130 認識のすれ違い
「それじゃぁ、食事が終わったら、早速本弟子の刻印を刻んでもらって良いですか?」
期待に満ちた笑顔でこちらを見る彼女。その突拍子も無い発言に、思わず口に入れたばかりのワインを思わず吹き出した。
「ゴホッゴホッ……。いや、ちょ……ちょっと待ってくれよ。何でそうなる。」
気管支に飛び込んだ液体の所為で咽ながら思わず突っ込みを入れてしまう。対象にキョトンとした眼で俺を見つめながら嬉しそうに答える。
「え・・・? だって先ほど『家庭教師な刻印士見習に乾杯!』ってしましたよね?」
「ああ。だから見習いだろ。」
見習いとわかっていてそんな事を言うとか、ユーモラスなのだろうか。
「はい、見習い弟子ですよ。なので弟子の刻印を刻んでください。」
一瞬暗い顔をしたが、自分の言いたいことを言い放つと良い笑顔で左手の甲を差し出した。ユーモラスではなく天然の様だ。
「いやいやいやいや、ちょっと待ってくれ。見習い弟子には刻印はつけれない。師弟の刻印を刻むのは本弟子からと決まっているんだ。」
嘘ではない。見習い弟子は丁稚奉公の世界だ。その中には手癖の悪い者もいる。それら全ての責任を師匠である刻印士に取らせると、刻印士が一切の見習い弟子を取らなくなる。在野に埋まった有能な人材がコネも無く見習いという立場からのし上がり刻印士の地位を高めている現状を鑑みると、刻印士に負担をかけることが出きない。見習いの責任は師匠が取る必要が無いのが刻印士の世界のお約束だ。なので、見習いには師弟の刻印を刻まないのだ。
「見習いと本弟子って何か違うんですか?」」
自分の夢が叶うかどうかの瀬戸際と言うこともあり、見習い弟子と本弟子に差異があることにどうにか気づけたらしい。
「簡単に言うと、見習いは雑用係り。本弟子は知識の後継者だよ。」
弟子になることで師匠の知識を受継ぎ、その門派を後世に連ねるのが弟子の仕事だ。見習いは師匠が日常生活で困らないように雑用一般を引受け、炊事洗濯や酷い所では夜伽までさせる刻印士も居るとか。もちろん俺はそんなつもりは無い。
「えーーー!! 雑用なのーーー!?」
現状を理解した騒音発生器はそれから暫くの間延々と文句を言い続けた。俺は聞き流しながら食事を続ける。もちろん現実逃避で食べているのではなく、どうしたらこの騒音発生器を黙らせる事が出来るかを考えていた。
父上の紹介で今後俺の家庭教師をする人だ。下手にお茶を濁しても後々の人間関係に響く。かといって。よく知らない状況で本弟子にするなど責任が取れない。最悪の事態は、勝手に刻印を作成暴発させ、連帯責任でまた炭鉱に戻される可能性もある。本弟子にする以上はきちんと見極める事。これは刻印士協会からも指導がある全ての刻印士にとっての基本であり、自衛手段の一つでもある。
食事を終えても、騒音は止待ってくれない。結局考えは何も纏まらず、食事の味を楽しむことが出来なかった。如何したものかとため息をつく。『普通に考えればこれだけで見習いを首にしても怒られないよな。』しかし、父上の紹介という手前そんな扱いをして不都合なことが起きても悪い。そもそも俺の家庭教師として父上が手配してくれたと言うことは、何らかの繋がりがある可能性が高い。見習い弟子の苦情が五月蝿いからと言って、父の顔を潰すわけにはいかない。
「これ、フォリシア。ダーシャ様に失礼ですよ。」
思考の迷路に嵌っていると、不意に扉の方から叱責が飛んできた。振り返るとハウスキーパーの集団が音も立てずに食堂に入ってきた。カイゼルを先頭に2列縦隊で並び無駄な動きを一切していない。さすがはグリエフ家のメイド達。指導が行き届いている。
「執事、終わったのかい?」
「はい、ダーシャ様。大変お待たせしました。」
いやいや、あの埃の量をこの30分足らずで終わらせたんだから、ぜんぜん待ってないよ。むしろ今日1日かかったとしても『早く作りたいけど仕方ないな』とあきらめた自信がある。
「さすがは、ウチのハウスキーパーの皆さんだ。あの汚れをこんな短時間で終わらせるなんて吃驚したよ。」
「いえいえ、私たちはダーシャ様のお役に立つのが仕事です。これからも何か有ればすぐにお申し付けください。」
爽やかな顔をした老紳士にそんなことを言われ、最近まで炭鉱で働いていた身としては仕事に対する情熱について反省をしたくなる。お礼にコックに頼んで甘い焼き菓子でも用意しようと考えた。
「さて、フォリシア。何か申し開きは有りますか……?」
やっぱりソコに戻るか。俺的には何故『フォリシア』と呼び捨てにしているかが気になる所だ。さっき部屋に案内したときは『フォリシア様』と呼んでいた。フォリシアは顔を真っ青にして言い訳を考えているようだ。
「無いようですね。」
「はい……。でも、さっきはダーシャ君が……。」
「そもそもソコからが馴れ馴れしいのです。」
ピシャリと水をかけたようにフォリシアを黙らせる。そして俺に頭を下げる。
「ダーシャ様申し訳ありません。私の指導が足りないばかりにダーシャ様にご心労をかけてしまいました。」
急展開に頭が付いてこない。何故彼女の件でウチの執事が俺に謝罪するんだろう。
「ダーシャ様にはまだお伝えしていませんでしたが、フォリシアは私の姪でございます。姪の無作法は血族である私の責任にございます。どうぞ鞭打ちなり拷問なり、ダーシャ様のお気がすむまでこの老体に吐き出してください。しかし、罪を犯したとはいえ姪はまだ嫁入り前の女子です。姪に暴力だけはご勘弁ください。」
芝居がかったような仰々しい口上で再度頭を下げる執事。それにつられて頭を下げるハウスキーパーの集団。それに吊られて問題児も慌てて頭をさげる。姉代わりの存在は頭を下げながらも俺を睨んでいるように見える。いや、俺が悪さしたわけじゃないよね?
「執事さん、そんなことしないでいいですよ。ほら、みんなも頭を上げてくれ。」
声の調子で俺が怒っていない事が判ったのか、みんなほっとした顔で頭を上げる。特に睨んでいたメイドは、さっきまでの鬼の形相が天使の笑顔に変わっている。目つき一つでこんなに変わるとか、マーシャ怖い娘。




