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誰かに必要とされる理由を、僕はまだ知らない  作者: 優未緋


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5/23

5


 朝の駅は、昨日までと何も変わらない。


 同じホーム。

 同じ白線。

 同じ時間帯。


 それなのに、僕の立ち位置だけが、ほんの少しだけ違っている気がした。


「……朔」


 声は低く、短い。


 釘宮遥。


 ショートボブが揺れて、視線がこちらを向く。

 腕は組んでいない。

 その代わり、僕の袖が掴まれている。


「白線」

「出てない」

「出てる」

「出てない」

「出てる」


 今日も判決は早い。


「……昨日も同じこと言われた」

「昨日も出てた」

「出てない」

「出てた」

「……」


 反論する前に、遥が一歩だけ僕を引いた。


 ほんの一歩。

 でも、それで全部が落ち着く。


 不思議だ。


 人の流れが多い朝のホームで、

 遥に袖を掴まれると、なぜか周りが見えなくなる。


「今日は、強めだな」

 僕が言うと、

「当たり前」

 遥は即答した。

「何が」

「今日は、試合の翌日でしょ」

「……まあ」

「油断する日」

「油断してない」

「油断してる顔」

「顔で判断するな」

「判断する」


 いつもの会話。

 いつものやり取り。


 なのに、昨日までより距離が近い。


 それを意識した瞬間、

 意識しないようにしてる自分にも気づいてしまって、

 ちょっとだけ居心地が悪くなる。


 後ろから声。


「おはよー。朝から安定してるね」


 糸井湊。


 茶髪ショート。

 爽やか。

 そして、今日も余計なことを言う。


「何が」

 遥が睨む。

「距離」

「近くない」

「近い」

「近くない」

「近い」


 湊は楽しそうに笑った。


「ねえ朔、昨日の試合、どうだった?」

「……普通」

「普通で済む顔じゃない」

「顔の話やめて」

「やめない」


 遥が、少しだけ僕の袖を引いた。


「話題変えるな」

「変えてない」

「変えてる」

「……変えてない」


 変えてないけど、

 遥はたぶん分かっている。


 昨日の試合の話を、

 僕があまりしたくない理由を。


 電車が来る。


 人に押されて、自然といつもの位置になる。


 遥は僕の前。

 僕は遥の後ろ。


 距離は近いけど、触れてはいない。

 触れていないのに、触れているみたいだ。


 湊が僕の耳元で囁く。


「今日は、悠いないね」

「……うん」

「静かだ」

「……そうだな」


 静か。


 それを、少しだけ“物足りない”と感じてしまった自分に、

 気づかないふりをする。


 遥がぼそっと言った。


「……別に、いなくても困らないでしょ」

「え?」

「なに」

「いや……」

「なに」

「なんでもない」


 遥は前を向いた。


 その耳が、ほんの少しだけ赤い。



 学校に着く。


 改札を抜けて、いつもの道を歩く。


 遥は、歩幅を合わせてくる。

 僕が早くなれば早くなり、遅くなれば遅くなる。


 昔からだ。


 理由を聞いたことはない。

 聞かなくても、成り立っている。


「今日、部活は」

「今日は軽め」

「……そっか」

「なんだ」

「別に」


 遥はそう言って、視線を逸らす。


 僕は、その横顔を見て思う。


 遥は、変わらない。


 強くて、真っ直ぐで、少し不器用で。


 それが、幼馴染というやつなのかもしれない。



 教室。


 席に着くと、すぐに声がかかった。


「朔くん」


 槌見碧。


 今日も早い。

 今日も穏やか。


「おはよう」

「おはよう」

「昨日、疲れてない?」

「……少し」

「やっぱり」


 机の上に、いつものセットが置かれる。


 水。

 栄養バー。

 そして今日は、いつもより小さいチョコ。


「今日は控えめ」

「なんで」

「昨日は頑張ったから」

「基準が分からない」

「私の基準」


 碧はにこっと笑う。


 この笑顔に、何度助けられてきたか分からない。


 遥が少し遅れて教室に入ってきた。


 視線が一瞬だけ交差する。


 碧は、その一瞬を見逃さない。


「遥ちゃん、おはよう」

「……おはよう」

「今日、電車一緒だった?」

「……いつも」

「そっか」


 それだけ。


 それだけなのに、

 なぜか空気が少しだけ張る。


 湊が間に入る。


「はいはい、朝から静かな圧やめよー」

「圧じゃない」

 遥。

「圧だよ」

 碧。

「圧って言うな」

「圧だもん」


 碧は僕を見る。


「悠ちゃん、今日は来ないの?」

「……たぶん」

「そっか」


 碧はそれ以上聞かない。


 聞かないけど、

 分かってる顔をしている。


 それが、碧だ。



 午前の授業は、頭に入らなかった。


 ノートは取っている。

 黒板も見ている。


 でも、頭のどこかが別のことを考えている。


 昨日の試合。

 悠の声。

 「怖かったです」という言葉。


 そして、今朝の遥の距離。


 昼休み。


 屋上に行こうとしたら、

 遥が先に立っていた。


「行くんでしょ」

「……分かるの?」

「分かる」


 理由を言わないのも、いつも通り。


 屋上は風が強い。


 フェンスに寄りかかって、遥は空を見る。


「……昨日、勝ったんでしょ」

「……なんで知ってる」

「噂」

「噂、早いな」

「早い」


 遥はそれ以上言わない。


 おめでとうも、すごいも、言わない。


 でも、それが遥だ。


「……楽しかった」

 僕がぽつりと言う。

「そっか」

 遥。


「……あんた、変わったね」

「え?」

「前より、声が違う」

「声?」

「指示出す時の声」


 遥は、ちゃんと見ていた。


 直接じゃないのに。

 近くにいなかったのに。


「……よく分かるな」

「幼馴染だし」

「便利な言葉」

「事実」


 遥はそう言って、フェンスから離れた。


「でも」

 立ち去る前に、

「調子乗るなよ」

「……」

「怪我も、無理も、するな」

「……うん」


 それだけ言って、去っていく。


 背中が、少しだけ小さく見えた。



 午後の授業が終わる。


 部活は軽め。

 今日は調整だけ。


 悠はいない。


 だから、部室は少し静かだ。


「なんか物足りないね」

 桜先輩。

「静かすぎる」

「静かでいい」

 斎。

「よくない!」

「よくない理由は?」

「……テンション!」


 蓮先輩が苦笑する。


「今日は整える日だ」

「整えすぎて逆に落ち着かない」

「贅沢」


 僕は端末を触りながら、

 ふとスマホを見る。


 通知が一つ。


【悠】

『昨日の試合、ありがとうございました』


 短い。

 でも、真っ直ぐ。


 それを見ていると、

 横から視線を感じた。


 遥だ。


「……人気者」

「え?」

「メッセージ」

「……ああ」

「ふーん」


 それ以上、何も言わない。


 でも、遥は自然に僕の隣に立った。


 距離が、朝と同じ。


「……慣れてるでしょ」

 小さな声。


「何が」

「隣」


 遥は前を向いたまま言った。


 僕は少し考えて、答える。


「……まあ」

「でしょ」


 それで会話は終わり。


 でも、その一言が、

 胸の奥でじわじわ効いてくる。


 言わない。

 踏み込まない。

 でも、離れない。


 ――幼馴染は、ずるい。



 放課後の校舎は、昼間より少しだけ柔らかい。


 日差しが傾いて、廊下の影が長くなる。

 部活へ向かう生徒と、帰る生徒が入り混じって、

 その境目の時間は、いつも少しだけ落ち着かない。


 陸上部のグラウンドから、笛の音が聞こえる。


 規則正しくて、迷いのない音。


 思わず、足が止まった。


「……行くの?」


 横に立つ遥が、当然みたいに聞いてくる。


「……うん」

「そっか」


 それだけ言って、遥は歩き出した。


 陸上部の練習は、いつも同じ時間帯。

 それを知ってるのは、昔からだから。


 理由なんて、特にない。


 ただ、知っている。



 グラウンドは、相変わらずだった。


 整列。

 掛け声。

 無駄のない動き。


 遥は、もう“部の一員”として溶け込んでいる。

 全国優勝経験者、なんて肩書きは、ここではただの実績でしかない。


 スタートラインに立つ遥の姿を、

 僕は少し離れた場所から見ていた。


 真っ直ぐ前を見る目。

 背筋。

 呼吸。


 ――変わらない。


 昔から、遥はこうだった。


 やると決めたことは、やる。

 迷わない。

 言い訳しない。


 笛が鳴る。


 一斉に走り出す。


 速い。


 速さに、迷いがない。


 それを見て、胸の奥が少しだけ締め付けられる。


「……やっぱ、すごいな」


 思わず、声が漏れた。


 遥は聞こえない距離にいるはずなのに、

 なぜか一瞬だけ、こちらを見た気がした。


 気のせいだろう。


 そう思って視線を逸らした瞬間、

 隣から声がした。


「今さら」


 遥だった。


 いつの間にか、練習の合間に戻ってきている。


「……聞こえた?」

「聞こえる」

「……距離」

「聞こえる距離」


 遥はタオルで首元を拭きながら、僕を見る。


「今さら、すごいとか言われても」

「……事実だから」

「事実でも、今さら」


 少し照れたように、目を逸らす。


 その仕草が、

 昔と変わらなくて、

 変わった今と重なって、

 胸がざわつく。


「……あんたも、すごいじゃん」

「え?」

「昨日の試合」


 遥はあくまで“ついで”みたいに言う。


「指示、ちゃんと通ってた」

「……見てたの?」

「噂」

「噂でそこまで分かる?」

「分かる」


 言い切る。


 遥の言い切りは、いつも正しい。


「昔からさ」

 遥がぽつりと言う。

「人の動き、よく見てたでしょ」

「……そうかな」

「そう」


 それ以上、説明しない。


 でも、その一言で十分だった。



 練習が終わる。


 夕方の空は、少しオレンジがかっている。


 帰り道。


 並んで歩くのは、いつも通り。

 なのに、今日は少しだけ静かだった。


「……今日、悠いないんだね」

 遥が言う。

「……うん」

「ふーん」


 それ以上、何も言わない。


 聞きたいのは分かる。

 でも、聞かない。


 それが、遥だ。


「……寂しい?」

 唐突に聞かれる。

「え?」

「静かだし」

「……まあ」

「まあ、か」


 遥は、足を止めた。


「別に、悪い意味じゃないから」

「……何が」

「他の人と話すの」


 その言葉に、心臓が一拍遅れる。


「……それは」

「分かってる」


 遥は、すぐに言葉を切る。


「分かってるけど」

 一拍。

「……隣は、私の場所だから」


 言い切りじゃない。

 でも、冗談でもない。


 僕は、何も言えなかった。


 言えないのに、

 否定する気も起きなかった。


 遥はそれで満足したみたいに、歩き出す。


「ほら、行くよ」

「……うん」



 駅までの道。


 夕暮れの風が、少し冷たい。


 人混みの中で、

 遥は自然に僕の袖を掴む。


 もう、何度目か分からない。


 でも、その回数を数えたことは、一度もない。


「……慣れてるでしょ」

 遥が小さく言う。

「……何が」

「こういうの」


 掴まれた袖。


 距離。


 歩幅。


 全部。


「……まあ」

 僕が答えると、

「でしょ」


 遥はそれ以上言わない。


 言わないのに、

 全部持っていく。


 電車が来る。


 乗り込む。


 立ち位置も、いつも通り。


 遥が前。

 僕が後ろ。


 揺れに合わせて、少しだけ距離が縮まる。


 触れていないのに、

 触れているみたいな距離。


 スマホが震えた。


【悠】

『次の練習も、よろしくお願いします』


 短い文面。


 画面を閉じようとした瞬間、

 遥の視線が一瞬だけ、そこに落ちた。


「……忙しいね」

「え?」

「人気者」


 声は淡々としている。


 でも、遥の指が、

 さっきより少しだけ強く袖を掴んだ。


「……嫌?」

 思わず、聞いてしまった。


 遥は、少しだけ驚いた顔をしてから、

 すぐに視線を逸らす。


「嫌じゃない」

「……」

「嫌だったら、言う」


 それは、遥なりの保証だった。


 電車が揺れる。


 その揺れに合わせて、

 遥が一歩だけ、こちらに体重を預けてきた。


 ほんの一瞬。

 でも、確かに。


「……」

「……」


 何も言わない。


 でも、胸がうるさい。


 頭より先に、心臓が理解してしまう。


 ――ああ。


 この距離は、

 説明しなくていい距離なんだ。



 駅に着く。


 人が降りていく。


 ホームに出る直前、

 遥が小さく言った。


「……変わってもさ」

「……うん」

「隣は、変わらないから」


 それだけ。


 告白でも、宣言でもない。


 でも、その一言が、

 今日一番、胸に残った。


 改札を抜けて、分かれ道。


「じゃ」

「……うん」


 遥は振り返らない。


 でも、背中は真っ直ぐだ。


 僕は、その背中を見ながら思う。


 幼馴染は、

 近すぎて、

 当たり前すぎて、

 だからこそ、

 一番ずるい。


 スマホが、もう一度震えた。


【悠】

『今日も、お疲れさまでした』


 そして、少し間を置いて。


【悠】

『先輩の声、思い出してました』


 胸が、またうるさくなる。


 でも。


 さっきの遥の一言が、

 それを静かに包み込む。


 ――隣は、変わらない。


 その言葉の意味を、

 僕はまだ、ちゃんと分かっていない。


 分かっていないからこそ、

 こんなにも、落ち着かない。


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