1986晩秋-2
「キキ、戻って来い!頼むから、こっちへ来いよ!」
俺の声はまるで届かない。
キキはフラフラと手を前方に彷徨わせながら屋上の床を横切り、突き当たったフェンスに手をかけた。ふわりとそのままフェンスを越える。
その外は庇のように狭いコンクリートの屋根があるだけだ。
そこに立って初めてキキの全身が震えだした。
「――ヒロちゃん!」
キキの悲鳴のような声が俺を呼んでいた。
「目が・・・・どんどん目が見えなくなってくるんだ!怖いよ、ヒロちゃん!」
がくがくと震える足は屋上のフェンスの外、ぎりぎりの屋根の端にかかっているだけだ。
辛うじて左手だけがフェンスの縁を掴んでいる。
「キキ、そこにじっとしてろ!俺が捕まえるまで動くな!」
俺はキキを怯えさせないように、じりじりとフェンスに近づいた。
「なあ、俺がいつか連れてってやるからさ、シャングリ=ラ。一緒に行こうぜ、キキ」
キキの落ち着く唯一のおまじないの言葉――いつか行きたい、シャングリ=ラ・ら・ら・・・
キキの悲鳴が止んだ。
やみくもに前に伸ばされた片腕が、宙を掴むようにもがいた。
「児玉!動くな!」
川端の必死に叫ぶ声が聞こえた。
ああ・・・キキは児玉貴規って名前だったけ。
こんな時に思い出すことでもなかったのに、俺はフェンス越しに手を伸ばしながらキキと初めて会った時のことを思い出していた。
『おれ、こだまたかのりっていうんだ。キキって呼んでいいよ』
俺の初めてできた友だちは真っ白な歯を見せて大きな口を開けて笑っていた。
「うん、いつか行こうね、シャングリ=ラ―― ヒロちゃん」
キキの最後の声はいつもの様に甘ったれて、俺を呼んでいた。
俺の強張った指先はキキの肩に触れ、シャツの布地を滑っただけで・・・・・・キキは落ちていった。
そして、人間が地面にぶつかって潰れる音が聞こえた。
三階建の校舎の屋上から落ちたにしては奇跡的にまだ息はあった。
キキは救急車で運ばれた。
警察が来て、自殺か事故かで現場に居合わせた俺も残されて聴取を受けた。
生活安全課の但馬も顔を出した。
「シンナーを吸っていたらしくて、屋上でふざけて足を滑らせたんだと思いますよ」
学校は事故にしたがった。
俺は何も言わなかった。
「そうなのか?」 但馬がもう一度念を押したが、俺は何も言わなかった。
※ ※ ※
みんなには先に帰っていてくれと言ってあったから、もうすっかり日の暮れた校舎にも校庭にも人影はなかった。
「ヒロさん・・・」
門の陰から、カイが声をかけてきた。
誰かからもうキキのことを聞いていたのだろう。
返事もしないでずんずん歩く俺の後ろから、黙って原チャリを押しながらついてくる。
「ちくしょう!」
誰に向かってぶつけていいかわからない怒りと絶望感で胸が塞がる。
それでも、苦しい胸のずっと奥底で一番責めたいのは自分自身だとわかっていた。
キキを救ってやれた人間がいたとしたら、それは他の誰でもなく俺ではなかったのか。
「ちくしょう!ちくしょう!」
足が前に出なくなって、その言葉だけが出口のない胸の中で荒れ狂う。
「ヒロさん。一回り走ろう・・・後ろ乗りなよ」
背後でカイがエンジンをかける音が聞こえた。チェンバーを揺らす排気音が響く。
俺が後ろに乗るのを待ちかねたように、パッジョクが飛び出した。
俺の中の何もかもを置き去りにさせようと、冷たい風が正面から襲い掛かる。
カイの背中だけがその凍えるような寒さから防いでくれていた。
その背中にしがみついて泣いた。
指先に残るキキのシャツが滑る感覚が消えるまで、俺はカイのフライトジャケットを握りしめて泣いた。
「――ヒロちゃん」とキキの声が呼ぶ。
シャングリ=ラは地上の楽園。死んでいける天国じゃない――前に、誰かがキキに教えていた言葉。
いつか、本当にシャングリ=ラへ連れて行ってやりたかった。それがどこにあるかもわからなかったが。
気がつくといつの間にか工業団地の中央公園でパッジョグは停まっていた。
麻痺したような手足でのろのろと降り、水の止まった噴水の池の縁に腰掛けて俺はまだ泣いていた。
「――ヒロさん」
カイが俺を呼んだ、キキの代わりに。
それから、火のついたタバコを俺の手に渡してよこした。
「・・・なんだ、カイ。お前、自分で火つけられるじゃないか」
顔を掌でこすってから咥えたショッポは、やっぱりいつものマルボロより甘かった。
ふ・・と笑ったカイが、蹲ったままの俺の上に被さるように、新しいショッポを咥えた顔を近づけてきた。
「火、貸して。ヒロさん」
――自分のライターを使えよ。
その言葉を返さずに、俺は火を移すカイをじっと待っていた。
「この方がタバコが美味い気がする」
満足げに大きく煙を吐いて、カイは寒そうに肩をすくめた。
「俺が泣いたのをみんなにバラすなよ」
冷たい池の水で顔を洗って念を押す俺に、
「言わない、絶対に」 カイは奇妙に真剣な表情で俺を真正面から見つめていた。
「絶対に言わないよ、ヒロさん」




