1986春-6
「ヒロちゃん」
ベッドの上で上半身を起こして本を読んでいたかあさんはにっこりと笑って、俺を手招きした。
「また、けんかしたの?」
冷たい指先が俺の紫色に変わった頬に触れる。「こんなのたいしたことないよ」
母さんがベッドの縁(ふち)を叩いて呼ぶので、仕方なく俺はもっと傍に寄る。
「ほんとに困った子・・・やんちゃもほどほどにしてね」
ぎゅっと俺を抱きしめる――俺が幼稚園の頃から少しも成長していないみたいに。
こういうのほんとに困る。
俺はもう母さんよりずっと大きくて、四月になれば中学三年になって、その中学の頭で番を張ってるんだ。
こんな所を仲間の誰かに見られたら、舌噛みきって死んでも収まらないほど恥ずかしい。
でも、身体に回された華奢な手を振りほどくことはできない。
細くて冷たいその腕は、茨の蔓のように俺を縛りつける。
母さんはよく熱を出す。昔から虚弱体質なのだ。俺を生んでから、もっと弱くなったらしい。
前に住んでいた町中(まちなか)の家は親父の組事務所に近かったから、高熱を出すたびに親父が飛んできたことを覚えている。
町中に住んでいた小さな頃、親父は俺ともよく遊んでくれて、普通の父親らしい顔も見せていた。
だけど、俺たちがここに越してきてから親父は凄まじく忙しいみたいでめったに家に帰ってこなくなった。
母さんみたいなタイプは足を引っ張るだけだろうと14歳になった今ならそう思う。
優しくて儚くて、なんでヤクザなんかと結婚したんだか俺にはわからない。
「親父もかなえさんみたいな人と結婚すりゃよかったのにな」
以前、半ば本気で言った時、思いっきりかなえさんにひっぱたかれた。かなえさんは昔スケ番だったとショーヤに聞いていたのが本当だとわかるほど、容赦なくて的確な一発だった。
ショーヤのところに行くからと部屋を出ようとする俺を、「ヒロちゃん・・・」と、かあさんが呼びとめた。
ドアノブに手をかけたまま足を止めて振り返ると、かあさんは黙って俺を見つめていた。
俺は苛立ちで震える手を握りしめて、必死に抑え込む。
仲間たちみたいに、「クソババア」と叫んでやれたらどんなにすっとするだろうかと、できもしないことを考える。
かあさんはきれいだ。長い髪を三つ編みにしていると、中学生ぐらいに見える。そして、武田綾香によく似ていた――俺のクラスの副委員長の。
かあさんの熱に潤んだ目から、溢れた涙が頬を伝い落ちてるのがわかった。
「ヒロちゃん・・・・あの人に似てきたのね。毎日、毎日喧嘩ばかりしていて、心配で心配で・・・」
後の言葉は続かずに、かあさんは両手で顔を覆った。
かあさんが言っていたのは俺自身のことでなく、昔の親父のことだろうか。
そして、親父がほとんど家に帰ってこないのは忙しいだけでなく――他に女ができたからだ。
※ ※ ※
かなえさんから差し入れの追加の焼き鳥とビール缶を持たされて離れの玄関を開けただけで、もわっとタバコの煙が渦巻いていた。
玄関にはどデカい靴が乱雑に並んでいる。
「おう、ヒロ、やっときたか。メンツが足りなくて始められなかったんだ」
ショーヤの部屋から顔を出したタクロウ(廣瀬拓郎)さんが、髭面で笑って俺からビール缶を奪い取った。
「トンちゃんが抜けちまって他が捕まらなくてさ。お前が帰ってきて助かったよ」
そらの兄貴のマリン(北野海)さんは、二人より学年が一個下だから大変だったのだろう。本気で嬉しそうな顔をした。
ショーヤとタクロウさんはタメ(同学年)で、当時の千種中学、今の暴走族【紅蓮(ぐれん)】のツートップだ。タイマンで戦わせたらまちがいなくショーヤの方が強いだろうが、タクロウさんは上からも下からも人望があった。
俺の仲間が近寄れないこの家にも、中学の頃から出入りしていて、かなえさんにも遠慮なく物を言う。
気さくで、それでも性根に一本筋の通っているタクロウさんは俺もすごく好きで、ショーヤには聞けないこともタクロウさんには相談できた。
「ひでぇ面(つら)だな。誰かとやってきたのか」
卓の上でもう麻雀パイをジャラジャラとかき混ぜながら、タクロウさんが俺を覗き込む。
咥えタバコにビール缶を煽りながらだから、もうおっさんにしか見えない。
年上の三人は、二、三歳の差にすぎないというのに、俺から見れば体格も中身もはるかに大人だった。
マリンさんは県立の工業高校の機械科だが、ショーヤとタクロウさんは二人とも同じ私立高校に通っていた。名前さえ書ければ誰でも入れると噂の高校だったから、不良(わる)の吹き溜まりの様な学校だったが、二人は入学してすぐに他県からも通う猛者どもを抑えつけて上の学年からも一目置かれていた。
もっとも二人の関心はもう学校ではなく、同じ千種中の卒業生で立ち上げた暴走族【紅蓮(ぐれん)】に置かれていた。