16 後日談
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夢のような一日があけて、何気なく教室に足を踏み入れる事はなかった。
教室はこれでもか、というほどにボロボロで悲惨な状態だった。
生徒たちは勿論無論立ち入り禁止、臨時の教室として家庭科室を使うことになった。
率直な感想としては、いたずらでも冗談でもすまないような器物の破損であった。
が、学業に支障をきたすことはあってはならない、という学校長の一声で修繕が早朝から始まり、教室は三日で完治していた。
前々から、この学校の金の使い方が半端ではないことは話に聞いていた。
例えば、学校の教室の設備だが、ガラガラと音を立てる扉は実は天井が支える仕組みになっている。だから常に浮いていて扉が壊れたりするとちょっとした車ぐらいは買える額が吹っ飛ぶ。
また、下駄箱は一般の高校で使われている様な至って普通なものだが、ある日、ある人が、いじめらている生徒の使う下駄箱を蹴りで粉砕した次の日、その部分だけ新品の素材が使われ十全に完治していたそうだ。
兎にも角にも金遣いが荒い。
その理由としては個々の生徒の親御さんには資産家が多く、多額の資金が寄付として送られてくる、ということがある。
これが、学校の環境を良くしており、生徒たちの学業や部活動など充実した生活を提供し、有能な教師陣を集める一員となっており、また進学率を上げるため親御さんたちも満足をするようだ。
しかし、あまりにも多額な寄付のおかげで、本来ならば必要もないと思われるものに他校では考えられないような資金が割り当てられそれでもなお、余っているという状態にあるそうだ。
蛇足だけれども、僕の家ようにあまり裕福でない家は寄付をほとんどしていない。
加藤菜月について、すこしばかり語っておこう。
ウサギの悪魔になった女性。
彼女とはそれほど親しい仲ではなかったから、多くを語れないけれども、それでもいくつかのことは分かった。
それは大きく二つ。
まず、はじめに加藤菜月という高校生は、春休みに死んでいた。家族全員が死んでいた。
原因は飛行機の墜落事故で、帰国するときの便でのことだった、エンジンの炎上が原因とされている。
彼女の家に足を運んだ。
前に教えてもらった自宅の電話番号を元にその地に赴き、彼女の家を調べた。
彼女の家はまだそこにあった。
そこには親戚が二人かいた、おそらく加藤菜月の祖母や祖父に当たる人だろう。
そして二つ目、と言ってもこれは祖父母から聞いたことから僕が推測したことだ。
結論から述べよう、彼女の存在が人々にとって希薄になっている可能性が極めて高い、ということだ。
加藤家の死に際して、彼女を知る者の来訪が僕だけであり、他の生徒達は初めから居なかったかのように音沙汰がないようだ。
僕が学校で教師から朝のホームルームで出欠の確認の際、彼女の名前を言わなかった時、内心ひやりと今後の展開について考えたが、しかし、他の生徒達はその時ひどく無反応であった。まるで登校初日に『退屈』と言う吐露を聞いたときのように、淡々と単調に、作業のような連絡が終わった。
僕が確認したところ――出席簿には加藤菜月の文字はあった……一ページ目にだけ。
勿論あれ以来、僕の周囲では皆当たり前の通常が取り巻いていた。
もともと親戚も少ないらしく、祖父母は母方の方だけで、父方の方の祖父は他界している、祖母も施設に入っているらしい。母方の祖母はその事実を知らされても理解する事は無い状態の様だ。
また、彼女達に限らず、飛行機墜落事故の死者の遺体は見つかっていないし、引き上げる予定もないという。
遺体は今も全て海にある。
加藤菜月のそれを除いて。
引き上げられることはない……言葉を失ってしまうほどに孤独な集団である。
珍事、異界というべきか、それは人間を選ぶ。
今回のように、クラスメイトがいなくなったとしても、常人が異質なものに気づくことさえ無い。異界に関わったものは異界に関わったモノにひかれやすい。その待遇も真であり、異界に関わり合いのないものは袖が触れ合うことは絶対にない。時に、社会に適合する者が不適合な世界に足を突っ込むものがいるが、それは僕のような人間も含めて、確実に存在不適合と言えるような因子を持っている。
――でも出会うまでは気づかない。
彼女も何かひかれるモノがあったのだろう。あくまで僕の解釈だから、結局は戯言なのかもしれない。
でも、いつだって、最後の引き金は人間が引くのだ。
彼女のことを考える。
個人。
故人。
加藤菜月。
ウサギの悪魔の少女。
彼女の選択は孤独であっただろう。
先に逝った両親。
誰も居ない家から学校に通い、生徒たちと触れ合い、何も無い所へ帰る。
ひとりで取る食事は何日続いたのだろうか?
一人分の食事を用意して、一人分の弁当を作り、自分の制服を洗濯しアイロンがけをして、選択して学校にいつものように登校する。
独りで家を出るのだ。
つい先刻までは一緒にいた家族とは永久に合うことはない。
僕に話しかけたときの慌てた感じ何かを伝えたかったのか、それとも何かを求めていたのだろうか。
ひとりになってまで何か成し遂げたいことがあったのか。
あるいは、悪魔が一方的に彼女に取り付いたのだろうか?
でも、この仮説は得心しかねることがある、昼の彼女、悪魔として立ちふさがる前、悪魔は加藤菜月である必要などなかったはずである。
そして何よりも、悪魔になった彼女が僕を教室で待っている必要が一切無い。
出会ったから、知覚したから、僕を排除するために交戦したのか?
否、ウサギは止めを刺さず跳んでいった。
ウサギが僕の左手を確認するように観察していた様子は見て取れた。
そして、儀式のように左手に口をつけた。だから、悪魔の目的は僕の左手であったはずだ。
天使が持ってきた『神の肉』と呼んだ左腕。
そして、加藤菜月の目的も同じく僕の通う学校にあったのだろう。お互いの要求が通るからただ単に悪魔は体を、少女は時間を手にしたと考えると納得がいく。
「結果は出ないよな……」
なんの意味もない考えだけれども、真実からははるかに遠いことかも知れないけれども……それでも一つ、結果は残る。
僕みたいなすでに妙ちきりんな世界に足を突っ込んでしまった人間には忘れられない出来事であった。
僕に一つの記憶を刻みつけた。
他の生徒には忘れ去られたり、思い出されることが無くとも。
僕は……彼女のことを覚えていよう。
あの日、相戸夕がホームから転落しかけ、死にかけたあの日。
階段からホームに降りてこない一人の女子生徒を僕は確かに見た。
その生徒は半端な位置にいてスカートから下までしか確認できなかったが内の学校のスカートを確かに穿いていた。
異界が終わった後、電車が駅のホームに戻っても、彼女はホームに向かって来るどころか踵を返した。僕はたしかにその瞬間を観ていた。電車から降りた生徒など、いるわけはないし、プラットホーム向から誰かとすれ違った記憶もない。それでは、降りる階段を間違えたのだろうか?
いいや、それは絶対にない。改札に入れば一本道で、プラットホームも島式のプラットホームだから、行き帰りに関わらず、この路線を使うのならば特別な事情がなければ降りてくる。
特別な事情……。
例えば、顔を見られたくなかった……とか。
そして、加藤菜月の家を調べる際、ぼくの家から学校のある駅の延長線上に彼女の家があることも知った。
だから。
それでも。
僕はその生徒の顔を見た訳ではないからわからないけれども、それでも……受け入れることにした。
たとえ、僕に刻みつけられたこの記録が、刻みつける一因として嫉妬があったとしても……僕はそれでもいいかなと思った。
犠牲は人生に憑き物だから。