止まった時間
冬夜と彼の父親が何か話しているのが聞こえる.それはどちらも低く呟くような話し方で,青たちはそれぞれ自分の前にある資料に目を落としながら,誰も声を出すことができずにいた.聞こえてくる声は,会話の内容がわかってしまうよりも,もっと「聞いてはいけない」ような気持ちにさせる.
そのうち話し声が止むと,玄関からこちらへ足音が近づいてきた.
「こんばんは.」
冬夜の父親の声に,青たちは一斉に振り向く.
「こんばんは!!」
3人の中で青の声だけがやたら大きい.それまでの緊張がそのまま外へ出てきてしまったようだ.
「お邪魔してます.柚木くんと生徒会で一緒の須藤といいます.」
さすがに光貴はこんなときも落ち着いている.
「奥村です.お邪魔しています.」
「あ,深月と申します!夜分にお邪魔して申し訳ありません!」
二人に続いて,青も慌てて自己紹介をする.
「いつも冬夜がお世話になっています.生徒会の仕事ですか,大変ですね.頑張ってくださいね.」
青は下げっぱなしだった頭を上げ,そっと冬夜の父親の顔を見た.
その顔は,文字通り「未来の冬夜」という感じだった.切れ長な目も,すっと通った鼻筋も,そして口元までそっくりで,きっと冬夜が年を重ねればこうなるのだろうとぼんやりと思った.唯一違うのは,笑顔と穏やかな雰囲気で,普段の冬夜には見られないものだ.
ただ,その穏やかさに,なぜかまた青は違和感を感じた――この家を見たときと同じ違和感を.
私たちに声を掛けた後,彼はリビングを出ていった.
「悪いな,ほとんど帰ってこないんだけど,今日に限って.」
「いや,むしろいいのか?せっかく父さん帰ってきてるのに.」
「時間も遅いし,私たちそろそろ失礼しようか」
「うん,そうだね」
涼風の提案に青もうなずく.
「いやいいよ.このままだと期限に間に合わないだろ.親父のことは気にしなくていいから.あ,でも奥村と深月は時間大丈夫か?」
「えっと…今何時?」
「9時半」
「ほんと?じゃあそろそろ私まずいかも.」
涼風が答えた.親が少し厳しい人なのだということを,青は以前涼風から聞いたことがある.ただどっちみち,9時半となれば大抵の親はいい顔をしないだろうが.
「じゃあ俺ちょっと送ってくるよ」
光貴がそう言って立ち上がる.
「深月の家は大丈夫なのか?」
冬夜が青に尋ねた.
「あ,ちょっと私の家変わってるというか…….放任主義を極めちゃった感じで,何時に帰っても大して何も言われないんだ.冬夜のお家が大丈夫なら,私はもうちょっと仕事してくよ」
どう説明していいかわからずに,変な笑顔を作りながら青は答えた.
――放任主義を極めちゃった,って何だ.
自分で自分につっこむ.
言いながら心配していたのは,同情を誘っているように聞こえないかということだった.同じ会社に務める両親は,二人ともいつも忙しい.とはいっても別に,よくドラマなんかにあるように,誕生日を一人で過ごしながら泣いたりとか,眠れない夜を過ごしたりとか,そんな感じではなくて,むしろ家族3人がそれぞれ自由に生きているという感じだった.小学生の頃から鍵っ子だったし,高校に入ってからはその「自由さ」が定着した.もちろん小学生の頃は寂しいこともあったが,今はむしろその状況がありがたい.
「そっか.じゃあ帰り気をつけてね.最後まで一緒にやれなくてごめん.冬夜,今日はありがと」
涼風は光輝と一緒に玄関へ向かった.
二人が出ていった後,リビングになんとなく気まずい空気が流れた.冬夜も喋ろうとしない.
「えっと……私ちょっと自販機で飲み物買ってこようかな.冷たいもの飲みたくなっちゃった.」
言いながら,自分でおかしいことを言っているのに気づいたが,光貴が戻るまでこの雰囲気に耐えられそうになかった.
財布を取り,立ち上がる.
そして青が玄関へ向かおうとしたとき――
冬夜が青の後ろ手を掴んだ.
あまりに突然のことで,冬夜のほうを振り返るまで,自分たちが今どんな状況なのか青にはわからなかった.振り返ると,そこに,同じく自分のしていることがわからないというような表情をしている冬夜の顔があった.
ただ,掴まれた青の腕には,たしかに彼の温度があった.
「あ……こんな時間に一人で外に出ないほうがいい.買いに行くなら俺も行く.」
「え,…うん.じゃあ…」
本当は二人きりの時間が気まずくてあんなことを言い出したのに,それすら忘れてしまうほど,青は動揺していた――掴まれた腕と,何かを訴えるような彼の瞳に.
夜道を二人歩きながら,青も冬夜もお互い言葉を出せずにいた.
足音だけが響く静けさが苦しい.
この間二人で歩いたときに感じた風は,ほんの少しのあいだに季節を変えようとしている.