1986春-3
「あんたが首藤博之か。俺は香西中の甲斐雅樹だ」
律儀に名乗った相手は、俺より頭一つ小さい。細身で筋肉がついている風でもない。おそらく蹴りが得意なのだろうと見当がついた。
「他人(ひと)の中学に乗り込んで何しに来たんだ」ひとまず聞いておく。
「うちにはもう俺の相手がいなくてさ、つまんないんだよね」
きつい目元を緩めてにやりと笑った顔が少し幼い顔立ちをふてぶてしいものに変えた。
四月になるのを待たずに卒業式当日に乗り込んできた自信と気負いがそこにあった。
「首藤組の組長の息子だって看板が無くても本当に強いかどうか、試してみたくてさ」
指定暴力団首藤組組長の息子――俺にとって背負う看板であり、十字架でもある。
上部の全国区広域暴力団直参の組の名があるから、俺は有名で、他中の不良(わる)からも一目置かれる。
実力以上の評価を受けていると陰で言う奴らもいたが、当時の俺はそんなことを気にしていなかった。
いずれ跡目を継ぐのは自分だと思っていたから、組の看板も親父の名前も自慢でこそあれ、重荷には感じなかった。
バラバラと仲間が走り寄ってきて周りを取り囲んだ。
「手を出すなよ」
言われなくても皆わかっている。タイマンに加勢したら、それは末代までの恥だ。
門の外が騒がしくなって、後から香西中の加勢が三人ほど追いついてきた。
腕に覚えのあるバタと、一年下だがハガが殺気立つ。
頭(あたま)同士の決着がつけば、どちらにしてもお互いの学校の面子をかけて乱闘になるだろう。
トラは問題外だが、ダブルやそら、ケータもそれなりに戦力になるから、人数的にはこちらが有利だと見定めてから目の前の敵に神経を集中する。
前触れもなく地を蹴ったカイの、目にも留まらぬ速さの踵が顎を掠めた。俺の予想以上に足先が伸びてきていた。
空手とは違う。俺は喧嘩の実戦で戦い方を身に着けてきたが、カイは何か格闘技を習っていたに違いない気がした。
俺も得意なのは蹴りだったが、相手の正確で鞭のようにしなやかな動きは、敏捷性でカイが勝った。そして容赦なく急所を狙ってくる。
体格差では俺の方が大きい分、力では勝るはずだ。捕えれば俺に分がある。
カイの足の甲が俺の側頭部にぶち当たった。一瞬脳が揺れて、ぐらりと身体が傾く。続いて振り下ろされた足を必死に掴む。捕まえればこっちのもんだ。
鳩尾を狙って拳を打ち込み、屈み込んだところを顎を捉えて殴りつけた。
カイは思ったよりずっとタフだった。一瞬もひるまず、同じ数だけ殴り返してくる。
蹴りだけかと思っていたが、拳の打ち込みの威力も半端なかった。
びりっと鋭い音をたてて、俺の袖がちぎれた。
――ショーヤにもらった学ラン!
こんな時だというのに、俺の頭をかすめたのは脱いでおけばよかったという後悔の念だった。だが、おかげでかっと気合が入り直った。
手を離さない俺を容赦なく殴ったり蹴ったりしてくるカイの隙をついて繰り出した拳が、顎先に命中した。カイの身体が沈む。
追撃に蹴りを繰り出そうと一歩下がった時、俺の踵が引き摺っていた自分のズボンの裾を踏んだ。
見事にひっくり返って背中を地面を打ちつけ、仰向けになったまま夕陽に染まった空を見上げる形になった。
――ズボンも脱いでおけばよかった・・・
地面に転がった俺をカイが一瞬驚いたように目を見開いて見下ろしたが、ためらいなく腹を踏みつけてきた。
「こらー!どこの中学の生徒だー!!」
校舎から教師が二人走り出てきた。だが、校舎の端で手を振り回しているだけでこちらまでたどり着く気配はない。
その代わり、近づいてくるパトカーのサイレンが聞こえる。
「やばっ、マッポだ!散れ!」
みんな心得たもので、てんでに四方に向かって走り出した。
俺も起き上って走ろうとして足首の痛みにみっともなく呻いた。
さっき転んだ拍子に捻ったらしい。他の個所の痛みは我慢できるが、引きずった脚では走れない。
「こっち来い!」 カイが腕を引っ張った。おかげでちぎれた袖がすっぽ抜けたが・・・
カイは傍らに置いてあった原チャリのエンジンをかけると俺を後ろに引っ張り上げた。いわゆる主婦御用達スクーターのパッソルだったが、走り出すとびっくりするようなスピードで夕暮れの道を走り抜ける。
外側の車体はパッソルだが、中身は当時最速のスポーツタイプのジョグに改造されているに違いなかった。