おすぎとピーコは中が悪いと聞いたんですがどうなんでしょうか?
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眼を開けたまま寝て、そのまま起きた事はあるだろうか。
だんだんと視界が回復して、明るいと言う事を元々知っていたかのようにその明度を理解しつつ、眼の奥が痛い。
そんな感じ。
悪夢を見ていたようだった。
ぼんやりと視覚を知覚させ、周囲を確認した。
学校だった。
七階でもあった。
夜。
目の前には件の男と天使がこちらを向いて僕の目覚めをまっていた様子だった。
見計らったかのように、抑揚も特色も無い声が校内に響く。
「おはよう」
そんな事はどうでもよかった。
「天使!」
目の前には天使がいた。
それは決して比喩などでは無い実際の天使、緑色の天使。
彼女は昔、弱弱しく僕の前に現れた天使。
彼女は一の傷も負ってはいなかった。
気が付くと僕はもう既に彼女に抱きついていた。
「……大丈夫よ」
天使は言った。
暫くの間、僕の体はそのまま硬直した。もうそろそろ彼女から離れるべきだけれども、体が言う事を聞かない。死んだように硬直してどうしようもなく嬉しかった。
そして――。
「ちょっと、いいかな。時間が無いんだ」
良く通り、印象の無い文字の様な声がした。
「別にそのままでいいから、聞いてくれ」
僕は力が抜け、ずるずると天使の体にそって床までずりおちた。
「何が起こったか良く分からないだろうから、色々と説明するけれども、あまり細かい事を説明しても意味がないし、幸せな生活が送れる訳でもないから省略するよ」
僕と天使は座った。
男も座った。
「まずはこの斧からかな、ちょっと剛君これ持ち上げてみなよ」
男の隣に墓石の様に突き立っていて、墓碑銘の様な彫刻が立体的に浮き上がっていた。
それは、とても神々しかった。とてもとても、気品に満ちていて、美しくさえあった。
男は斧をペチペチと叩いて早く持ち上げろと催促している。
僕は男の隣に刺さっている斧に手をかけた。
僕は立ちあがって左手で掴み持ち上げる……ピクリとも動かなかった。
そして脇から男がその斧をひょいと軽々しく持ち上げた。
「その左手はね、君に馴染んできたんだよ。だからこの斧を持ち上げるだけの力を失ったんだよ」
僕はその事について何か思う事は無かった。
彼女が、天使が生きている事が良かった。
そして、男は妙に子供っぽい口調であるように感じた。
おや? そう言えば建物の亀裂や、飛び散った血液は無く、僕の腕や目玉も――体は五体満足だった事に今になって気づいた。
「どうでも、――あの……何がどうなっているんですか?」
最初に聞くべきことだった。予想は出来ていたが、事実の確認が大切だと思った。
男はあまり考える事も無く話し始めた。
「最初に言っただろ、目的は君から左手を手に入れる事。神の肉と言われる人間界にいた人間の肉体の象徴の片割れをもとの場所に返すんだ。これが無いと生まれ変わりみたいな感じの、その人間は中々大変だから」
詳しい事はナイショだと言った。
「ほら、最近は猫も杓子も個人情報保護でシュレッダーにする時代だからね」
口調は軽かった。
そして僕の真意を汲み取ったのか、話を続けた。
「だから、君たちの命を奪う必要は無かった。手を出してもらって、斧を出して今の様に引き上げられない事を確認して、君では使えないから下さい、と言うのが当初の目的出会ったのだけれど。そっちの天使の邪魔があってね、因みにそっちの天使の噂も聞いたからね。かなりの大事を起こした張本人が、どんなものかと実践を見てみたかった。だから、あんな展開になったんだよ」
それに……と、言いながら天使に目を向け、耳を明らかに持っているようには見受けられなかったからね。と付け加えた。
「とにかく、必要無いでしょ、重いし……いいよね」
良いと言われてはいそうですかと、渡していいのか僕は分からなかった。僕は天使の顔を仰ぐことで選択をゆだねた。
「ええ、どうぞ。どちらにしても貴方を私どもでは、貴方の要求を止める事は到底出来そうにございませんから」
「そう。もの分かりがよくて助かるよ」
ありがとう、と男。
僕には分からなかった。たくさんの事を聞きたいのに何をどの様に聞きたいのかどんな言葉で思いを伝えるのかが分からなかった。
「弱くなるってどういう事ですか、馴染むという点は分かるけれども弱くなると言うのは理解でき、ません。体の治癒能力も、当初よりはるかに早まっている気がします」
「普通の人間よりも強靭な肉体になる程度だよ、カスみたいな副産物さ、本来の力はそんなものじゃない。それは“神の肉“と言われている代物だよ、実際は昔の王様の肉体なんだけれども、神様以上の存在。それが体の治りが早い程度で済むはずがない。たとえ体の一部でも――」
そこで男は話を区切った。今の段階で言える事として、この男は不必要だと本人が感じた時点で物事の説明をしない様な話し方をする。まるで、僕が既に知っているから必要無いように、まるで、利益というと少し違うが良い結果をもたらす可能性の無いものについて言及する事がしようとはしない。
そして何より、さっきまで話していた事を僕の脳が拒絶するように覚えられない。忘れていってしまう……ものすごく僕たちにとって根幹を支える事を知っていると思われる情報かもしれないのに。
「……」
僕は口を開ける事が出来なかった。話を聞く事に必死になりすぎて、何度も男の言葉を反芻しても忘れていってしまう感覚を纏いながら、それでも必死に記憶しようとした。
「まあ、正しく扱えるのは彼の転生先の人間ぐらいだからね、君では不完全なんだけど、まあ、彼の力の一部は扱えるようだね」
男は斧を手に取り、持ち上げ、軽々しく振り回し小さな声で言った。
「じゃあね、この斧はもらっていくよ」
「まてよ、それは僕にとって必要な物だ!」
待ってくれ、何かが違う気がするし、男の言う事が正しい気もするが、急激な変化を僕の中にある何かが拒んだ。
「大丈夫、これが無くても今までのように生活できるさ、それにね、もう君じゃこれを持つ事は出来ないよ。ほら」
否定。
男は丁寧に僕の前に斧を置いた。
僕は躊躇なく左手を伸ばした。
やはり斧は大地の様で、一切動かなかった。持ち上げることも押す事も引く事も出来なかった。
「言ったでしょ、君に手は馴染んでしまったんだ、もう元には戻らない。君がこれを使えたのは左手だけで其れは、元々の持ち主が使えたってだけで最初から君には荷が重すぎたんだよ」
でも、けれども、一度は手放しても……彼女がくれたものじゃ無いか。
関心なさそうに男は斧を放置して、もう一度僕はそれを掴もうとする。
けれども、それを触る事は僕には出来なかった。
「その斧を手放してはくれないか?」
男は優しく言った。
既に斧を振る資格のない僕に。
「僕は“特別”では無かった」
無表情な声を吐きだした、他の誰でもない滋野新剛という己のために。
そして……剛は斧から手を引いた――手放した。
目の前の男は、今まで僕しか使えなかった、あまつさえ触る事を許さなかった斧を軽々しく持ち上げ、そのまま天使に目を向けてた。
「君は口を利けなくされていたんだよね。……大丈夫、今なら話せる。言いたい事があれば聞こう」
彼には全く嫌味は無かった。
印象や感想、何も無かった。
「結局、私は何も達成できなかったわ。貴方に託しても良いの?」
無欲な天使の願いは一つ。
彼はそれに対してコメントをした。
「駄目、だね」
「なぜ?」
言い終わる前に、緑の天使は叫んだ。
「君はさ、何をしたかったの?」
「それは……」
「なんにせよ、一人ずつやって行くことだね、横着はいけない。いっぺんにやろうとしても上手くいかない、成ったとしても直ぐに砕け散る」
男は僕を指さした。
「彼を頼んだよ、君自身の勉強にもなるだろうから……」
「分かっている、つもりだったわ」
「分かっているじゃないか、それなら良い。……僕の言っている事分かるかい? 君に合わせて話したつもりなのだけれども……」
手に持った斧をプランプランと振り子運動をさせ、時間をもてあましているといった仕草がわざとらしい。
「うーん……まあ、いいか」
笑っていた……と思う。
暗かったから分からない。
そう言う雰囲気だった。
「結局のところ……」
ここで、男は彼女に近づき耳打ちをした。そうすると、天使は僕を見て、目に涙をたくさん溜めて――。
「そうね」
と、言った。
そして、男は思い出したように滋野新剛の顔を見ていう。
「そうそう、それと滋野新君だったね。困った事があれば僕を尋ねに来るといいよ、力になれるかもしれないから。少し変わった世界だけれど『情けは人のためならず』だからね、まわりまわって返ってくるかもしれない……」
僕の不思議そうな顔を見て男は続けた。
「結局ね、言いたかった事は昔の事を考えるよりも、未来の事を考えるよりも、今やる事をしっかりやれば良いと言う事だよ。ありきたりだけど大切な事だ、殆どの人間が達成できない事だし、当然過ぎて気づかない、気づいても注意をしない、注意をしても実行に移すと思っていた以上に困難だから挫折する。ゆえに見落とす。自分を守るために見落とす……人生を、その人間にある可能性も見落としてしまう、勿体ない事だ。君がそこで目を覚ましてから僕が何者かを聞かなかったのは正しい判断だ、そんな事を聞くよりも自分の事をしっかりやらないとね」
それを言い終わると、剛に背を向けて一言。
「君は悪魔じゃあない、天使に唆されたんだ」
と、言う。
――そしてついに、彼は校舎を後にするために歩き始めた。
彼はもう一度だけ振りかえって言った。
「そう言えば、滋野新君には、最近彼女が出来たんだってね」
男は何故か僕にではなく天使に向かって言葉を投げかけた。
「そう」
天使はそれまでの全てを忘れてしまった様な表情で、忍び笑いしながら言った。
そして、泣いていた。
声をあげる事無く堪えながら、号泣していた。
肩を震わせ、手を口にあて、ぼたぼたと床に涙を流した。
「ううう、うっ」
彼女は、ないていた。
「か、あ……」
僕は何かを言おうとしたが、最後までは言わなかった。
いつに間にか、件の男は消えていた。
理解していない事は多い。
結果は残る。
その日の事を、忘れないように努めたが。僕の脳裏にはもう殆ど彼に関する事が無かった。あるのは結果だけだった。
結果しか残らない。
僕の目覚める前。
彼女はそこにいて、相手もそこにあった。
何を話していて、何を理解して、何を感じて、何があったのか。
どの様にこころが動いたのか。
その頃の彼女を僕は知らない。
ずっと知らない。
ただ、ずっと、待っていただけだったのだろう。
昔。
ある人が言った。
きのみを持って僕に言ってくれた。
「この塊は実に自然で堂々としている。塊。これは生そのものでしょう。私は何かでこのものの説明を見つけたい。私はきのみを掴むことは許された。しかし全部は与えられなかった」
これは独り言ではないんです