135 文字盤改完成
「わぁ…… 綺麗になったなぁ。」
昼食前に見た埃塗れの部屋は、文字通り一掃されている。元は真っ白だったのに、埃で薄黒くなっていたカーテンはライトグリーンの新しいカーテンに好感されている。その窓から射し込む陽の光は、作業台においてある工具セットを照らしている。
「あの時のままだな。」
日光を反射する彫刻刀を指でなでる。あの頃は手に余る大きさで使いにくいと思ってたのに、今では丁度良い大きさなった。感傷と期待に心奪われ、自然に笑みが零れてしまう。
「何を作るんだ。」
相棒に声をかけられ、自分の世界から帰ってきた。相棒に目を向けると困ったやつだと言いたそうな目でこっちを見ていた。
「作るものは変わらないよ。さっき母上に見せた文字盤だよ。」
相棒は顔をしかめる。そう、作るものは何も変わらない。むしろ、さっきの文字盤に改良を加えるのだ。
「確認だけど、木彫り文字が見え辛いんだよね?」
「ああ、さっきも言ったが、その認識で間違いない。何とかなりそうなのか?」
「大丈夫だよ。多分だけどね。それよりも、相棒は文字を読んだ事はあるのかい?」
「形として多少は認識してるが、組み合わせたときの意味は知らないな。さっきも言ったが、文字はステファンが読書きしてたから存在を知ってる、しかしこの体で文字を認識するのはなかなか骨でな。ついつい覚える機会を失していたのさ。」
今まで文字を使うことが無かった上に、文字が見え辛いのなら、文字が読めなくても不思議じゃない。文字盤の改良が終わったら相棒にも協力してもらわないといけないな。
その前に、相棒に確認してもらわなきゃいけないな事がある。これが失敗するとはっきり言って手詰まりになる。
そうなったら刻印の剣舞士を探して助けてもらうしか本当に手が無い。彼女も俺の家庭教師の1人らしいので、いずれ再会する日が来るのだろ。俺が旅の途中に刻印の剣舞士から色々刻印の技術を習ったのは、俺がこの業界では一人前の刻印士として認識されているからである。もっとも、刻印士の証は左手の甲に焼き付けているし、父上からの依頼もあったので気にせず仕込んだのだろう。
今思えばまだまだ聞いておきたい技術が沢山ある。後で街中に居ないか相棒と散歩がてら探しに行こう。
「それじゃぁはじめようか。」
意識を課題に戻して、戸棚からほのかに輝く液体を詰めた瓶をとりだす。このほのかに輝く液体が魔素水』だ。
「相棒にはこれがどういう風に見えてる?」
瓶を相棒に近づける。魔素水』はちゃぷちゃぷと波打ち、瓶の中に波紋を広げている。
「どう見えると言われるとなんとも答え辛いな。しいて言うなら、光る水が容器の中で揺れてると答えよう。」
どうやら、俺と同じ認識のようだ。これで第1段階はクリアだ。
「それなら、こうするとどう見える?」
新品のガラスペンを魔素水』に浸して、紙の上に丸を描いて見せた。
「光る丸に見えるな。」
「それならこれは?」
1歩1歩成功に近づき、自分が徐々に興奮しているのがわかる。文字板の「а」をガラスペンでなぞる。
「また難しい形だな。小さい丸にぐにゃりとした線引っ付いてるように見える。……これが文字か?」
我が意を得たりと、相棒が嬉しそうに俺の顔を見る。俺はその回答に大きく頷いた。
「じゃぁ、これは?」
次々に文字盤のキリル文字をなぞり、1文字づつガラスペンでなぞって行く。また、『ご飯』等の単語も一緒になぞる。
「これでどうだ?」
ニヤリと相棒と視線を交わす。
「正直、今まで人間はなんて見辛い技術を使って記録を残したり、手紙をやり取りするのだろうと思っていたよ。しかし、これは世界が変わるな。」
相棒の言葉に俺は大満足だ。
「後は、この文字を組み合わせると『ご飯』」のように意味を持った言葉になるんだ。」
しきりに文字に感激している相棒に俺はひとつの事実を告げる必要がある。
「これはきっちり勉強が必要だね。」
「獣の身でありながら勉強か。結構無茶を言うな。だが、あの者達と意思の疎通をする為にはそれしか手段がないのだろう? では、やるしか無かろう。」
諦めとも取れる発言で、相棒の勉強に対する言質はとった。
「これで準備はすべて整った。早速母上に提出しに行こう。」
相棒と一緒に工房を出た。ドアを閉める前にもう一度部屋の中を見る。なつかしのあの日に戻れた事実をかみ締めながら、ゆっくりとドアを閉め先に行く相棒を追いかけるのだった。




