1986春-4
パトカーのサイレンが聞こえなくなるまでぶっちぎりで走り続けてから、港湾地区にある中央公園でカイは原チャリを停めた。
もう日はすっかり落ちて、工業団地内の小さな公園には人影もない。
噴水も止まっていたが、コンクリート製の小さな池の水はたっぷりあるので俺はとりあえず縁に腰を下ろして水の中に足を突っ込んだ。
冷たい水は針が刺さるような小さな無数の痛みを与えたが、おかげで腫れた足首の熱は治まっていった。
痛む顎を抑えながら、マルボロを取り出した。タバコとライターだけはちゃんとポケットを移し替えてておいた自分を褒めてやりたいが、上着はドロドロの上にあちこち裂けて袖がちぎれている。
ズボンも裾を踏んだ時にかなり破れた。ダブルの腕をもってしても修理は不可能だろう。
タバコを咥えたまま上着を脱いで未練がましくもう一度点検する。紫の裏地はきれいなままで龍の刺繍も無事なのに。
「火、貸して」
傍らから声をかけられて、カイの存在を忘れていたことに気づいて慌てた。
とにかく、心ならずもこいつに借りを作ってしまったことになった。
カイは火のついていないショートホープを咥えて俺を覗き込んでいた。
「ああ・・・」
慌ててジッポのライターを探したが、どこに仕舞い込んだか一瞬混乱した。
「それでいいから」
そう言って、カイは顔を近づけてきた。
意味が分からずに固まっている俺のタバコの先に自分のタバコを寄せて火のつくまで軽く何度か吸いこんでいる。
池の傍らの灯りに、血のにじんだ薄い唇が息遣いの感じられる近さにあった。
やっと火がついて、カイの吐きだした煙が蜂蜜のように濃厚な甘い香りを漂わせる。俺にはショッポ(ショートホープ)は少し重い。マルボロのほんのりとした甘さの方が好みだ。
カイも裸足になって池の中に両足を入れたが「冷てぇ」と悲鳴を上げて慌てて縁に上り、俺の隣に座りこんだ。
「お前、結構強いんだな。親の看板で頭をやってるのかと思ってた」煙を吐きながらぽつりとつぶやくように言った。
照明灯の灯りを反射して、カイの髪の毛先が金色に散らばっていた。
俺の周囲ではパーマや剃りこみは珍しくなかったが、男が髪を脱色したり染める奴はいなかった。金髪にするなんていうのは、当時の仲間内ではシン中(シンナー中毒)のキキより危ない奴だと思われていた。
中三の頃のショーヤはびしっとリーゼントを決めていたから、俺もそれをめざして短かった髪を最近伸ばしていたが、脱色するなんて考えはまるっきりなかった。
それでも、カイの小作りな顔にその明るい髪はよく似合っていた。
「今年の香西中はお前が頭か」問いかける俺に、
「俺んとこは真面目が多くて面白くない」
ぺっと唾を吐いてタバコの吸いさしを踏みにじり、カイは大きく腕を振り上げて伸びをした。俺の与えたダメージなんか微塵も感じさせない滑らかな動きだった。
俺が生まれ育ったのはかなり大きな活気のある地方都市で、周辺の町や村と合併して大きくなり、新幹線も通るJRの線路が市内を南北に分っていた。北側の山裾に広がる旧市街は昔からの商業地区、オフィス街で変わらないが、もともと田んぼや畑の多かった南側は新興住宅地の一戸建てや団地が続々と郊外に建設され、周辺で人口が急増し小中学校の人数が急激に膨れ上がっていた。
海に面した南端は外港が整備され、それを囲むように工業団地も続々と拡充されていた。
土地の利権や、注ぎ込まれる莫大な金を巡って、政治家やヤクザが蠢いていた時代だったが、当時の俺には関知する術もなかったし、知る必要もなかった。
ただ、その後に続くバブルの奔流を一番うまく乗りこなしたのは、俺の親父だったと、ずっと後になってから思い至ることになる。
生徒数の増える中学の中でも俺の千種中の新年度は三学年で1000人を超すマンモス校になりかかっていた。新参のサラリーマン家庭や古くからの地元住民、土地を手放して成金の農家、日雇いの湾岸労働者の家庭環境も経済状態もまちまちのごった煮の様な群れだった。
一方で、カイの香西中は25年前にできた団地の中の学校だったから、住人の高齢化で逆に子供の人数が減少傾向にあって、早晩うちと学区の是正が行われるだろうと噂になっていた。
やっとずきずきとした痛みが引いて水から足を上げると、カイも立ち上がって原チャリを引っ張ってきた。
「送ってやる、家どこ?」
街路灯だけが並んでいる人気のない工業団地から一人で帰ることは難しいから、俺は素直に頷いた。
「こいつ、改造のパッジョグだろ?俺に運転させてくれよ」
「その足でへーきか」
まだ痛むが、骨は折れていない。
カイが後ろの荷台に乗って、すぐに俺は走り出した。バイクに較べればもちろんたいしたことは無いが、パッジョグはなかなかよく走る。
工業団地内の広い道路は人影も通る車も見えない。両側に照明灯だけが整然と並ぶ直線道路を俺は70kmのメーターが振りきれるまでスピードを出して走り抜けた。
「あぶなっ!こいつ、ブレーキ甘いから気を付けろよ」 振り落とされかけてカイが俺の上着の裾を掴んだ。
海の匂いのする冷たい風が容赦なく吹き付けてくる中で、背中だけがカイの熱で暖かかった。
「――お前、いい匂いがする」
首筋のすぐ近くの耳元でカイの声がした。
今日からショーヤの学ランを着られると思って、いつもあいつが付けているコロンをくすねて、着る前にこっそりつけてみたのがバレたらしい。
さっきも、それを嗅ぎつけたダブルが鼻を鳴らして、「なんだ、ヒロさん。オードロードスなんて古っ!時代はタクティクスだろ」ってやりこめられたから、恥ずかしくてカイに返事をしなかった。
でも、俺はショーヤのつけているこの渋くて大人っぽい香りが好きだった。
俺に聞こえなかったと思ったのか、カイもそれきり黙った。
一般道路に出て少しスピードを緩めると、カイが体を離したせいで一気に背が薄ら寒くなった。
俺たちは無言のまま夜の街を走った。乗っているのはちんけな原チャリだったが、悪い気分ではなかった。
それは、いつも二人並んで走った俺とカイの――伝説の幕開けだった。