第8話 上手な鼓動のごまかし方
金網の向こう。
黒に揺れる人影。
聞こえた声は、確かにあたしの名を呼んだ。
「ゆい!」
走りよってくるその姿は、やっぱり犬のようだった。
「なんで、こんなところに、」
「何してんだよ! こんな遅くまで」
いいかけた言葉は、走りよってきた彼によってかき消される。
遠くからでは分からなかったその表情が、近づいたことによって見えてきた。
どうやら、怒っているらしい。
「お前な、女が夜にひとりで出歩くな! あぶねえだろうが。そもそもお前には危機感がかけてんだよ。何かあってからじゃ遅いだろ。お前だったらわかってんじゃねーのか、そんなことくらい。まったく、だから一緒に帰ればいいのに」
心配しているのは分かった。
だけど、最後のひとことにカチンときた。
一緒に帰ればよかったって、なんなの。
そんなこと、ヒトコトも言わなかったくせに。
飛び散った火花のせいで、勢いがついた。
気がついたときには、もう勝手に口が動き出していた。
「昨日、先に帰ったのは誰よ! アンタじゃないの! 帰ってくるのが遅いだなんて言われたくないわ。自分だって充分遅かったくせにっ」
夜にこんな大きな声を出して。
迷惑とか、そんな常識的なことが一切頭に無かった。
「何してたのかしらないけど、あたしに愛想つかしたのなら心配なんてしないでよ! アンタだってひとりで帰っているんだし、あたしがひとりで帰ろうがなにしようが関係ないでしょ!」
自分で口にして、自分の言葉に痛みを受けている。
やっぱり素直になんてなれない。
いいたい言葉はもっと違うところにあるのに、嫌な言葉しか出てこない。
「もう、あたしにかまわ、」
「ゆい」
ノンブレスでまくし立てるあたしをさえぎる声。
目の前の金網にかけられた指が、揺らして音を響かせた。
肩で息をするあたしの正面で、泰斗が顔を押さえている。
ぽつりと、何か聞こえたけれど、それはあたしの耳までには届かなかった。
「なっ、によ! いいたいことがあるならいいなさいよ!」
「なあ、端のほうに穴開いてるからさ、こっちこいよ」
「なんでよ」
「いいから、はやく」
泰斗が指を差した先。
たしかに人ひとり分くらいの穴が金網に開いていた。
「はやく。でないと俺、どうなるかわかんねえ」
言葉の意味がまったく分からなかったけれど、あんまりにも急かすものだから言われるがままその穴に近づいた。
さっきまでの怒りと興奮は、彼の訳がわからない言葉で鎮火。
ひどいことをいったのに、そのことについてのコメントはないんだろうか。
金網に引っかからないように足を向こう側に出して。
すると、穴の向こうで泰斗が手を差し出してくれていた。
しぶしぶその手につかまって、体を抜き出そうとすれば。
「ちょ、あぶなっ、ひっぱんないで、」
手に触れたとたん。
きつく握られて、力任せにひっぱられた。
勢いがついた体は前に倒れこみ、泰斗の腕の中へ。
そのまま強く抱きしめられて、息が止まるかと思った。
「やべえ、まじやべー」
顔の横で、泰斗の声がする。
なにがいったいやばいのか。
それよりも、この状態のほうがやばいと思うのはあたしだけなのだろうか。
「はな、し、てよ!」
「はいームリ。絶対ムリー。俺、もういまヘブンだから。天国行きだから」
もがけばもがくほど羽交い絞めにされて。
泰斗の顔があたしの肩にうずめられて、首筋をくすぐる。
なにこれ。
熱くて、ぞわぞわする。
おかしな声がでそう。
「俺もう、絶対ひとりで帰んねーから。ゆいより遅くならないようにする。それと」
「はあ」
「後で、お前の呼吸が止まるくらいちゅーする。これ絶対な。まずはタネ明かしが先」
熱くなりすぎた頬に落とされたキスと、恥ずかしい宣言。
異論を唱えることも出来ないまま、腕を引っ張られた。
訳が分からないまま歩きはじめてた彼を小走りで追う。
いまは、とりあえず。
指の先まで響くこの心臓の音をどうやってごまかしたらいいのか、必死に考えることにした。




