1986春-2
「脱いで」
糸を口に咥えて俺にそう言いながら、ダブルの眼は部屋の隅でこそこそとズボンをはき替えているトラ(高橋虎之助)を見逃さなかった。
トラはハガと同じに一個下だが、詰襟の学生服を着ていなかったら小学生にしか見えない。
未熟児で生まれた息子を大きく強くしたいと望んだ親が虎之助などというたいそうな名前を付けたらしいが、本人にとってはさぞ荷が重いだろう。
ダブルに睨まれているのに気づいて、トラが真っ赤になって慌ててはいていたズボンを脱ごうとじたばたしている。
「トラ、そんなのどうやったって、無理――」
先輩の置いていった幅広のタック入りのボンタンは確かにトラには裾をひきずる長さだ。
「お前は【ベンクー】に行って自分に合ったのを買った方がいいよ」
手直しでは間に合わないと判断したダブルがずけずけと言ったが、トラの親が標準以外の学生服を買ってくれるとは思えない。もっとも、早く大きくなれと願って身の丈より大きい学生服を買い与えているから、トラの今着ているだぶだぶの標準服も見ようによっては長ランのボンタンに見えなくもない。
いじめられっ子だったトラを、同じクラスになったハガが見かねて(虐めていた奴らをぼこぼこにして)子分にしてから、そのまま俺たちの仲間にくっついてきた。
「なぁ、短ラン、ボンスリって、ああいうやつ?」
部屋の隅からふらりと立ち上がって窓枠に寄り掛かりながら校庭を眺めていたケータ(井上恵太)振り返った。
多分そういう服装が一番似合いそうなのがケータだろう。当時はイケメンなんて言葉は無かったが、いい男だというのは誰しも認めるし、女には圧倒的な人気があった。ジャニーズ系の可愛い顔立ちと髪型で、何より女に優しくてまめな軟派の極致で、バタなんかはいつも顔を顰めてケータを睨んでいるが本人はけろりとしたものだ。
「なぁ、ああいうのが流行ってるのかぁ?」
ケータの舌が少し縺れているのはさっきまで教室の隅でキキとシンナーを吸っていたせいだろう。
キキ(児玉貴規(たかのり))はまだ壁に背を凭せ掛けて座り込んだまま、ビニール袋を口から離さないでいる。
学校では止めろと言っても、もうほとんど中毒になっているキキには無駄なことだ。
「なぁ。なぁ・・・」
ケータがしつこいので、俺もダブルも窓に近寄って外を見た。
卒業式の終わった後の妙に閑散とした校庭の中央に、原チャリ(50ccバイク)を傍らに置いた一人の中学生が立っている。
それほど背は高くない、痩せた体型だが、学ランの短い上着と裾の窄んだズボンの妙に軽やかな立ち姿だった。
短く刈り込んで立たせた髪は夕陽を背から浴びて金色に近い輝きを放っていた。
「なぁ。ああいうのが流行りか?」
しつこいケータにダブルが頷いた時、教室の戸口でさっきより増えた声が俺を呼んだ。
「ヒロさん!」 切羽詰まったその声にみんなが一斉に振り返った。
「うちの頭(あたま)を出せって!」
「殴り込みだよ!香西中だ!」
遅くまで残って卒業式の後片付けをしていた学級委員連中が泡を食って声を震わせている。
「何人だ!」
バタはもう両手の指の骨を鳴らしていた。眉を細く剃ってアイパーをかけ、額にソリコミをいれた本格的不良(ワル)スタイルだから、真面目連中はそれだけで尻込みをした。
「一人だけ。頭とタイマンはらせろって言ってる」
みんなの視線が俺に集中した。
「香西の新しい頭って誰だ?」
香西中学はうちの中学から一キロしか離れていない隣だ。比較的穏健な噂しか聞こえてこない。
「多分、カイって奴じゃないかな・・・俺らとタメだけど、卒業した三年があいつには頭が上がらなかったみたいだ。かなり強いって噂だよ」
すぐに答えるそらは情報通だ。
上に兄貴が二人いるので、あちこちから情報が入って来るらしい。
ちなみに、兄二人の名前が陸、海なのは自衛隊に入り損ねた親父さんの趣味だ。
「俺が行く」
バタが走り出しかけるのを止める。
一人で乗り込んできた相手に、代わりを出しては俺が笑いものになる。
俺とバタのどっちが強いかと言ったら五分かもしれないが、俺にはバタにない後ろ盾があった。
まあ、本当のことを言えば一番強いのはキキだ。シンナーを吸っていない時のキキは強い。シンナーを吸っている時はもっと強い。
ただ、バーサーカー(狂戦士)になってしまうので味方にとっても脅威になる。
カンフーシューズの踵を入れ直して、俺はちらっと戸口に固まっている委員連中を見る。10人前後の半分は女が混じっていた。
顔ぶれを確認して、二階の窓から飛び降りた。このくらいの格好はつけさせてもらおう。
「ヒロさん!」
窓から身を乗り出すようにしてみんなが叫んでいたが、俺はそのまま校庭の真ん中で待っている相手に向かってゆっくりと歩いて行った。