1986晩秋-3
もうすっかり日が暮れて周囲は薄闇に包まれていた。
重い身体をやっと起こし、またカイのパッジョグの後ろに跨った。
このままあてもなく、どこか遠くへ行ってしまいたいぐらい虚ろな気分だった。
「ヒロさん、腹空いてない?」
腹は空いている気はしなかったが、昼飯もまだ食べていなかった。
このまま家に帰って飯を食う気にはなれなかった。
「うちで食べてくか?コンビニで弁当でも買うけど」思いがけない誘いだった。
※ ※ ※
カイの香西中は、25年も前に造成された大規模団地の中にあった。建設当時は子供の数も多かっただろうが、25年もたてば子供はほとんど独立する。
いくら補修が行われても建物の老朽化につられるように、入居者は高齢化と低所得者層が増えていった。
カイの住まいもその団地の一角にあった。
狭い2DKの、ほとんど何もない部屋だった。あるのは小さなダイニングテーブルと古びたテレビと電子レンジ。
義理の父親が刑務所に入っていて母親が出稼ぎに出ているというカイは、ここで一人で暮らしているのだろうか。
親がいなければ仲間のたまり場になりかねないが、そんな気配もないほど部屋の中はきちんと片付いていた。
「近所にばあさんがいるから、たまに来る」
コンビニの袋から缶ビールと弁当を取り出しながら、カイはぼそぼそと言った。
「ばあさんは一緒に暮らさないのか」 あの南野中との抗争の時、警察へ迎えに来てくれたのはカイの担任教師だったと思い出す。
せめてカイが一人でいる間くらい、面倒を見てくれればいいのにと俺は思ってしまう。
「ばあさんは俺が嫌いなんだ。美佐ちゃんを強姦したどこの誰ともわからない奴の子だから」
カイのさらりと言った言葉が、俺の甘さを叩き潰した。
「美佐ちゃんが15の時に知らない3人の男に輪姦(まわ)されて、子供ができても怖くて誰にも言えないうちに堕ろせなくなった。産むしかなくなって俺が生まれたんだ」
カイはいつ誰にそんなことを聞かされたのか。自分の出生を知らされた時のカイの胸の内を思うと、俺はそいつが許せなかった。
「でも、美佐ちゃんは自分で俺を育てるって言ってくれたんだ。16の時から働いてる」
16の子持ちの少女が働けるのは、風俗の世界しかなかっただろう。
カイが美佐ちゃんをどう思っているのか俺にはわからない。だけど、修学旅行の土産にブレスレットを買うくらいには大事に思っているのは確かだった。
「なんで…自分の母親なのに美佐ちゃんって呼ぶんだ・・・」
「美佐ちゃんがそう呼べって言ったんだ。この部屋にもいろんな男が転がり込んできたから。
俺が小四の時に監物組の甲斐がきた。美佐ちゃんを籍に入れてくれたのはあいつだけだった。俺にケンカの仕方を教えてくれたのもあいつだ」
「結構いい奴じゃん」 俺が噂に聞いていた甲斐とは違う気がした。
「だけど、あいつが美佐ちゃんにシャブ(覚せい剤)を教えた・・・」
他のどんなことに触れている時より暗い目で、カイはじっと手元の箸を見据えていた。
「3年前にあいつがムショに入って、美佐ちゃんはまた風俗で働きだしたんだ。そのことで俺が学校でからかわれてたのを知って大阪へ移った。
毎月金を振り込んでくれるから・・・俺はちゃんと一人でやっていける」
「たまには帰って来るのかよ」
「正月三が日過ぎたら暇になるから――帰って来るよ」
口に咥えた箸をぱきっと割りながら、カイの声はどこか諦めが響いていた。
カイが自分のことを話してくれたから、俺も何か話さなくちゃならない気がした。
カイに較べれば、俺の生きてきた道ははるかにぬるい。
それでも、かあさんのことはどうしても話せなかった。どう話していいかもわからない。
だから、「俺も母方のばあさんがいるんだ。昔、一度だけ会ったことがある」 誰にも言ってないばあさんの話にした。




