友だちになったんだから、ここにも学校の先生がいる
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数日経って今日は日常であった。
教室が元に戻ると生徒たちの心情は戻る、表面上は色々な噂があっても直ぐに風化した。自分自身にあまり影響がないからだ。
それは僕も同じでウサギの悪魔になって消えた加藤菜月の席が無いのを見ると、思う所はあるけれども、普段の生活を取り戻していた。
僕はよく部活もないのに放課後まで学校にいた。
相戸夕との会話のためだ。
「ねえ、滋野君明日私の家に来てくれないかしら?」
「え? 土曜日か、まあ良いけれど。 何かあるの」
「今の一言について言いたい事が二つあるから、しっかり聞きなさい。先ずね『まあ良い』って何よ。せっかく恥を忍んで女の子が家に招待するのだから、妥協っぽく答えられると結構傷つくのが女心なのよ、それから、用事か無かったら家に招待してはいけないものなのかしら、そうだとしたら常識の無い私がわるいのだけれども、年頃の男の子ならばエロい妄想をモリモリ想像しながら喜んでいなさい!」
「はい、すいません行かせて頂きます」と即答する僕。
何故か最後は命令口調であった相戸夕だが。その時の僕は女心を知らない馬鹿と言う事で彼 女に許されたようだった。
なぜならば。
「じゃあ、明日楽しみに待っているわね」
と笑顔で返答されたのだから、きっとそうなんだろう。
次の日
言われた駅で夕を待ち、私服のダメ出しを受けながら彼女の家に着いた。
最初に通されたのはリビングだった。
どうと言う事の無い家、平凡な一戸建て、犬などのペットは無くリビングには机に四つの椅 子があり、その他の中流家庭生活にあるであろう品々がそろっていた。どの場所も綺麗に掃除が行き届いていた。
僕にとっては初めての女の家であった。
彼女は指を指す。
「滋野君ちょっとそこで待ってなさいな。お茶を入れるから」
「おかまいなく」
「構うわよ!」
「おお、すまん」
「悪くないわよ」
最後の一言は何故かしっとりとした声色であった。そのまま夕は台所では無く、さっき僕たちが入ってきた扉から出て行った。
そしてすぐさま扉が開いた。
「え?」
声が勝手に出てきた。
入れ替わりにリビングに入ってきたのはスーツ姿の中年の男だった。
相戸の父親では……ない、よね?
僕はすぐさま席から立とうとしたが父親と思しき男は片手で制して、ちょうど僕の向かいの席に座った。
「こんにちは、滋野新剛です」
「ああ、聞いているよ、娘からね」
「……そうですか」
やっぱり相戸の父親じゃねえか!
何と言えば良いのか分からなかった。低音の良く通る男らしい声が印象的だった。
「一つ、話を聞いて欲しい」
父親は言った。真剣な面持ちで言う決心をした男の顔だった。
「はい」
「すまない、すこしばかり意地の悪い話になってしまうと思うが、気を悪くしないで欲しい」
ほんの少しの間をおいて男は言った。
「高校一年の夏合宿から帰って来た娘から、『話があるの』と言われたら何を想像するかな?」
急な話だった、彼女が一年の頃に部活に入っていたなんて初めて知った。もともと帰宅部だった訳ではないのか。
「私も男だ、娘の可愛さは知っている、親の色眼鏡を差し引いても美人だと思っている。親馬鹿かもしれないがね。……話を戻そう最初に聞いた時は妊娠か? なんて事を想像してしまったんだ。高校生ならば彼氏がいても、仕方がない年齢だからね」
年頃……という奴かな……。と小さく続けた。
少し自嘲気味に言葉を精密に紡いでいる印象を僕は受けた。
「でも違った娘は『お父さんは同性愛者なの?』と言った。どうしてそんな事を言うのかと私は聞いた。『私は十七年間お父さんと一緒に暮らしているのよ』と娘は言った」
――。
「その時、娘が変わってしまったと言う事が分かった。そして同時に娘は変わっていないと言う事にも直ぐに気づいた。今までと……変わらない、同じ、素晴らしい女性だ」
丁寧に……一言、一言を区切って、彼の口調はどんどん強くなっている。
「十七年間、愛を惜しむことなく注ぎ大切に育てた娘だ。そして同時におびえた……」
夕の父親はテーブルの水差しをとってグラスに液体を注ぎ、そしてそれを一度で飲み干した。
「そういう人間の子供だからと言うだけで、娘が差別されるかもしれないからだ。それでも娘のその時の反応は私の思っていた者とは違った。彼女は敬意を持って扱われるに値する女性だ。娘は幸せを享受するべき権利を持っていると信じている」
「……いや、違う、私自身が嫌われるだろうことを実際は恐れていたのだろう。ひどく自然なことだが、社会からすると普通では無いからね」
――。
「そして今、娘に関して一つ理解を深めた事がある。最初は恥ずかしがり屋なのかと思ったがそうでは無かった。滅多な事がない限り、彼女は他の男と一切話さなかった。だから自分がそうであるように……そうなのかと誤解をしていた。でも違った。それが嬉しい」
――。
「話が少しずれているように感じるかもしれないが、これは私に限った話ではない事を知ってほしい。人間であれば誰でも自身のうちに暗い部分は存在する」
父親はテーブルの上に肘をついて、手を組み口元に持って行って僕を見た。眼光は鋭く鷹の様だった。
「彼女は鋭い。いい目を持っている、妻はずっと知らなかったが、娘にはわかる。時間や、会話の数などを無視して、貫通して、彼女の目はその人間の本質を見抜く。だから、自分自身の暗い面も彼女は見えるし、相手の暗所についても、それでもいいと彼女は受け入れるだろう。でもそれは普通の人間にはつらいことなんだ……。自分が知る以上に誰かに知られることは辛いし、親しい人間を通して自覚することも……辛い」
……。
父親はここで一呼吸おいてからグラスに液体を追加した。
男は僕をもう一度見て言った。
「初めての事なんだよ、二度目かな。いや、どちらも正しい。一昨日娘が『話がある』と言った。紹介したい男の子がいると、それが君だ。真面目そうで礼儀を知っている良い青年だと思う、今後とも娘の相手をよろしく頼むよ」
「はい」
僕は答えた。
「もし私が君だったなら、なんの試練かと思うだろうね。家に呼ばれたと思ったらいきなりその相手の父親がいるなんて笑うに笑えない。夕は言わないだろうがきっと彼女はこう言うことが言いたいんじゃないかな? 私の事を君に話させる事と出会わせることについて……」
頃合いを見計らったように相戸夕がドビラを開けた。
「滋野君、上にあがって、私の部屋で話しましょう。お父さん、悪かったわね、忙しい時に」
「いや、良いんだよ。じゃあ私は仕事に戻るから外に行く時は戸締りをよろしくな」
彼女は嬉しそうに笑いながら言う。
「子供じゃないのよ」
相戸夕のその一言は今の父親を喜ばせるには十分なものだった。
去り際に一言だけ相戸の父親はいった。
「君は何か大切な事を万人に隠しているようだけれども。きっとそれを彼女は見抜く、いつか……たぶんね」
優の部屋は二回にあって一度リビングを出てから玄関の直ぐ隣りの階段を上がった奥の部屋にあった。
相戸夕の部屋は僕ほどでは無いにしても殺風景なものだった。
壁紙、机、本棚、ベッド、クローゼット等、全体的に白で統一されていて、窓のカーテンだけが淡いピンク。
「貴方は、その椅子にお座りなさい」
そう言って勉強机と思しき方を指さした。
「私はベッドに座るわ、……それとあまりジロジロ見回さないようにね」
「あ、ああ」
彼女はベッドにそっと腰かけて、じっとこちらを観察している。
目と目が合うと気まずい。
すると首をかしげる夕。
「うーん、おかしいわね」
「ん? 何だ体調で……」
「貴方の事を、……もしも傷つけたら御免なさいね」
などと奇妙な前置きをする夕。妙に怖いな。
「あなたは女の子は好きじゃないの? 私の今の服装に目はいってるかしら? 正直言って貴方の眼は真っすぐすぎる、先ほどから私の眼ばかりを見ているじゃない」
そう言われてから彼女の服装に目をやった、Tシャツの様な袖の無い上着。ゆったりとした洋服、服に関心の無い僕にはその正式な名称は分からないけれども、着たり脱いだりが楽そうだなと思った。それから短めの淡い色のスカート、黒いストッキング。
彼女の服装はそんなところだ。
正直いつも制服しか着ない男子生徒としてはあまり興味がないのだ。
いや、前者は単なる言訳だろう。お洒落に興味のある男子生徒だっている。正直僕個人として、服装に関して興味が無いのだ。
「結構この服は、自分で言うのも馬鹿みたいだけれど……セクシーな部類に入るのよ。貴方、滋野新君はさっきから気まずそうにしているけれども……それは女の子との気まずさでは無いわ。初対面の人間に対してどう対応したらいいのか分からない気まずさ……ねえ、私の言っている事…………わかる?」
彼女は何故か悲しげに言うと短めのスカートをギュッと握った。
「それは……」
僕は彼女が何を言いたいのかが分からなかった。
「ごめんなさいね、私……」
「いや、別に相戸が謝る事じゃないだろ」
そうかしらね、と彼女は天窓を眺めて言う。
「……」
しばしの気まずい沈黙の後、相戸夕は紅茶を持ってくると言って部屋を後にした。
僕は彼女が出て行ったあと机に肘をついて頬に手を当て眼を瞑って彼女の言葉を反芻した。考えはきっと彼女の思惑を外れているだろうと思いながらも、僕は気付かないうちに彼女を落胆させてしまったその理由を考えていた。
「うーん」
答えの出ないまま漂う自身の考えが言葉に出る。
眼を開くと目の前には学校の教科書がある、まだ真新しい新書。
数学、物理、化学……と続く背表紙、そのまま眼を横にスライドさせると一番端にはカバーの付いた本が二冊あった。
机にはほこり一つなく綺麗に掃除されている。
何気なく僕は手を伸ばしたが、その後の行動は手を引っ込めた。
その後すぐに、相戸夕が紅茶を持って部屋に入ってきた。
「何も見てない、のね。全く約束を重んじるのか単なる馬鹿なのか、それとも」
扉の前でもたつく彼女を見て僕は腰を少しだけ浮かせる。
(こういう事なのかな)
と思う。
思い浮かんだ言葉は『パスカルの賭け』。正しい解釈かどうかは分からない。しかし、昔、と言うのも僕の年齢からしたら、おかしな話だが確かに昔の記憶。正確な彼の述べたままの言葉は忘れてしまったが友人の言った事だ。ニュアンスはあっているはずだが自信は無い。
彼の言った事には。
『どうせ生き(かけ)るのならば、確率がどれ程低くとも正しい方では無く、よくなる方に賭けようではないか』
生き方、と捉えるか、または緊張下での判断と言ってもいい。言葉どおりに確かに賭けだ。
彼女の望むことではなく、この場合正しい方、いや、違う、無難で詰まらない方を僕は取ってしまった。
大切なのはここから先の話だと思った。
然しながら彼も、重要な決定の際、友人も結局は『正しい方』を取ってしまったのだ。その事に着いて責め立てる道理はどこにも無いし、それは『正しい』のだ。
勇気が無い訳でもなければ、考えが変化したのでもない。
人はそういうものなのだから。
考えずに跳び込むか、考えてから跳び込むかの違い。
だから、しょうがないじゃないか。それでも……ごめんよ、相戸夕。
考えを振りきってから、僕は立った。
「ああ、扉閉めるよ」
そう言って立つ僕に対して。
「いいの、気を使わないで、一応はお客さんなんだから。休みの日にわざわざ来てくれたのに手伝いなんて悪いじゃない」
と、僕を制した。
床に紅茶のあるお盆置き、出入り口の死角にあった卓袱台を組み立て、お盆をそこに置き直した。
「飲むのはここでお願いね」
といって、まずは一口彼女はコップを傾けた。
悪気のない罪悪感を感じつつも、僕は言われるがままに、机から離れ部屋の中央に座りなおした。
カップを口に運ぶ途中には彼女の顔が正面にある、匂いも味も分からないまま少しだけ熱いなと思いながら、彼女は、
「別に気にしなくていいのよ。なんだか、ほんのちょっぴりだけ、意地悪をしたい気分だったのだから、悪く思う必要なんてないのよ」
と、言った。
きっと、そうなのだろう、これは彼女の本心だろう。だから気に病む必要は無い、そう言ってくれる彼女に胸が痛くなる。
「やさしいのね……」
僕の思ったことを彼女が僕にいった。
「そうだ、ちょっと目を瞑って正座をしなさい」
何か名案でも思いついた様な口調で彼女は言う。そしてそのまま僕は彼女の言うとおりにする事にした。
「いいと言うまで、目をあけちゃだめよ」
すると。
一瞬ふわりと、頬に羽が当たったような感触があった。
そしてそのまま、重さを増しながら柔らかく包みこむ何かが僕の膝の上に乗ってきた。
正座をしているから、全然動けない。
そしてそのまま、抱きしめられた。
女性にしては少し大きな手で頭と背中を掴んで、足を僕の背中の方に回して、抱擁されていた。
相戸夕の甘い匂いがした。
やさしくてやわらかな匂い。柔和で温かい
「好きです。大好き」
「ねえ、私の事好き?」
「うん」
「もうこんな質問二度としないから、失望しない聞いて」
……お願い、と。
「私のどんなところが好き?」
「可愛らしいところ、率直であろうとするところ、潔くて爽やかなところ、すれてないところ、他人を、相手を思いやるところ、優しいところ、……嫌いなところなんて無い。僕は本当にどうしようも無いぐらい相戸夕という存在が愛おしくって大好きだ」
相戸夕は僕を抱きしめるのを止めて、僕の顔を覗き込んだ。
そして、万弁の笑みで――。
「嬉しい」
そういって、もう一度僕を抱きしめてから彼女は僕の膝から降りた。
その後。
「そうだ、人生ゲームをやりましょう」
とて、紅茶を飲んで、プレステの人生ゲームをやりながら色々他愛のない話をし合った。
二人での人生ゲームは無いという結論を出して、僕は彼女の家を後にした。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
帰り道は色々な事を考えた、自分の事、家族の事、相戸夕の事。両親の事……。
春休みまで持っていた凝り固まった価値観が少しだけ溶けて行く気がした。
それほどまでに根詰める必要は無いのかもしれないと。
しかし、そして同時に、何に対して? と言う事に関してはまだ答えが出せずにいる。
その次の日から。相戸夕が官能的な話を持ちかける事はめっきり減った。
僕と同様に、彼女も世の中に、いや周囲の世界への見る目が替わったのだろう。
はい