の銀竜会の息がかかっている。他の店もそれぞれいわくつきの背景がある風俗店がほとんどだが、テナント料はきれいな金で毎月管理会社のレインボーエステートに振り込まれることになっていた。
「気に入った女の子、持ち帰っていいですよ。どれにします?」
カウンターの中の女の子たちはどれも可愛くて、愛嬌を振りまいていた。
「今日はいいや。それよりもっと飲みたい」
「じゃあ、他のいい店を紹介しますよ」




