9、兎の日
ここまで読んで下さった皆様に感謝。
功徳のある方たちだと思っております。
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「ちょっと話したいことがあるの」
授業が終わってからの相戸夕の言葉だった。
あの体育の日以来僕たちはよく話をするようになった。主に放課後。
それは当然で授業中は基本誰しも授業を受けていて、唯一と言って良いような会話の場は化学実験の時でそれは出席番号で決まっているから実験班としか話さない。昼休みは男友達と一緒に弁当や食堂でランチを取る。
だから消去法で残るのは放課後、部活をやらない僕は家に帰っても本を読んだりゲームをすることがほとんどなので断る理由もない。
もう日課になってしまった事だった、放課後。相戸夕と一度教室から出て近くの階段を椅子代わりに、大きな窓から夕陽を見ながら話していた。
然しながら今日は休日であった。彼女の一方的な呼び出しに、僕は学校まで足を運んだのだ、きっと何か学校行事の手伝いか何かの協力だろうと思いながら。
「そう言えば、どうして僕には毒……他の人には言わない様な事を言うんだい?」
「貴方ならば良いかなって思えたのよ、私、見る目はあるのよ。だって実際貴方は誰にも言っていないじゃない」
相戸夕は口の前に丸めた手を当て頬杖を付いた。そして大きな窓ごしに夕日を見ながら、僕の話を聞く準備をした。
「言える訳ないだろ。言っても誰一人信じないだろうし、その結果クラスにいる半分の女子に白い目でずっと見られ続けられるリスクを背負う、僕に得が無いじゃないか。何よりも僕もこういった話を女子と話すのが新鮮な感じが嫌いじゃないし、話すのが楽しいから、この友情関係を壊すような事はしないさ」
「なんて言うか……長話のわりに内容が薄っぺらね。正直がっかりだわ、私貴方を過大評価していたのかも知れない……訂正しないとね」
と、言って。彼女は一回区切った。
「詰まらない貴方に私から貴重で斬新なアドバイス」
嫌な予感しかしねえよ。
「いっそ、クラス中の人間から軽蔑されなさい、そうだ、良い案があるわ。明日は全裸で登校しなさい、よくネタとか笑いの種としてはありがちだけど実際にやった人はいないはず……you are the first one.」
ビシッと人差し指を僕の眼球数センチ前まで突きたてて、そして何故か英語で言われたのだった。
貴方が最初の人……日本語にするとなんと甘美な響きなのだろう。
そんな事を実際に言われたいと言う正直な欲求が僕には今まであったが、今それが砕けた。
違うだろ、その甘美で切ない男性にとっての希望の言葉は、もっと何て言うか、こう……恥じらいと好奇心とが九対一でブレンドされて、頬を染めながら可愛らしく言って欲しかった。
そういうシチュエーションで聞きたかった。
そんな考えをコンマ一秒で纏め上げ、僕は反論した。
紳士である僕が反論をしたのだ。
「僕はそんな変態じゃねえよ」
「貴方がその言葉を吐く直前の思考を読む限り、結構な変態よ。妄想に取りつかれた異常者と言ったところね。女性から見たら……」
「お前はエスパーか!」
「馬鹿ね、貴方童貞でしょ」
馬鹿呼ばわりした揚句、なんとこの紳士を童貞呼ばわりしやがった!
まあ否定はしないさ、どのような事であっても最初から否定せず受け入れる精神を持つジェントルメン、そう。それがこの僕、滋野新剛。
寛容の精神。
そんな内なる最終防衛ラインを作りながら彼女の眼を見ると……。
彼女の眼が輝いていた。さすがドS、どんどん追い詰められているぞ僕。駄目だ、このラインを越えられたら僕は自分を保っていられなくなるかも知れない。そうこの後ろ、振り返ればはそこに在るのは崖なのだ。頼むこれ以上貞操にかかわる発現を止めて頂きたく存じます。
崖の上だ、今僕が立っているのは崖の上なんだ、いわゆるポニョなんだ。
どうしようもない男が崖の上から決心をして靴を揃えて躊躇っている時、足元になんだか気味の悪いポニョっとした物体が今の僕だ。
そして彼女は追撃を開始した。
「貴方、童貞でしょ」
「なんでそんなことまで分かるんだよ!」
死の直前僕が思ったのは、家族の事でも、童貞の事でも無く。なぜと言う疑問であった。
「『何故お分かりになられるのですか美しい相戸夕様』ですって? だから貴方は愚昧なのよ。これはね」
そう言って彼女は唇を僕の耳元まで近づけた。
もうそれは僅かな温かい吐息がうなじにかかる程に……。
そして、囁く。
「女の勘よ」
――そんな馬鹿な!
「それから、貴方の女性を見る目つきね、女の子はねそういうものにとても敏感なの」
あってたまるかそんなこと! それでは年頃の男の子の視線の持つ熱量に女性はみんな焦がされてしまうじゃないか! 特に胸を。
そういえば、筐体ってエッチな言葉だと思ってました。
それなのに僕に胸を焦がす生徒は今のところ皆無である。チョコをくれ! ……いや違うな。
ふっ、と僕は何故かニヒルな笑いがこみ上げてきてしまった。……泣きたい。
いや、ちょっと待ってくれよ。男とは女の持つ重力に魂を縛られている人だ。
僕は断言できる。
だから決して僕個人がそう言った、女性の局部を重視したい訳では無い。
そもそも男がこの様に出来た理由は一つ。攻めるためである、最初のモーションは女性も男からして欲しい。だから神は女には小高い希望の丘を与え、男にはミサイルを授けた。神がお与えになったミサイル。
もう一度言おう。神がお与えになった正直者、男を導き時に誤らせる特異なミサイル。男がその重力に縛られているのは、夜の兄弟が勝手に臨戦態勢をとろうとするからである。時にマグナムと言うが、僕はミサイル派。
そうだ、男女は共に最初はフリから入る、互いの求める役割を演じている。一種の求愛ダンスの様なものだ。見るという行為に罪は無い。だからこの国でさえも女性の制服にはスカートを指定なさった……僕は何の話をしているんだ。
ふう、やれやれ。クールでかつ、いけている僕とした事がついつい取り乱してしまったぜ。
女の勘だって? 確かに相戸夕は俗人ではない、これは事実だ。
そして、僕はこれから細心の注意を払って女性の胸を見なければならない事は必死に必至である。そう、僕の男の部分がそう告げている。しかし同時に彼女はミスを犯した。それは僕に視線に対する敏感さを知覚させてしまったと言う事だ。
これで、人目を気にせずに注意して視姦できるぜ。……あれ何かが引っ掛かるぞ? まあ良いか。
そうだ彼女を見る時は、熊公八公ではない彼女を見る時は油断は禁物だ。
油断するなよ僕、彼女は只者ではない。
――そうか! 僕は今、彼女の事を只者ではないと思った。この分かり方が無意識の内に反感になる。そうかこの分かり方がオールドタイプと言う事なのか。
女性は皆ニュータイプ(男の視線限定)みたいな。
僕はこの今日と言うこの日に二つの人類の革新と心理を見たのだった。
「なに馬鹿な事を考えているの、卑しい犬が!」
彼女の軽く嘲笑う目線が僕の男として生まれた究極にささる。
若干、相戸夕の顔から血の気が引いている様に見受けられる、それ程きっと彼女は僕を見下しているのかもしれない。
ドン引きと言うやつだ。
彼女の長めの髪が最後の夕日に照らされて、甘いにおいを放った時、事態が変化した。
空には早くも月が昇っていた。
その月は濁った光を誰にも気づかれないように放っていた。
「それから、私ね、貴方に言……っいた……痛い……」
突然、彼女は頭を押さえながら、その場にうずくまってしまった。
強化人間なのか? と一瞬と惑った。
「馬鹿、違う、あのね……貴方をね……」
空気が変わった。
風が吹いた……気がした、それは首元に。
一瞬、僕は彼女と関係のない教室の方を見てしまう、僕のクラス……。
虫の知らせ。
駄目だ、まずは彼女をどうにかしないといけない。
つい先刻より、夕の顔色が悪い、いや、異常だ、こちらが青ざめてしまう程に顔は青く変色している。
僕は全身が冷え込むような感覚と、腹に直接炎を炊かれた様なアンバランスな感覚に襲われた。
「ちょっと待ってろ、保健室」
言い終わる前に僕は夕を抱き抱えていて、すでに保健室に向かった。
普通じゃない、普通ではないのだ……。
辺りを彼女、相戸夕ではない他の何者かの甘ったるい空気が支配していた。
異界。
何故気付けなかった。
相戸夕は既に僕の胸の中で御姫様だっこ状態である。僕の手が触れている彼女の皮膚からはどんどん体温が奪われている。こんな短時間にあり得ないほど彼女は冷たくなっている。
無論、進む先は保健室。
「私ね、こう言うのには敏感なのよ、でも抵抗力が無いから、普段は気配がしたら逃げるのに……きっと滋野君とのお喋りが楽しすぎたのね」
「いいから、後でいくらでも話は聞くから、頼むから今は喋らないでくれ」
「貴方といると、本当に楽ね」
真っ青な唇が動いた。
僕は彼女の告げる言葉の全てを聞き、全てを理解できないまま、ひたすら突き進んだ。
言い終わると彼女はそのまま静かになった。
「ああ、頼む、お願いだから。頼む、頼むよ、頼む、……頼む」
何を言っているのか分からない、こんなに混乱をしたのは初めてだった。
冗談じゃない。
階段を下り終わり、保健室の扉を足で乱暴に開け、相戸夕をベットに横たえシーツをかけたた。彼女は目を瞑っていた。
僕と相戸夕以外誰も居ない。
まさかと思い、首に手を当てながら、胸の上下運動を見る。
生きている。
どうやら気を失っているだけの様だ。
暗がりの保健室は彼女を一人にするのはあまりにも悲しく、寒々しい。
ほんの数秒だけ彼女を見てから僕は自分の行くべきと信じる所に向かう事にした。
そして、何も無い、誰も居ない空間に向かって僕は願い事を呟く。
「頼む彼女を……相戸夕を、守っくれ」
僕はハッキリと独り言を言ってから、その場を後にし、原因の元に足を運んだ。
外は既に深夜の様に暗い。
早過ぎる夜が生じるのは大抵、人間にとっては凶事の前兆だと、以前の天使は言っていた。
今教室にいるのは何だ?
兎に角、ずっと放置していた、異界の主に会うしかなかった。
「ごめん。……、俺は行くよ」
相戸夕から視線を切って、背を向ける。
保健室の扉を閉めて僕は走りだした。
階段を三段飛ばしで駆け上がり、目的のフロアに着く。
そして、いつものクラスの扉を観る、何の変哲もない見慣れた板、しかしそんな見慣れた校舎の一部には誰も見たことの無い様な光景があると感じた。
まだ少し馴染んでいない空間に僕は足を踏み入れる。
窓から入射する濁った月光が鋭く眼球を突いた。
つづく
そして、今回も読んでくださってGrazie!