流行調査課
扉を開けた瞬間に鼻を突いたのは、肺の奥までべたつくような、暴力的なまでの甘い匂いだった。
「……あ、ハバクク。またそれ飲んでるの?飲みすぎると死ぬわよ。」
ヘルミナさんが呆れたように声をかける。
デスクに座っていたのは、ボサボサの髪に、お世辞にも綺麗とは言えない着崩したスーツを纏った男――ハバククだった。彼はストローを咥えたまま、虚ろな目でこちらを振り返った。
「逆にやめた方が死んじゃうよ!アアァ…脳が溶けける。これが無いと仕事にならないよ……」
ジュルジュルと品の無い音を立てて彼はシロップの塊を啜る。彼の背後には一斗缶のようなモノが転がっている…これは下界でいうガムシロップだろう…。これを全て飲み干したというのだろうか…。流行調査課。その名の通り、現世の欲望を最前線で浴び続けるこの部署は、どこの部署よりも毒されていた。
彼は言葉を失った私をジロジロと見ながら言った。
「ヘルミナくん、その子は?」
ハバククさんの目は、獲物を見定めているようでもあり、あるいは何か期待をしている様な目だった。
ヘルミナさんは私に挨拶を促した。
私は甘い匂いに犯された脳から必死に言葉を引き出した。
『は、はい。あ、あのぉ…今日から…その…仕事をすることになりまして……』
「…ん? あぁ! やはり!そうかそうか!」
ハバククさんは急に椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。
「いやぁ、そんなことだと思ってさ!待ってたんだよ!うちは僕1人だしさ!トレンドの集計が追いつかなくてさ!君が来てくれるなら大助かりだ。さぁ、角砂糖を3つあげよう。」
ハバククさんは私の手を取り、半ば強引に角砂糖を乗せた。その手は啜っているシロップを触ったのか少しベタついていた。
『えっ、あの、私は……』
私は言われるがまま、されるがままに角砂糖を受け取ってしまった。
この手の人は少し苦手だ。もらった角砂糖はどうすればいいのだろうか。とりあえず、このままダイレクトに食べるわけにもいかない。私は角砂糖を食べるフリをしてそのままズボンのポケットにしまった。
勘違いで浮かれているハバククさんにきちんと説明をしようとした瞬間、ヘルミナさんの懐の通信機が鳴った。
「あ、新人ちゃん、ごめんなさい。呼び出しだわ…
悪いけど先にデスクに戻るわ!あなたも少ししたら佐藤くんの経過を見るために戻った方がいいわ。それじゃあね!」
『え!?…ちょっと待ってください!』
ヘルミナさんはハバククさんに対し「変なもの食べさせないようにね」と釘を刺して、嵐のように去っていった。
書籍に囲まれた部屋には、甘い匂いと、シロップの啜り音、そして私と3コの角砂糖が取り残された。
「……ま、座りなよ。ほら、甘いの好きだろ?これ飲む? 糖分は思考を加速させるよぉ」
彼は少し歪んだパイプ椅子をズズズと引きずり出して私の前に置いた。
『いえ、遠慮しておきます……。あのですね…私は…』
ハバククさんは、デスクに広げられた無数のモニターを指差した。そこには現世のSNSのタイムラインや、書店に並ぶマンガのランキング、そして死に際の人間が漏らす「最後の願い」が、濁流のように流れ続けていた。
「僕は日夜こうして下界の奴らが何を欲しがってるかを監視しているんだ。今の転生先の設定は『無双』だとか『追放』だとか『悪役令嬢』なんかが求められている。ホント…下界の奴らときたらおかしな事を思いつくものだよ」
ガムシロ啜ってるあんたも大概だろと思ったが、ここは言わない様に耐えた。
「死んだ人間の魂は過去の行いによって地獄か天国かに分けられる。さらにその中でも不運な死を遂げた魂は転生の権利を得られるんだ。」
ハバククさんはモニターの一枚を拡大した。そこには、佐藤くんが映っていた。
「例えば…さっき死にたてホヤホヤのコイツな。ふん。一丁前に転生希望があったんだね。『剣と魔法の異世界』で『最強』…『モテモテ』か…。なるほどね。あるある。よくある異世界の設定だよ。」
佐藤くんのデータを一通り読むと彼はガムシロップを少し口に含んだ。
「僕の仕事はこういう下界のデータを収集してそれを元に舞台設定などの指示書を作って別の部署へ伝達するのさ。つまり、トレンドリサーチだけじゃなくちょっとした設計もやってるわけ。ただ、ここ最近トレンドの移り変わりが激しくてねぇ…」
ハバククはニヤリと笑い、またストローを啜った。
「それじゃあ、前置きはこのくらいにして、何からしてもらおうかな!」
ゴソゴソと書棚から何かを探している。
言うなら今しかない。
『あ、あの!ごめんなさい。違うんです!』
「…ん?角砂糖足りなかった?」
『いや、そうじゃなくて!私は、転生管理課に配属になったんです…』
「……」
ハバククは数秒固まった。頭の中を整理している様だった。
『その、先輩のヘルミナさんに転生管理課以外の別の部署を紹介すると言われて…ついてきただけで…その…すみません。』
ハバククさんは溜息をついた。彼は私に背を向けて書棚を漁ったまま背を丸くしていた。随分と落胆している様だった。
「…そ、そうか。あぁ…そっかぁ。君、転生管理課だったのか…これは失礼…」
ハバククはそう言って、椅子に座り直した。
「いやぁ…君さ…いい子そうだったからさ…残念だよ…」
『あ、いや、なんかすみません。本当に…』
「本当に残念だよ…転生管理課かぁ…」
「かわいそうに…」
『………え?』
ピピピピッピピピピッ
不意にアラームが鳴り響いた。
タブレットは点滅しており、佐藤くんに何かが起きた事を知らせていた。彼の物語に進展があったのだろうか。彼は転生先の異世界でどんなアンサーをだしたのだろうか。私は急遽転生管理課に戻らなければならなくなった。




