10、君の幻想を使って 0
ここからが本編の開始です。
007
夜への扉を開けた。
その扉は一切の静寂でできている。
その扉は一切の静寂を内包する。
その中は静かで、本当の安らぎが……眠っている。
音は無く、光もない、わずかな花の匂いがある。
その中は静寂に包まれ、時に己の心臓の鼓動でさえ五月蠅く、不快で、気味悪い。
故にいずれは皆、静寂に帰るのだ。
その教室には緊張の糸が張っていた。まるで初対面の人間の面接の様だ。
あるいは初デート前の待ち合わせ。
どちらかと言うと、この場合は後者の空気が近いのかもしれない。
そこにいる二人は若い男と女、そしてここは学校なのだから、きっとそうだろう。
しかしながら、気まずさも無い、お互いに。
滋野新剛の目の前には、一人の女が立っていた。
少女と言うには大人びていて、『女性』と言うにはまだ若い。
少女と言うには余りにも面妖な雰囲気を醸している。
教室の両端、対面、その女はクラスメイトで……よく知った女だった。
窓から空を仰ぎ、その白い肌に淡く怪しい月光を浴びせていた。
女は現実の教室に潜む闇に溶け込んでいて輪郭も曖昧であり、夢の中の出来事の様に幻想的で誰にも気づかれない程度の整合性の欠落があった。
学校指定のブラウスと、短めにカスタマイズされたスカートしか着衣していない。
よく見ると女の体は濡れて、服が体にぴったりとその体に張り付いていた。
汗。
遅れた来訪者に意識を向ける為、女は窓から顔を外し、スカートをふわりと円舞させ、振りむき、しばしの間、男の左腕だけを見ていた。
滋野新剛は口をひらく。
「加藤菜月さんだったのですね」
空には月が出ていた。それは満月である。
菜月はゆっくりと剛の顔を覗いた。
「……」
何も言わずに、ニタリと菜月は笑う。窓からこぼれる月光を受けた口もとの歪みは既に人間のそれでは無かった。
暗かった。ただ、印象としては暗かった。月のせいなのか、その笑顔は暗かった。
月が作った彼女の影もその笑顔に合わせて大きく、揺らぎ、裂けて……そして消えた。
影が消えた。闇に溶けた。
それから。
彼女の頭から白い物が伸びる。それは、長く、細く、そして、しなやかに弧を描く。
耳だ。
それはウサギの耳だった。
瞳は深紅に染め上げられる中で、彼女は、歪な口調で言葉を紡いだ。
「私…………はどうする事も、できない……の」
それが加藤菜月の最後の言葉だった。
心からの健気な少女の告白であった。
そして、目の前の『誰か』が、もう一度嗤った。
それ自体がデスマスクに思えるうそ寒い嗤い。
何も感じない、いや、何も感じていないのだろう。
彼女の死んだ後の顔で、彼女が死んでからの顔、生きる者はまだ知らぬ、何かに変わり果てた顔。
悪魔じみていた。
その笑顔に制服越し寒気を催し、粟立つ肌の感触を滋野新剛は味わった。
前進するでもなく、後退するでもなく、互いに一歩も動かず、見つめあい、呼吸を確かめ合った。
滋野新剛の脳裏には昨日の事の様に思い出させる。
あまりにも現実離れしている為遠いと錯覚してしまう春休みの記憶が蘇った。
彼は――。
方法を一つしか知らなかった。
方法は一つしかなかった。
異界を止める方法。
相戸夕を救う方法。
これから自らが成す事を信じる決意をする。
それを形にする為に、目的を告げるために、剛は口を開いた。
「お前を殺す」
(ごめん)
剛の統一できない精神に心が引っ張られ、思う所があった。
互いを縛っていた空気が一気に緩み、再び濁った。
彼女の肩口から月がその顔を覗かせていた。
開戦の合図。
つづき