7
放課後の校舎は、少しだけ静かになる。
授業が終わった直後の騒がしさが引いて、
代わりに、部活へ向かう足音や、
どこか気の抜けた笑い声が廊下に残る時間帯。
槌見碧は、生徒会室で最後の確認を終えていた。
机の上に積まれた書類。
チェック済みの付箋。
次に渡すべき場所。
「……eスポーツ部、か」
独り言みたいに呟いて、
碧は書類の束を抱える。
別に特別な用事じゃない。
定期的な提出物。
いつも通りの仕事。
なのに、胸の奥に小さな引っかかりがあった。
(……今日、だよね)
理由ははっきりしている。
昨日から、
布上朔の空気が変わっている。
笑っているわけじゃない。
浮かれているわけでもない。
でも――
迷いが、ない。
それが一番、碧には分かってしまった。
⸻
部室棟に向かう廊下は、少し冷える。
窓から入る夕方の風が、
制服の裾をわずかに揺らす。
eスポーツ部の部室の前で、
碧は足を止めた。
ドアの向こうから、声が聞こえる。
知っている声。
布上朔。
そして、
針瀬悠。
碧は、無意識にノックしようとして――
その手を、止めた。
理由は単純だった。
聞こえてしまったから。
⸻
「……先輩」
悠の声は、いつもより低い。
部活中のはっきりした声とも、
朝の丁寧な挨拶とも違う。
少しだけ、慎重で。
でも、逃げていない声。
碧は、扉に手を伸ばしたまま動けなくなる。
「今週の土曜日、空いてますか」
一瞬、
頭の中が、真っ白になった。
(土曜日……?)
単語だけが、強く残る。
冗談?
練習?
大会?
でも、次の言葉が、それを否定する。
「先輩と、少し一緒にいられたら」
一拍。
「嬉しいな、と思って」
碧の指先が、わずかに震えた。
(……ああ)
理解してしまう。
これは、
部活の話じゃない。
業務連絡でもない。
個人的な誘いだ。
扉の向こうで、
朔がすぐに返事をしない。
その“間”が、
碧にはすべてを物語っていた。
――考えている。
――真剣に。
――軽く流す気がない。
「……いきなりだな」
朔の声は、困ったようで、
でも拒んではいなかった。
碧は、その声を聞いた瞬間、
胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
(……そっか)
ここで、はっきり分かってしまう。
悠は、ちゃんと選ばせている。
押していない。
迫っていない。
でも、逃げ道も作っていない。
それができる一年生。
それを受け止めている朔。
碧は、扉の前で完全に立ち尽くしていた。
⸻
「無理なら、大丈夫です」
悠の声が、少しだけ柔らかくなる。
「無理じゃない方が、嬉しいですけど」
その一言で、
碧の中で、何かが静かに崩れた。
(……この子)
ずるいほど、正しい。
感情を隠さない。
でも、相手の選択を奪わない。
だからこそ、
否定できない。
碧は、ノックするべきか迷った。
今なら、まだ間に合う。
書類を渡すだけ。
会話を遮る正当な理由もある。
でも――
(……止めちゃ、だめだ)
ここで扉を開けたら、
朔の“選ぶ時間”を奪ってしまう。
碧は、ゆっくりと手を下ろした。
そして、一歩だけ後ろに下がる。
扉のすぐ前じゃなく、
少し離れた廊下の壁際へ。
聞こえる会話を、
これ以上聞かない位置。
聞いてしまった。
でも、盗み聞きはしない。
それが、碧なりの線引きだった。
⸻
数分後。
扉が開く音がする。
碧は、何事もなかったように顔を上げた。
「あ」
最初に出てきたのは、悠。
その表情は、
分かりやすいほど落ち着いていて、
少しだけ、嬉しそうだった。
次に、朔。
少し照れたような、
でも迷いのない顔。
碧は、完璧なタイミングで声をかける。
「ちょうどよかった」
書類を差し出す。
「生徒会の提出物」
「あ、ありがとう」
朔が受け取る。
悠も、きちんと頭を下げる。
「ありがとうございます」
いつも通り。
何も知らない顔。
碧は、その二人を見て、
胸の奥で静かに整理する。
(……聞いてしまった)
でも、後悔はない。
これは偶然だ。
避けられなかった。
そして何より――
(……納得してしまった)
それが、一番きつかった。
⸻
部室棟を出て、
碧は一人、夕焼けの廊下を歩く。
足取りは、いつも通り。
でも、胸の中は静かに揺れている。
悔しくないと言えば、嘘になる。
遅れたと思わないわけでもない。
でも。
奪われたわけじゃない。
朔は、自分で選んだ。
悠は、その選択を待った。
それなら――
責める理由は、どこにもない。
「……そっか」
碧は、小さく呟いた。
その言葉は、
諦めじゃない。
受け止めるための言葉だった。
今はまだ、
どう振る舞えばいいか分からない。
でも一つだけ、はっきりしている。
この気持ちを、
誰かのせいにはしない。
碧は、ゆっくりと歩き出した。
土曜日が、
どんな日になるのか。
それを、
まだ知らないまま。
けれど、
もう目は逸らさなかった。
_____________
放課後の空気は、少しだけ重たい。
日が傾いて、
校舎の影が長く伸びる時間帯。
槌見碧は、生徒会室の鍵を閉めてから、
いつもよりゆっくりと廊下を歩いていた。
急ぐ理由はない。
でも、まっすぐ帰る気にもなれない。
角を曲がった先で、
見慣れた後ろ姿を見つけた。
釘宮遥。
駅へ向かう方向。
歩く速度は、いつもより少しだけ速い。
「……遥」
名前を呼ぶと、
遥は一瞬だけ肩を跳ねさせてから振り返った。
「……なに?」
「一緒に帰る?」
誘い方は、いつも通り。
特別じゃない。
「……別にいいけど」
遥は短く答えて、歩き出す。
二人並んで歩く廊下。
話題は、しばらく出てこなかった。
それが、不自然じゃないくらい、
二人は長い付き合いだ。
駅へ向かう途中。
窓から夕焼けが差し込む。
碧は、何気ない調子で口を開いた。
「……遥、今日ちょっと静かじゃない?」
「……そう?」
「うん。いつもより」
遥は前を見たまま、肩をすくめる。
「普通だけど」
「そっか」
否定はしない。
でも、肯定もしない。
碧は、それ以上踏み込まない。
代わりに、少し間を置いて言った。
「……朔くん、決めたみたいだね」
それだけ。
“何を”とは言わない。
“いつ”とも言わない。
でも、その言葉が意味するものは、
二人とも分かっていた。
遥の歩くリズムが、ほんの一瞬だけ乱れる。
「……うん」
短い返事。
それだけで、十分だった。
確認は、終わった。
碧は続ける。
「私は、止める気はないよ」
声は穏やか。
でも、迷いはない。
遥は、少しだけ口元を歪める。
「……私も」
一拍。
「譲る気も、ないけど」
碧は、横目で遥を見る。
視線は前。
でも、拳が軽く握られている。
(……幼馴染だな)
感情が、すぐ表に出る。
それを隠そうともしない。
碧は、少しだけ微笑んだ。
「それでいいと思う」
「なにが」
「……遥らしいから」
遥は一瞬、言い返そうとして――
やめた。
「……碧も、余裕ぶってるよね」
「余裕じゃないよ」
「じゃあなに」
「覚悟」
碧は、はっきり言った。
遥は、小さく舌打ちする。
「……ずるい」
「そうかな」
「そう」
二人は同時に、ため息をついた。
沈黙。
でも、さっきまでより、空気は軽い。
碧は、ぽつりと呟く。
「……あの子、真っ直ぐだね」
「……厄介」
遥の即答に、
碧は小さく笑ってしまう。
「だよね」
「ほんとに」
二人は顔を見合わせない。
でも、同じ方向を見ている。
それが、
恋のライバルとしての合意だった。
駅が見えてくる。
改札の前で、自然と足が止まる。
「……ねえ、碧」
「なに?」
「週末」
一瞬だけ、遥が言葉を探す。
「……暇?」
「どうかな」
碧は、わざと曖昧に答えた。
遥は、少しだけ口角を上げる。
「……そっか」
「そっちこそ」
「……まあね」
何も決めていない。
でも、何かが始まる気配だけは、
確かにそこにあった。
改札を通る前、
碧は一度だけ振り返る。
遥は、もう前を向いている。
(……侵入される気は、ないよね)
碧は心の中で、そう呟いた。
止めない。
でも、見ている。
そのスタンスは、
この先も変わらない。
週末が、
静かに近づいていた。
――誰も、
それを“デート”と呼ばないまま。




