5
朝の駅は、昨日までと何も変わらない。
同じホーム。
同じ白線。
同じ時間帯。
それなのに、僕の立ち位置だけが、ほんの少しだけ違っている気がした。
「……朔」
声は低く、短い。
釘宮遥。
ショートボブが揺れて、視線がこちらを向く。
腕は組んでいない。
その代わり、僕の袖が掴まれている。
「白線」
「出てない」
「出てる」
「出てない」
「出てる」
今日も判決は早い。
「……昨日も同じこと言われた」
「昨日も出てた」
「出てない」
「出てた」
「……」
反論する前に、遥が一歩だけ僕を引いた。
ほんの一歩。
でも、それで全部が落ち着く。
不思議だ。
人の流れが多い朝のホームで、
遥に袖を掴まれると、なぜか周りが見えなくなる。
「今日は、強めだな」
僕が言うと、
「当たり前」
遥は即答した。
「何が」
「今日は、試合の翌日でしょ」
「……まあ」
「油断する日」
「油断してない」
「油断してる顔」
「顔で判断するな」
「判断する」
いつもの会話。
いつものやり取り。
なのに、昨日までより距離が近い。
それを意識した瞬間、
意識しないようにしてる自分にも気づいてしまって、
ちょっとだけ居心地が悪くなる。
後ろから声。
「おはよー。朝から安定してるね」
糸井湊。
茶髪ショート。
爽やか。
そして、今日も余計なことを言う。
「何が」
遥が睨む。
「距離」
「近くない」
「近い」
「近くない」
「近い」
湊は楽しそうに笑った。
「ねえ朔、昨日の試合、どうだった?」
「……普通」
「普通で済む顔じゃない」
「顔の話やめて」
「やめない」
遥が、少しだけ僕の袖を引いた。
「話題変えるな」
「変えてない」
「変えてる」
「……変えてない」
変えてないけど、
遥はたぶん分かっている。
昨日の試合の話を、
僕があまりしたくない理由を。
電車が来る。
人に押されて、自然といつもの位置になる。
遥は僕の前。
僕は遥の後ろ。
距離は近いけど、触れてはいない。
触れていないのに、触れているみたいだ。
湊が僕の耳元で囁く。
「今日は、悠いないね」
「……うん」
「静かだ」
「……そうだな」
静か。
それを、少しだけ“物足りない”と感じてしまった自分に、
気づかないふりをする。
遥がぼそっと言った。
「……別に、いなくても困らないでしょ」
「え?」
「なに」
「いや……」
「なに」
「なんでもない」
遥は前を向いた。
その耳が、ほんの少しだけ赤い。
⸻
学校に着く。
改札を抜けて、いつもの道を歩く。
遥は、歩幅を合わせてくる。
僕が早くなれば早くなり、遅くなれば遅くなる。
昔からだ。
理由を聞いたことはない。
聞かなくても、成り立っている。
「今日、部活は」
「今日は軽め」
「……そっか」
「なんだ」
「別に」
遥はそう言って、視線を逸らす。
僕は、その横顔を見て思う。
遥は、変わらない。
強くて、真っ直ぐで、少し不器用で。
それが、幼馴染というやつなのかもしれない。
⸻
教室。
席に着くと、すぐに声がかかった。
「朔くん」
槌見碧。
今日も早い。
今日も穏やか。
「おはよう」
「おはよう」
「昨日、疲れてない?」
「……少し」
「やっぱり」
机の上に、いつものセットが置かれる。
水。
栄養バー。
そして今日は、いつもより小さいチョコ。
「今日は控えめ」
「なんで」
「昨日は頑張ったから」
「基準が分からない」
「私の基準」
碧はにこっと笑う。
この笑顔に、何度助けられてきたか分からない。
遥が少し遅れて教室に入ってきた。
視線が一瞬だけ交差する。
碧は、その一瞬を見逃さない。
「遥ちゃん、おはよう」
「……おはよう」
「今日、電車一緒だった?」
「……いつも」
「そっか」
それだけ。
それだけなのに、
なぜか空気が少しだけ張る。
湊が間に入る。
「はいはい、朝から静かな圧やめよー」
「圧じゃない」
遥。
「圧だよ」
碧。
「圧って言うな」
「圧だもん」
碧は僕を見る。
「悠ちゃん、今日は来ないの?」
「……たぶん」
「そっか」
碧はそれ以上聞かない。
聞かないけど、
分かってる顔をしている。
それが、碧だ。
⸻
午前の授業は、頭に入らなかった。
ノートは取っている。
黒板も見ている。
でも、頭のどこかが別のことを考えている。
昨日の試合。
悠の声。
「怖かったです」という言葉。
そして、今朝の遥の距離。
昼休み。
屋上に行こうとしたら、
遥が先に立っていた。
「行くんでしょ」
「……分かるの?」
「分かる」
理由を言わないのも、いつも通り。
屋上は風が強い。
フェンスに寄りかかって、遥は空を見る。
「……昨日、勝ったんでしょ」
「……なんで知ってる」
「噂」
「噂、早いな」
「早い」
遥はそれ以上言わない。
おめでとうも、すごいも、言わない。
でも、それが遥だ。
「……楽しかった」
僕がぽつりと言う。
「そっか」
遥。
「……あんた、変わったね」
「え?」
「前より、声が違う」
「声?」
「指示出す時の声」
遥は、ちゃんと見ていた。
直接じゃないのに。
近くにいなかったのに。
「……よく分かるな」
「幼馴染だし」
「便利な言葉」
「事実」
遥はそう言って、フェンスから離れた。
「でも」
立ち去る前に、
「調子乗るなよ」
「……」
「怪我も、無理も、するな」
「……うん」
それだけ言って、去っていく。
背中が、少しだけ小さく見えた。
⸻
午後の授業が終わる。
部活は軽め。
今日は調整だけ。
悠はいない。
だから、部室は少し静かだ。
「なんか物足りないね」
桜先輩。
「静かすぎる」
「静かでいい」
斎。
「よくない!」
「よくない理由は?」
「……テンション!」
蓮先輩が苦笑する。
「今日は整える日だ」
「整えすぎて逆に落ち着かない」
「贅沢」
僕は端末を触りながら、
ふとスマホを見る。
通知が一つ。
【悠】
『昨日の試合、ありがとうございました』
短い。
でも、真っ直ぐ。
それを見ていると、
横から視線を感じた。
遥だ。
「……人気者」
「え?」
「メッセージ」
「……ああ」
「ふーん」
それ以上、何も言わない。
でも、遥は自然に僕の隣に立った。
距離が、朝と同じ。
「……慣れてるでしょ」
小さな声。
「何が」
「隣」
遥は前を向いたまま言った。
僕は少し考えて、答える。
「……まあ」
「でしょ」
それで会話は終わり。
でも、その一言が、
胸の奥でじわじわ効いてくる。
言わない。
踏み込まない。
でも、離れない。
――幼馴染は、ずるい。
⸻
放課後の校舎は、昼間より少しだけ柔らかい。
日差しが傾いて、廊下の影が長くなる。
部活へ向かう生徒と、帰る生徒が入り混じって、
その境目の時間は、いつも少しだけ落ち着かない。
陸上部のグラウンドから、笛の音が聞こえる。
規則正しくて、迷いのない音。
思わず、足が止まった。
「……行くの?」
横に立つ遥が、当然みたいに聞いてくる。
「……うん」
「そっか」
それだけ言って、遥は歩き出した。
陸上部の練習は、いつも同じ時間帯。
それを知ってるのは、昔からだから。
理由なんて、特にない。
ただ、知っている。
⸻
グラウンドは、相変わらずだった。
整列。
掛け声。
無駄のない動き。
遥は、もう“部の一員”として溶け込んでいる。
全国優勝経験者、なんて肩書きは、ここではただの実績でしかない。
スタートラインに立つ遥の姿を、
僕は少し離れた場所から見ていた。
真っ直ぐ前を見る目。
背筋。
呼吸。
――変わらない。
昔から、遥はこうだった。
やると決めたことは、やる。
迷わない。
言い訳しない。
笛が鳴る。
一斉に走り出す。
速い。
速さに、迷いがない。
それを見て、胸の奥が少しだけ締め付けられる。
「……やっぱ、すごいな」
思わず、声が漏れた。
遥は聞こえない距離にいるはずなのに、
なぜか一瞬だけ、こちらを見た気がした。
気のせいだろう。
そう思って視線を逸らした瞬間、
隣から声がした。
「今さら」
遥だった。
いつの間にか、練習の合間に戻ってきている。
「……聞こえた?」
「聞こえる」
「……距離」
「聞こえる距離」
遥はタオルで首元を拭きながら、僕を見る。
「今さら、すごいとか言われても」
「……事実だから」
「事実でも、今さら」
少し照れたように、目を逸らす。
その仕草が、
昔と変わらなくて、
変わった今と重なって、
胸がざわつく。
「……あんたも、すごいじゃん」
「え?」
「昨日の試合」
遥はあくまで“ついで”みたいに言う。
「指示、ちゃんと通ってた」
「……見てたの?」
「噂」
「噂でそこまで分かる?」
「分かる」
言い切る。
遥の言い切りは、いつも正しい。
「昔からさ」
遥がぽつりと言う。
「人の動き、よく見てたでしょ」
「……そうかな」
「そう」
それ以上、説明しない。
でも、その一言で十分だった。
⸻
練習が終わる。
夕方の空は、少しオレンジがかっている。
帰り道。
並んで歩くのは、いつも通り。
なのに、今日は少しだけ静かだった。
「……今日、悠いないんだね」
遥が言う。
「……うん」
「ふーん」
それ以上、何も言わない。
聞きたいのは分かる。
でも、聞かない。
それが、遥だ。
「……寂しい?」
唐突に聞かれる。
「え?」
「静かだし」
「……まあ」
「まあ、か」
遥は、足を止めた。
「別に、悪い意味じゃないから」
「……何が」
「他の人と話すの」
その言葉に、心臓が一拍遅れる。
「……それは」
「分かってる」
遥は、すぐに言葉を切る。
「分かってるけど」
一拍。
「……隣は、私の場所だから」
言い切りじゃない。
でも、冗談でもない。
僕は、何も言えなかった。
言えないのに、
否定する気も起きなかった。
遥はそれで満足したみたいに、歩き出す。
「ほら、行くよ」
「……うん」
⸻
駅までの道。
夕暮れの風が、少し冷たい。
人混みの中で、
遥は自然に僕の袖を掴む。
もう、何度目か分からない。
でも、その回数を数えたことは、一度もない。
「……慣れてるでしょ」
遥が小さく言う。
「……何が」
「こういうの」
掴まれた袖。
距離。
歩幅。
全部。
「……まあ」
僕が答えると、
「でしょ」
遥はそれ以上言わない。
言わないのに、
全部持っていく。
電車が来る。
乗り込む。
立ち位置も、いつも通り。
遥が前。
僕が後ろ。
揺れに合わせて、少しだけ距離が縮まる。
触れていないのに、
触れているみたいな距離。
スマホが震えた。
【悠】
『次の練習も、よろしくお願いします』
短い文面。
画面を閉じようとした瞬間、
遥の視線が一瞬だけ、そこに落ちた。
「……忙しいね」
「え?」
「人気者」
声は淡々としている。
でも、遥の指が、
さっきより少しだけ強く袖を掴んだ。
「……嫌?」
思わず、聞いてしまった。
遥は、少しだけ驚いた顔をしてから、
すぐに視線を逸らす。
「嫌じゃない」
「……」
「嫌だったら、言う」
それは、遥なりの保証だった。
電車が揺れる。
その揺れに合わせて、
遥が一歩だけ、こちらに体重を預けてきた。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
「……」
「……」
何も言わない。
でも、胸がうるさい。
頭より先に、心臓が理解してしまう。
――ああ。
この距離は、
説明しなくていい距離なんだ。
⸻
駅に着く。
人が降りていく。
ホームに出る直前、
遥が小さく言った。
「……変わってもさ」
「……うん」
「隣は、変わらないから」
それだけ。
告白でも、宣言でもない。
でも、その一言が、
今日一番、胸に残った。
改札を抜けて、分かれ道。
「じゃ」
「……うん」
遥は振り返らない。
でも、背中は真っ直ぐだ。
僕は、その背中を見ながら思う。
幼馴染は、
近すぎて、
当たり前すぎて、
だからこそ、
一番ずるい。
スマホが、もう一度震えた。
【悠】
『今日も、お疲れさまでした』
そして、少し間を置いて。
【悠】
『先輩の声、思い出してました』
胸が、またうるさくなる。
でも。
さっきの遥の一言が、
それを静かに包み込む。
――隣は、変わらない。
その言葉の意味を、
僕はまだ、ちゃんと分かっていない。
分かっていないからこそ、
こんなにも、落ち着かない。




