6
朝の空気は、少し冷たかった。
その冷たさが、針瀬悠にはありがたい。
胸の奥に溜まりやすい熱を、ちゃんと外に逃がしてくれるからだ。
――今日も、行く。
それは衝動じゃない。
迷いでもない。
習慣だ。
一年生の教室とは逆方向へ、悠は迷いなく歩く。
二年生フロアへ向かう階段を上がる足取りは、静かで、でも確かだった。
誰に言われたわけでもない。
禁止されたこともない。
ただ、自分の中で決めている。
朝は、先輩の無事を確認する。
それができないと、一日が始まらない。
廊下の角を曲がる。
そこに、見慣れた背中があった。
(……いた)
それだけで、胸が落ち着く。
布上朔は、いつも通りの速度で歩いている。
姿勢は少し猫背で、でも足取りは安定している。
昨日より、少しだけ軽そうだ。
――大丈夫そう。
でも、見るだけじゃ足りない。
声を聞かないといけない。
「……おはようございます」
声は低く、抑えて。
でも、逃げない。
朔は足を止め、振り返った。
「ああ、おはよう」
それだけ。
たったそれだけなのに、
悠の胸の奥で、張り詰めていたものがほどける。
「今日も、先輩に会えて安心しました」
自然に出た言葉だった。
用意していたわけじゃない。
でも、嘘でもない。
「安心って……」
朔は少し困ったように笑う。
「大げさじゃないか?」
「大げさじゃないです」
悠は即答した。
「先輩が元気そうだと、今日はちゃんと頑張れるって思えるので」
言ってから、一瞬だけ呼吸が浅くなる。
重いかもしれない。
そう思わないわけじゃない。
でも――
「そうか」
朔はそれ以上、突っ込まなかった。
「なら、良かった」
否定されない。
困った顔もされない。
それだけで、十分だった。
「はい」
悠は小さく頷く。
「今日も、よろしくお願いします」
「おう」
短い返事。
それを聞いた瞬間、
悠は一歩だけ距離を下げる。
「それでは、失礼します」
深く頭を下げて、その場を離れる。
長居はしない。
会話を引き延ばさない。
触れない。
触れたい気持ちは、確かにある。
でも、それは今日じゃない。
今日じゃなくていい。
階段を下りながら、悠は小さく息を吐いた。
(……今日も、できた)
それだけで、自分を少し誇らしく思える。
⸻
午前の授業は、驚くほど集中できた。
ノートを取る手が止まらない。
先生の声も、ちゃんと頭に入る。
理由は分かっている。
朝に、先輩を確認できたからだ。
それだけで、余計な不安が消える。
(……好きだな)
自覚はある。
かなり重たい自覚だ。
でも、止める気はない。
好きだからこそ、ちゃんとしていたい。
好きだからこそ、節度を守りたい。
それが、悠の愛し方だった。
⸻
放課後。
eスポーツ部の部室は、いつもより少し静かだった。
大声を出す桜先輩もいるが、それはいつも通りだ。
朔が端末の前に座ると、
悠の背筋が自然と伸びる。
「先輩」
悠は一礼する。
「今日も、一緒に練習できて嬉しいです」
「そうか」
朔は画面を見たまま答える。
「集中しろよ」
「はい」
それで十分だ。
練習が始まる。
悠は前線に立つ。
待つ。
守る。
指示が来るまで、動かない。
待てるのは、信じているからだ。
「悠、ここ耐えて」
「はい」
即答。
迷いはない。
画面の中で戦況が動く。
一瞬、判断が遅れそうになる。
でも――
「今、行っていい」
朔の声。
「はい!」
その一言で、世界が一本の線になる。
体が、勝手に動く。
迷いが消える。
(……この感じ)
この感覚が、好きだ。
先輩の声で、自分が正解になる感覚。
戦闘が終わる。
勝ち。
短い沈黙のあと、朔が言った。
「今の判断、よかった」
悠の胸が、ぎゅっと締まる。
「……はい」
一拍置いて、
「先輩に褒めてもらえるの、好きです」
部室が一瞬、静まった。
「言うな」
斎が即座に突っ込む。
「事実です」
悠は真顔だ。
桜先輩が机に突っ伏す。
「もう……砂糖……」
「集中しろ」
朔が言う。
「はい」
それで終わり。
でも、胸の奥はずっと温かい。
⸻
練習後。
片付けをしながら、悠は朔の隣に立つ。
肩が触れない距離。
でも、離れすぎない距離。
「先輩」
「なに」
少しだけ、声が低くなる。
「一緒にいる時間、全部好きです」
日常みたいに言う。
特別みたいに言わない。
でも、本音だ。
「……変わってるな」
朔はそう言って、苦笑する。
「よく言われます」
否定されない。
それだけでいい。
でも、今日はここで終わらせたくなかった。
悠は、深呼吸をひとつする。
逃げない。
でも、押さない。
「……先輩」
「ん?」
悠は、視線を逸らさずに言った。
「今週の土曜日、空いてますか」
空気が、ほんの少しだけ変わる。
「……土曜日?」
朔の返事が、一拍遅れた。
それで分かる。
――ここが、境目だ。
悠は畳みかけない。
でも、引かない。
「先輩と、少し一緒にいられたら」
一拍。
「嬉しいな、と思って」
それだけ。
デートとは言わない。
約束とも言い切らない。
でも、意味は十分に伝わる。
朔はすぐに答えなかった。
考えている。
逃げてはいない。
悠は、それを待つ。
待てる。
待つのは、嫌いじゃない。
――この続きを、ちゃんと大事にしたかった。
____________
今週の土曜日、空いてますか。
その一言が落ちてから、
部室の空気は、ほんのわずかに変わった。
誰かが騒ぐわけでもない。
誰かが口を挟むわけでもない。
ただ、
布上朔の中で、歯車が一つ回った。
「……土曜日?」
一拍遅れた返事。
その間に、朔は頭の中で予定を探していた。
探して――何もないことを確認してしまった。
それが、少しだけ怖かった。
「先輩と、少し一緒にいられたら」
悠は続ける。
「嬉しいな、と思って」
言い切らない。
でも、逃げない。
押してこないのに、引く気もない。
朔は、困ったように息を吐いた。
「……いきなりだな」
「すみません」
「いや、そういう意味じゃない」
言葉を選ぶ。
断る理由は、ない。
でも、軽く決めていいことでもない。
「……何するつもりだ」
「一緒に、何かできたら」
具体性はない。
でも、誤魔化しもない。
朔は、視線を床に落とした。
「……俺、こういうの慣れてないぞ」
「知ってます」
悠は即答する。
「だから、いいです」
それが“いい”理由を、悠は説明しない。
でも、説明しなくても伝わる。
朔は、しばらく黙ってから言った。
「……少しだけなら」
「……はい」
悠の声が、わずかに震えた。
「昼でいいか」
「はい」
「駅前で」
「はい」
一つずつ、決まっていく。
それは“約束”というより、
朔が自分で選んでいく過程だった。
「……じゃあ」
朔は最後に言った。
「土曜日、会おうか」
その一言で、十分だった。
「……ありがとうございます」
悠は深く頭を下げる。
「すごく、嬉しいです」
それ以上は言わない。
触れない。
でも、表情は隠せていなかった。
約束は、それで成立した。
⸻
帰り道。
駅へ向かう道は、いつもと同じ。
人通りも、信号のタイミングも。
隣を歩く、釘宮遥も。
「……今日は静かだね」
遥が言う。
「そうか?」
「うん」
遥は、ちらりと朔を見る。
歩く速度が、一定。
足取りが、軽すぎない。
でも――
(……なんか、違う)
ほんの少しだけ、
迷いがない。
それが、一番おかしかった。
「……部活、どうだった?」
遥は、いつも通りの質問を投げる。
「まあ、普通」
「へぇ」
“普通”。
でも、声が違う。
疲れていない。
誤魔化していない。
遥は、足を止めずに続ける。
「……今日さ」
「ん?」
「なんか、いいことあった?」
一瞬。
朔の歩くリズムが、わずかにズレた。
それを、遥は見逃さない。
「……別に」
「ふーん」
否定はしない。
でも、肯定もしない。
それが答えだった。
(……あ)
遥の胸の奥で、
何かが、すとんと落ちる。
ああ、これは。
誰かと約束した時の、歩き方だ。
自分が隣にいながら、
“別の時間”を持っている人の歩き方。
遥は、何も言わなかった。
言わなかったけど、
袖を掴む指に、少しだけ力が入る。
「……土曜」
ぽつりと、独り言みたいに言う。
「え?」
「ううん、なんでもない」
聞き返されても、続けない。
確認しない。
詮索しない。
でも、もう分かってしまった。
(……誰かと、会うんだ)
それが誰かは、まだ分からない。
でも――
私じゃない。
その事実だけが、胸に残る。
「……ねえ」
「ん?」
「土日、ちゃんと休みなよ」
「……分かってる」
分かっていないのに、
分かったふりをする声。
遥は、それ以上言わなかった。
駅に着いて、いつものように別れる。
「じゃ」
「うん」
改札をくぐる直前、
遥は一度だけ振り返った。
朔は、少しだけ上を向いて歩いている。
――前を向いている。
(……そっか)
遥は、改札を通る。
胸の奥が、少しだけ苦しい。
でも、怒りじゃない。
悲しみでもない。
置いていかれる感覚。
それだけだった。
「……別に、いいし」
誰に聞かせるでもなく呟いて、
遥は電車に乗り込んだ。
その言葉が、
自分を納得させるためのものだと、
ちゃんと分かりながら。




