102 大切なモノ
102
「もー。せっかく、生き別れになったご主人様の生還を喜ぶ侍女の真似をして遊んでたのに。残念。」
ほっぺたをプクーっと膨らませて苦情を言うマーシャ。
「残念じゃないよ。正礼服を用意したところから、全て罠だろ。」
畜生。抱擁された時に、一瞬ときめきかけた俺の純情な感情を返して欲しい。
「あらら、そんなに疑い深くなっちゃ駄目よ。幼き頃の初恋の女性に対して疑うのは良くないわよ。」
「誰が初恋の女性だよ。」
「わ・た・し。」
屈託の無い笑顔を見せてはっきりと言い放った。
俺の中のマーシャはもっとしっかりした、姉として慕える女性だったはずだが、気のせいだったのだろうか。それとも、5年という歳月が彼女を変えてしまったのだろうか。
「まぁ、冗談は置いておきましょう。」
コホンと咳払いをすると、乱れたエプロンと姿勢を正した。
「お帰りなさい。ダーシャ。」
改めての帰還をねぎらう言葉を笑顔で言われた。
「ただいま。マーシャ。」
作り物でない、本心からの笑顔。幼い頃からいつも見せてくれた懐かしい笑顔だ。この笑顔が罠ならもう彼女を信用できないな。
「この5年間大変だったでしょ。でも私は褒めてあげる。」
何だかんだ言って、彼女も心配していたのだろう。俺を専属で面倒を見ていた、まさしく姉弟みたいな関係だった。いまさら代官の陰謀でしたって判った所で、この5年間心配した気持ちを取り除くことはできない。
「だって、バディちゃんの肉球が昔のやわらかい、ぷにぷにしたままですもの。」
あれ? 何か変な理由が聞こえた気がした。
「ダーシャの事だから、炭鉱に篭っていても、洞窟と大差なく生活して元気に帰ってくると判っていたのよ。でも、問題はバディちゃんよ! 8年前のあの日から3年間、肉球を触り続けた私は心配してたのよ。あのぷにぷにした肉球が、炭鉱というすさんだ環境で堅くなるのではないかと! でも大丈夫だったわ。さっき洗ったときにこっそり触ったんだけど、昔と変わらない、ぷにぷにした手触り。これを5年間守りきったダーシャは本当に偉いわ!」
褒められている理由がいまいち釈然としないけど、まぁ良いだろう。彼女は彼女なりに俺の帰還を喜んでくれているはずだ。
確かに、相棒の肉球はなぜかやわらかいままだ。ついでに言うと毛皮の柔らかさも一般的な狼とは一線をかくものがある。理由はきっと、魔素を取り込んだ影響だろう、それとも月から降りてきたという事で何か別の理由も有るかも知れない。まぁ、あの毛皮の暖かさが、炭鉱の夜の寒さから守ってくれていたので特に問題にする必要は無いだろう。
「あ、ちゃんとダーシャの事も心配してたんだからね。」
考え事をしている姿をあきれられたと捉えたのだろう。慌ててフォローを入れるマーシャはかわいかった。
「いいよ。気にしてないから。俺はあの毛皮に、凍える夜から守ってもらったしね。」
「奥様が聞いたら『ずるい!』って大騒ぎしそうね。」
「まったくだ。」
お互いに顔を見合わせて大笑いした。この、全ての緊張感を忘れた空気で大笑いをするのも久しぶりだ。帰ってきたんだって実感がようやく沸いて来た。
「積もる話は食事のときにしよう。マーシャ、着替えを出してもらえるか。」
そろそろマーシャの用意した悪戯から開放されたい。
「何を言ってるのダーシャ? 貴方は今夜の主役よ。主役が正礼服を着ないなんてありえないでしょ。それに、その服装は奥様のご指示なので苦情は奥様にお願いします。」
完全に悪戯と思っていた期待を裏切る言葉に、俺は膝を折って地面に倒れ込むしかできなかった。




