1989夏-4
意識がかすみ、どのくらいそこでぼんやりとしていたかわからない。
多分、それほど長い時間ではなかったのだろう。
気がついたらかずまが傍にいて、プレリュードから遊佐も降りてきた。
「レビンを見たら無線で知らせてくれって、クラブの仲間に頼んでおいたんだ。探すのに手間取って遅くなった。大丈夫か」
「ひどくやられたな。羽衣か、監物組のやつらか」
「紅蓮で仕返しに行くなら、俺たちも手伝うぞ」
口々に言いながら、俺を助け起こして怪我の状態を確かめてくれた。
「・・・・もう終わった。全部終わったから、もういいんだ」
その言葉に嘘はなかった。
もうすべて終わった気がした――カイは降りてこなかった。
何の感情もわかない。ただその事実だけが、しんと胸の底に居座ってしまった。
ろっ骨にひびが入っている気がしたが、他は折れていないだろう。
辛うじて動くハチロクをかずまが運転し、その後を遊佐がプレリュードを運転して俺を家まで送ってくれた。
※ ※ ※
家の中に入ると、かあさんもかなえさんも寝静まっている時間のはずなのに、風呂場の方で水音がしたので足を引きずりながら、こっそりのぞきに行った。
泥棒だったらこの身体では分が悪いから、玄関に置いてある木刀を握っていった。
脱衣室を兼ねた洗面所のドアを開けた途端に、浴室のドアが開き裸の男が出てきた。
「帰ってたのか、ヒロ」
ショーヤは俺の様子にちょっとだけ目を見開いた後、何も言わずに棚のバスタオルで濡れた体を拭い、着替えに手を伸ばしかけたが、
「まあ、見られたからもういいか」
と苦笑しながらタオルを腰に巻いただけで、そのまま俺の脇を通りすぎて台所の方へ出て行った。
俺はその間、一歩も動けず、一言も発せなかった。ショーヤの全身に鮮やかな藍色の彫り物があった。
俺の親父も彫り物をしている。子供の頃何度も見たそれは龍と牡丹の柄で、背中から尻、太腿にかけて膝上まで。肩から上腕へ続くものは肘まで。服を着れば分からないし、半袖も着られる。
だけどショーヤの彫り物は首から下は両手首、両足首までの全身を埋め尽くした総身彫りだった。絶対に後戻りできない人生を覚悟した人間だけが刻む烙印。
いきなり突きつけられたそれは俺を圧倒し、全身が震えるほどの敗北感に打ちのめされた。何をしても、俺はショーヤには敵わない。
冷たい水のシャワーで泥だけ落とした。体中のあちこちの色が変わって痛みで軋んだが、思ったほどではなかった。首藤組の実子だというのは、少なくとも手加減の価値はあったらしい。
急いで着替えて台所へ行くと、ショーヤはダイニングテーブルの椅子に腰掛けて缶ビールを飲んでいた。腰にタオルを巻いただけだから、露わな上半身は照明の下で艶やかな光を放っていた。
きれいな藍の濃淡で描かれているのは流水に菊の花だと俺にもわかる。
俺が喰いつきそうに目が離せないでいるのに苦笑しながらショーヤは立ち上がり、冷蔵庫を開けて新たなビールを取り出した。広い背中に彫られているのはやはり龍だ。
「ひどい面だぞ。どうせ、またケンカしたんだろ」
眉を顰めながら、俺の分のビールを放ってよこした。
「なんか食ったか?冷蔵庫に夕飯の残り物があるぞ」
俺は首を振ってビールだけ受け取ったが、今日はショーヤの皮肉を聞く気力もなかった。
「何しに来たんだ」
「おふくろに報告があったんだよ。恭子を籍に入れるって」
飲みこみかけたビールにむせて、慌ててペーパータオルをひっつかんだ。
「籍に入れるって――結婚するってことか!」げほげほと咳き込みながら聞き返す。
そんな俺の動揺ぶりを楽しむように、ショーヤはにやりと笑ってビールを飲んでいる。
「まあな。式はしなくてもいいが、籍だけは入れてくれって泣きつかれた」
「恭子って、前に駅で会った女か」
「そうだ。いい女だったろ。お前もあれくらいの女を捕まえろよ」
「けっ、あんな程度の女。俺は――」 言葉に詰まった。
いきなり甦ったのは鋏で切り取ったような一枚の光景。
――車の窓から突き出された右腕。その指先で燻るショッポの煙。
『勘弁してやってよ。俺の昔の知り合いなんだヮ・・・』
俺は冷蔵庫の中に残っていた缶ビールをあらかた一人で飲みつくした。
ショーヤは勝手に恭子と幸せになればいい。俺は昔のツレにも捨てられて、この先一人で生きて行くんだ。
ぐだぐだに酔ってショーヤに絡んで何か喚いていたが、覚えてはいない。
朝に目が覚めるとショーヤはとっくに帰っていて、散乱した空き缶を前にかなえさんが鬼のような顔をして俺の前に立っていた。
痛めつけられた身体で酒を飲んだから、目も開けられないくらい顔が腫れあがり、熱も出ていた。
かなえさんに引っ立てられて病院へ連れて行かれ、三日ほど入院する羽目に陥った。
※ ※ ※
ハチロクは俺より惨憺たる状態で、修理では追いつかないまでにやられていたから、結局廃車にして解体屋の松爺に引き取られていった。
短い間の相棒がただの鉄の塊に戻った時に、俺は何よりも大事にしていたフェックスにも乗ることを止めた。
ショーヤが乗って俺に譲ってくれた憧れのバイクは俺の唯一無二の相棒だった。数えきれないぐらいカイと並んで走った。
もう二度とカイのGSX400Eと並ぶことは無いZ400FXは、ガレージの隅にぽつんと置かれて沈黙したまま輝きを失くしていった。




