交渉
下層の喧騒や「転生管理課」の活気さえ届かない、静寂に包まれたフロアに我々はいた。
月に一度、この静寂の中で私達は罪の精算をする。それも、赤の他人が作り出した罪に。乗り気の者は誰一人としていなかった。
磨き上げられた黒大理石の床は鏡面のようになっており、下を向いた私の顔を映し出した。そこに映る顔は、収穫期を過ぎて田畑に置き去りにされた野菜みたく、無惨に皺くちゃになっていた。それを不憫に思った私は、精一杯の作り笑顔を浮かべてみる。床の中の私も、引きつった笑いを返してきた。
「キモいっすね」
後ろから部下の一人が容赦なく突き刺してきた。
床の顔は、あっという間に元の萎びた野菜に戻ってしまう。
「……まあ、それだけ気が重いということだ」
私は誤魔化すように、純白のスーツについた目に見えないほどの埃を指先で払った。
「ジュドー様、もっとしっかりしてください。今回の交渉に全てがかかっているのですよ?」
もう一人の部下が、刺すような強い口調で言う。
「騒ぐな。また頭を下げればいいんだろう。私の安い頭ならいくらでも下げるさ。さあ、行こう」
重い足取りのまま、鏡のような通路を進む。突き当たりには、威圧感を放つ巨大な会議室の扉が待ち構えていた。
「お入りください」という冷ややかな声が奥から響き、重い金属が擦れる鈍い音と共に、扉が開かれた。
誘われるままに足を踏み入れる。
部屋の奥、広大な空間を支配する巨大なデスクに深々と腰を下ろしているのは、全身を漆黒の法衣で包んだ数人の男女だった。彼らこそが、この天界の意志を決定する「上級天使」と呼ばれる存在。
「さあ、おかけになってください」
一人の黒服の男が、座ることを許可するように顎をしゃくった。私たちは軽く頭を下げ、用意されていた席につく。
「……ひとり、ふたり……フン、今回は五人もいるのか」
「本当ね。そのうち四人は、数合わせのお飾りというところかしら」
二人の上級天使が、こちらを路傍の石でも見るような目で見下した。いつものことだ。毎回、この手の嫌味から交渉は始まる。私はゆっくりと口を開いた。
「えー……本日は貴重なお時間をありがとうございます。今回の議題は他でもない。来月の『資源の配分』についてです」
私は努めて弱々しく、懇願するように続けた。
「……我々の管轄する地区では、今、深刻なエネルギーの枯渇が続いております。あと、ほんの数パーセントで構いません。供給を増やしてはいただけないでしょうか。このままでは、多くの民が……」
黒服の一人が、鼻で笑いながら手元のクリスタルグラスを弄んだ。
「枯渇、か。……かつて我々が、君たちの足元に跪いて、たった一つの種火を乞うていた時のことを思い出すね。あの時、君たちは何と言ったかな? 『天界の分不相応な贅沢を支える余裕はない』……そうだったかな?」
隣で部下が悔しそうに拳を握りしめているのが分かった。だが、ここで折れるわけにはいかない。
「それは……大昔の話です。我々はその後、貴方方に技術を教え、共存の道を歩んだと伝えられておりますが……」
それを聞いた瞬間、一人の上級天使が机を叩いて叫んだ。
「よくもそんなことを! 教わったのではない、決してだ! 我々が自ら、新たに生み出したのだよ。油田のように溢れる、無限とも言えるエネルギーを! 君たちが古臭い理想に拘っている間にだ!」
彼は立ち上がり、全面ガラス張りの窓の外を見下ろした。そこには、天界のビル群を縫うように、眩いばかりの光の奔流が脈打っている。
「今や、天界のエネルギー供給量は、君たちの想像を遥かに超えている。……君たちの地区が枯渇したのは、効率的な生産と運用を怠ったからだ。ただそれだけだ」
私は男の背中に向かって、絞り出すような声で言った。
「……天界に溢れるエネルギー…それは、神が楽園にのみ与えた特権なのか……!?いや、そうではないはずだ…!」
黒服の男は振り返り、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「言葉に気をつけたまえ、敗北者。……望むなら、恵んでやってもいい。だが、その代わりに来月は君たちの管轄する領土をさらに二割、我々の『新規施設設置』のために差し出してもらおう。……嫌なら、自分たちで新しいエネルギー源でも生み出してみるのだな。もっとも、そんな力はもう残っていないだろうが」
領土の割譲。それは予測していた。最悪のパターン、三割を要求されることも覚悟していた。
(二割……二割で済むのか。なら、安いもんだ)
だが、私はここで食らいつかなければならない。易々と飲み込めば、まだ余裕があると判断され、次回の交渉でさらにふっかけられる。私は椅子から転げ落ちるようにして、オーバーな動作で叫んだ。
「待ってくれ……! 二割もか!? こちらはただでさえ、死者で溢れかえっているのだ! これ以上、領土を差し出すわけにはいかない……!」
私は必死に抗う「苦渋の決断」を演出する。上手くいけば、一割半程度まで引き下げられるかもしれない。
「た、頼む! それだけは……それだけは出来ないッ! なんとか……! 一割、いや、一割半で手を打ってくれないか!? この通りだ!!」
私は部下たちの前であることも忘れ、黒大理石の床に額を擦り付けた。再び眼前に、床に映る萎びた野菜が現れる。
黒服の男は、私の惨めな姿を哀れんだのか、大きく溜息をついて首を振った。数秒の沈黙の後、彼は言った。
「……ふむ。わかった。では、領土の一割にしよう。ただし、新施設の設置には、君たちの地区に住む労働者を派遣してもらう。人手は十分過ぎるほどあるのだろう? それで手を打とうではないか」
私はしばらく床に映る自分の顔と睨めっこをしていたが、その言葉を聞いてゆっくりと顔を上げた。
(……勝った)
思っていた以上の成果だ。領土は一割に抑えられ、溢れかえっていた死者の一部を「派遣」という形で追い出せる。これで来月分の資源も確保できた。
笑いが込み上げてくるのを必死に堪え、喜びを悟られぬよう、震える重々しい声で言った。
「……あ、ありがとうございます……ッ!」
私達は全員で再度、深く頭を下げた。
「まったく、頭を下げるのが好きな連中だな。さすが地獄の使い魔だ。さあ、話は済んだ。生まれ故郷に帰りたまえ」
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交渉を終え、ジュドー達は会議室を後にする。
彼らが去った後、黒服たちは汚いものを見たかのように吐き捨てた。
「……やれやれ。地獄の住人はこれだからいけない。白い服で小綺麗に見せたつもりだろうが、品の悪さままでは隠し切れてはいないな」
そんな罵倒を背中で受け流しながら、ジュドーたちは足早に廊下を歩いていた。
その途中、一人の若い天使とすれ違う。
雑誌を片手に、髪を少し乱してヘラヘラと笑いながら歩くその男は、私たちの存在など気にも留めない様子で電話をしていた。
「……あー、もしもし? お疲れ。さっき提出された完了報告なんだけどさ、ちょっと誤りがあったから差し戻してくんない? ……そうそう、俺やり直して再提出するから。あ、実績? 実績は俺の実績を代わりに付けてやってよ。あの子に……今回入った新人にさ。頼んだよ」
男は耳に指をかけ、だらしなく笑いながら通り過ぎていく。
ジュドーは一瞬、その男の背中を振り返ったが、すぐに前を向いた。
今の自分たちにとっては、天界の末端の事務ミスなど、どうでもいい小事だった。
地獄を温めるエネルギーを勝ち取った満足感を胸に、彼らは鏡のような廊下を蹴って、足早にエレベーターへと向かった。




