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悪魔との戦いの傷が癒えて体が全快するには五分程度の時間を要した。
制服はボロボロ。所々で血が固まり、部分的にカピカピになっている髪とワイシャツ。
とても人前に出るような格好ではないけれども、僕は階段を下ったその先にある保健室に向かった。
保健室に入ると、相戸夕がベットに腰をかけて僕の帰りをまっていたかのように、こちらを見ていた。
待ち構えていた。
部屋は暗かったが、良く彼女の顔が良く見えた。表情はいつもと変わらず僕に見せる無表情だが、その皮の下は怒っていた。
僕には分った、表情なく彼女は僕を睨んでいる。
「滋野君、どこに行ってたのかしら」
彼女は攻める様な責める口調で続けた。
「貴方は馬鹿だから忘れているかもしれないけれども、私は可愛い女の子なのよ。そんなかわいい少女が気絶したと言うのに、こんな所にほったらかしにするのはどうかと思うわ」
「ああ、すまない、ちょっとどうしても行かないといけない用事があって……」
「謝りなさいよ」
「ごめん」
「謝罪しなさい」
「ごめんね」
「言い訳はよしなさい」
「はい、すいません」
一瞬、相戸はそれまで僕の眼球を睨みつけていた逸らして告げた。
ためらいがちに。
「……用事って何?」
なにか間違いを起こした子供に許しながら、過ちを問う優しい母親のような口調だった。
僕にはそれが辛かった。
「……」
僕は下を向いて……何も言わない。
いいや違う、言えなかった。涙がいっぱいに右目だけに溜った。きっと今話をしたら、噛むどころじゃない、嗚咽に似た声しか出ないだろう。そんなカッコ悪いのは、嫌だ。他の誰でもない相戸夕の前でそんなカッコ悪いのは嫌だった。
「貴方の事だからきっと良い事をしたんでしょうね。いいえ、良い事をしているつもりに成っているのでしょうね。分かっているわ。……お疲れ様」
良い事をした何て思ってはいなかった、怖かった。
ある種の脅迫じみた恐れが僕を突き動かしたに過ぎない、そうでなければずっと放っておいただろう。
失う事は無くとも、その可能性を見せつけられて僕は冷静では無かった。
今はそれが、たまらなく……おぞましい。
彼女は決心したかの様にもう一度、言葉を紡いだ。
「理解っているわ」
僕は相戸夕を見た。
彼女は今まで座っていたベットから立ち、僕の眼を見て言う。
「ねえ、アダムとイブが禁断の実を食べる話は知っているでしょう? あれって本当に罪なことなのかしら?」
その声は少しだけ震えている。
相戸夕が僕に近づいて、手を頬に近づけようとして、途中でそれをやめて腰の横に戻す。
その動作にどれほどの感情が込められ、それを押し殺したのかを僕は知らない。だから、より一層、この後の彼女の会話から彼女を知りたいと思った。
「アダムはイブから実を食べろと言われる前に、神様からその身を口にすることを禁じられている事を知っていたはずよね。それでもなお、彼女に禁断の実を差し出されたアダムは、つまり神様と妻に対してどちらかを選ばなければならなかったアダム……。そんなときに、アダムはどうなるか分からない、恐らく永劫続くであろう呪いに等しい罰を受けるかとを承知の上で、――神と彼女への愛を天秤にかけて、結局、妻への愛を取ったのだと思うの」
彼女はわらっていたと思う。
「だから、これは罪の話では無くて、男が女に対して、夫が妻に対しての最初の愛の話だと思うの。そういった面では彼は決して愚かではないし、仮に神がいたのならば神は彼らに罰を与えるのは過ちよね」
何かを思い出すように目を伏せながら相戸夕は言う。
「愛の証明の話なのよね」
そして、彼女の手が伸びて、僕の頬に触れた。
「あのね、私は貴方を取ろうと思うの、貴方の抱えた問題諸々全て含めて、貴方を愛していきたいの……」
「ねえ、お願い」
それが彼女の告白だった。
僕は、ほんの少しだけ泣いた、夕には気づかれないだけの涙を流した。
ああ、そうか、僕は彼女に恋していたのか。
夜の校舎、保健室。
二人の人間。
男女。
少年と少女。
子供と子供。
大人と大人。
僕は返事をする。
彼女はこの時初めて気持ちのいい笑顔を見せた。
その後、僕はウサギの悪魔を見る機会は終ぞ無かった。
しかし時に、ぬばたまの夜。誰かが僕に話しかけてくる気がした。
今日も天使は何も言わない。
ウサギの悪魔 fin