3
朝のホームは、今日も同じ顔をしていた。
同じ時刻。
同じ白線。
同じ駅員のアナウンス。
違うのは――僕の周りの空気だけだ。
先週までの僕は、ホームで白線を見て、電車に乗って、学校へ行って、当たり前みたいに一日を終えていた。
それが今は、ホームに立った瞬間から「何かが起きる」気がして落ち着かない。
原因は分かっている。
針瀬悠。
昨日、突然現れて、突然告白みたいなことを言って、突然入部希望を出して、突然僕の生活の中心に割り込んできた一年生。
しかも――女の子だ。
しかも――砂糖を吐くタイプだ。
僕は気づかないふりをしていた。
気づいたら負ける気がした。
何に負けるのかは分からないけど、負ける気がした。
「朔」
呼ばれて顔を上げる。
釘宮遥が腕を組んで立っていた。ショートボブが朝の風で揺れている。
目が鋭い。鋭さがいつもより少し増してる気がする。
「白線、近い」
「……近くない」
「近い」
「近くない」
「近い」
判決。終わり。
僕が一歩下がると、遥は満足そうに……はせず、まだ足元を見ている。
「……昨日さ」
「うん」
「一年、入ってくるって言ってたよね」
「……うん」
「誰」
質問が短い。
短いのに圧が強い。
「えっと……悠と、凛」
「凛は分かる」
「分かる?」
「条鋼の妹でしょ」
「……知ってるんだ」
「噂」
噂の流通速度が速い。
遥は「悠」という名前の方を口に出す前に、わざと間を置いた。
「……針瀬、悠」
「うん」
「どんな子」
どんな子。
その聞き方が、妙に真剣だった。
「えっと……強引で、まっすぐで」
「まっすぐ」
「……距離が近い」
「近い」
遥の眉がぴくっと動いた。
「どれくらい」
「……どれくらいって」
「近いの、どれくらい」
距離をセンチで測る話じゃない。
でも遥は、たぶんセンチで聞いている。
「……気づいたら、そこにいる感じ」
「最悪」
「え?」
遥は僕の「え?」を無視して、前を向いたまま言う。
「朔、鈍感だから」
「……うるさい」
「うるさくない。事実」
事実って便利だな。
最近よく聞く。
後ろから軽い声。
「おはよー、朝から詰められてるね朔」
糸井湊が到着した。茶髪ショート、爽やか、笑顔が軽い。
その軽さが、今日はいっそう腹立たしい。
「おはよう」
「おは」
遥が短く言う。
「おはー。遥、今日キレてる?」
「キレてない」
「キレてる」
「キレてない」
「キレてる」
湊が楽しそうに笑う。
「で、例の一年生? 悠ちゃん? どうだった?」
「……どうって」
「朔が死にかけてた」
遥がぼそっと言う。
「死にかけてない」
「死にかけてた」
「死にかけてない」
「顔」
遥。
「顔で判断するな」
「する」
今日も顔が万能。
電車が入ってくる。
人の波が動き、押し込まれるように車内へ入る。
混雑。距離が詰まる。
遥が当たり前みたいに僕の袖を掴んだ。
「……はぐれるから」
「……うん」
掴む力が、昨日より強い。
気のせいじゃないと思う。
湊がそれを見て、声を殺して笑う。
「今日は“強め”だ」
「黙れ」
「やだ」
「黙れ」
「いやだ」
遥が前を向いたまま、低い声で言った。
「湊」
「はい」
「からかうな」
「からかってない」
「からかってる」
「……ちょっとだけ」
認めた。
揺れが来る。
遥の背中が近い。
袖の感触が熱い。
湊がスマホを確認して、わざとらしく言う。
「そういえばさ、今日――」
「言わなくていい」
遥が遮る。
「え、何を?」
湊。
「翠」
遥。
「言うな」
「言うなって言うと、言いたくなるじゃん」
「言うな」
「……翠、今日来れるかも」
言った。
遥が反応しないふりをしている。
でも、耳が少し赤い。
「“来れるかも”って、来ないやつ」
僕が言うと、
「朔、学習したね」
湊が笑う。
「学習じゃない。経験」
「経験が学習だよ」
遥がぼそっと追撃する。
「来なくていい」
「遥、それ言うと来るぞ」
湊。
「来ない」
「来る」
「来ない」
「来る」
どっちなんだ。
学校に着く。
改札を抜けて歩く途中、遥がふっと言った。
「……放課後」
「うん」
「部活、あるでしょ」
「ある」
「終わったら、連絡しろ」
「え」
「……碧が言う前に言っただけ」
「そういう言い方」
「うるさい」
遥は走っていった。朝練だ。
湊が僕の肩を軽く叩く。
「遥、先手打ってきたね」
「先手?」
「碧の専売特許だった“連絡して”を奪った」
「奪うって何だよ」
「戦争」
戦争って言うな。
⸻
教室に入ると、すぐに声が降ってくる。
「朔くん」
槌見碧。ストレートロング、穏やかな笑顔。
でも近づいてくるスピードが、いつもより速い。
「おはよう」
「おはよう」
「昨日、ちゃんと寝た?」
「……少し」
「少しって何時間」
「……四」
「少しじゃない」
碧が鞄を開けて、いつものセットを取り出す。
「水」
「ありがとう」
「飴」
「……ありがとう」
「栄養ゼリー」
「……ありがとう」
「目薬」
「……?」
「目、乾くでしょ」
「……乾かないけど」
「乾く」
碧の“乾く”は判決だ。
遥の“出てる”と同じ匂いがする。
湊が横から言う。
「おはよ、過保護」
「過保護じゃない」
「過保護だよ」
「違うってば」
碧はむっとしつつ、僕を見る。
「放課後、部活だよね」
「うん」
「終わったら連絡してね」
「……遥も言ってた」
「え」
碧が一瞬固まる。
「遥ちゃんが?」
「うん」
「……そっか」
碧は笑っているのに、目だけが少しだけ鋭い。
「じゃあ、私は“先”を言うね」
「先?」
「終わったら連絡して、あと、帰り道に何か食べて帰って」
「……何で」
「疲れるから」
「まだ疲れてない」
「疲れる」
判決その二。
湊が口笛を吹いた。
「はいはい、包囲」
「包囲してない」
碧。
「包囲されてない」
僕。
「されてる」
湊。
僕は反論したいのに、反論の材料がない。
材料がないから黙ると、黙ったことが肯定に見えるのが腹立つ。
「そういえば」
碧が声を落とす。
「昨日の一年生……悠ちゃんって、どんな子?」
「……」
湊が笑いを噛み殺した。
「朔、詰められてるねぇ」
「黙れ」
碧は穏やかに笑っている。
穏やかに、逃げ道を塞いでいる。
「どんな子?」
「えっと……まっすぐで」
「まっすぐ」
「……距離が近い」
「近い」
碧の目が一瞬だけ丸くなる。
「……近いんだ」
「うん」
「どれくらい?」
「またそれ?」
湊が吹き出した。
「女子って距離をセンチで測るんだな」
「湊くん、黙って」
碧が穏やかに言う。
「はい」
湊が即座に黙る。
怖い。碧が一番怖い。
「……朔くんは、どう思ったの?」
「どうって」
「嫌じゃない?」
「……嫌ではない」
言ってから気づいた。
今の答え、危険だ。
碧の笑顔が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「そっか」
「……でも」
「でも?」
「……よく分からない」
「よく分からない、か」
碧は、僕の机の上の水を、勝手に僕の手の届く位置に移動させた。
些細な動作なのに、支配力がある。
「分からない時は、分かるまで様子を見よっか」
「様子?」
「私が」
「……え?」
「見てるから」
にこ。
怖い。
怖いのに、なぜか安心するのがもっと怖い。
⸻
昼休み。
校内の空気がざわついている。
「eスポーツ部、今年めっちゃ勧誘してない?」
「なんかイケメン先輩いるらしいよ」
「副部長の先輩、美人すぎてやばい」
「顧問がゆるいって」
「ゆるいのは逆に怖い」
噂が噂を呼ぶ。
その中心に僕がいるはずなのに、僕は廊下の端で壁みたいになっていた。
そこへ、聞き慣れすぎた騒音が近づいてくる。
「一年生のみんなー!!」
神々桜先輩。
「eスポーツ部はね! 楽しい! 強くなれる! 青春! 人生! 勝利! あと恋!」
「余計なこと言うな」
条鋼蓮先輩が即ブレーキ。
「え、恋は必要でしょ!?」
「いらない」
「いる!!」
穂村斎が頭を抱える。
「先輩、勧誘で“恋”は地雷ですって」
「地雷? 踏んだら爆発して楽しいじゃん」
「最悪」
「褒めてる?」
「褒めてない!」
知世先生は少し離れたところで缶コーヒーを飲みながら、だるそうに言う。
「ルール守ってれば好きにやっていいよー」
「先生、それ、絶対好きにやるやつです」
斎。
「好きにやったらいいじゃん」
「だめです」
「えー」
蓮先輩が穏やかにまとめる。
「要するに、ゲームが好きなら来い。勝ちたいなら来い。真面目にやりたいなら来い」
「部長、かっこいい!」
桜先輩。
「黙れ」
「えへへ」
僕はその少し後ろで、資料を整えていた。
質問が来たら答える。専門用語は噛み砕く。
昨日と同じ役割。
でも、今日は違う。
――視線がある。
遠巻き。
でも真っ直ぐ。
振り向く前から分かる。
昨日も、こんな感じだった。
そこにいた。
針瀬悠。
ロングウルフの髪、強い目。背は低めなのに存在感が高い。
隣に、条鋼凛。ショートストレートボブ、片目が隠れていて、袖をきゅっと掴んでいる。
凛の掴み方は遥と違う。
遥は「離さない」掴み方。
凛は「離れないで」掴み方。
桜先輩が即座に気づいて手を振る。
「おっ、昨日の一年生ー! 来た来たー!」
「来ました」
悠が即答する。
「即答強い!」
「強いです」
「いいねぇ! 好き!」
斎が横で小声。
「桜先輩、好きを軽く使うな……」
「桜先輩は“好き”が口癖なんだよ」
湊が混ざってきて笑う。
「お前もだろ」
僕。
「俺は“好き”じゃなくて“面白い”が口癖」
「同類」
「ひどい」
蓮先輩が一歩前に出る。
「針瀬悠。条鋼凛。今日は、仮参加でいいな」
「はい」
悠。
「……はい」
凛。
凛は僕の方をちらっと見る。すぐに目を落とす。
昨日と同じ反応。
悠は違う。
最初から最後まで僕を見ている。
「……説明、お願いできますか」
悠が言った。
僕が一歩前に出ると、周囲の空気が微妙に変わる。
桜先輩がニヤニヤ。
斎が「うわ」って顔。
湊が楽しそう。
蓮先輩は平常。
知世先生は興味なさそうに缶コーヒー。
僕は資料を持ち上げた。
「えっと、eスポーツ部は――」
「先輩」
悠が被せた。
「質問、いいですか」
「……どうぞ」
「司令塔って、先輩ですか」
「……え」
早い。いきなり核心。
周囲が「おっ」となる。
桜先輩が小声で言う。
「うわ、刺しに来た」
「刺しに来たね」
湊。
「刺しに来てる」
斎。
僕は言葉を選ぶ。
「司令塔は、役割です」
「先輩が、やってるんですよね」
「……やってます」
「やっぱり」
悠が、嬉しそうに笑った。
その笑顔が、危険だと思った。
なんとなく。直感で。
凛が小さく言う。
「悠、落ち着いて」
「落ち着いてる」
「落ち着いてない」
「落ち着いてるよ」
悠の“落ち着いてる”は、たぶん“興奮してない”の意味じゃない。
“迷ってない”の意味だ。
僕は説明を続ける。
「基本は五人で――」
「タンク、やりたいです」
悠が即答する。
「えっと……役割は色々あって」
「タンクがいいです」
「……」
「前に立つやつです」
言い方が、やけに真剣。
僕は昨日と同じ説明を、もう少し丁寧にする。
「タンクは、前線維持です」
「前線維持」
「はい。前に立って、味方が動けるようにします」
「……味方が動けるように」
悠がゆっくり復唱する。
その言葉を噛み締めるみたいに。
「“守る”っていうより」
僕は言った。
「“信じて前に立つ”感じです」
悠の目が、また変わった。
……またこれだ。
僕の言葉が、悠に刺さっている。
「それ、好きです」
悠が言う。
「……え?」
「その言い方、好きです」
桜先輩が声を殺して肩を揺らした。
斎が口元を押さえて震えてる。
湊はもう笑いを諦めている。
僕だけが意味を理解できていない。
「……えっと」
「先輩」
悠が一歩近づく。
「今日、部室行っていいですか」
「え、あ、はい」
「やった」
やった、が可愛い。
可愛いのに怖い。
凛が、そっと僕を見る。
「……私も、行っていいですか」
「もちろん」
凛の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
知世先生が、缶コーヒーを振りながら言う。
「じゃー、仮参加ね。ルールは守れ。机は傷つけんな。飲み物こぼすな」
「こぼしません」
悠が即答する。
「即答多いね」
知世先生。
蓮先輩が頷いた。
「放課後、部室で待ってる。時間は守れ」
「はい」
「……はい」
悠と凛が同時に返事をする。
僕は、胸の奥のざわつきを誤魔化すように資料を下ろした。
これだけで、今日は十分に疲れた気がした。
でも、放課後が本番だ。
⸻
放課後。
部室へ向かう廊下で、湊が僕の横に並ぶ。
「朔、今日も刺されてたね」
「刺されてない」
「刺されてた」
「どこが」
「『好きです』」
「……あれは、言い方の話」
「言い方の話で“好き”を使う女、危険だよ」
「危険って言うな」
「危険」
湊が楽しそうに言うから、余計に危険に見える。
「遥と碧、知ってるのかな」
「……何を」
「悠ちゃんの距離感」
「……」
「知ったら面白い」
「面白くするな」
「面白いから面白い」
「最悪」
部室の前。
扉を開ける。
「失礼します」
いつもの空気。
機械音。椅子の軋み。モニターの光。
「来たな」
蓮先輩。
「おっ、司令塔おかえりー!」
桜先輩。
「……今日、二人来るんだよな」
斎。
「……新人観測」
貝塚先輩。
そして知世先生は……まだいない。
「今日、仮参加の一年が来ます」
蓮先輩が言う。
「条鋼の妹、凛。あと針瀬悠」
「針瀬悠!?」
桜先輩が目を輝かせる。
「今日のあの子? 即答の子?」
「即答の子」
斎。
「距離近い子」
湊。
「……距離近いって何」
桜先輩。
僕が答える前に、部室のドアがノックされた。
コン、コン。
「失礼します!」
声が明るい。強い。
悠だ。
続いて小さな声。
「……失礼します」
凛。
二人が入ってくる。
悠は躊躇なく部室を見回して、すぐに蓮先輩に頭を下げる。
「針瀬悠です! 本日、仮参加よろしくお願いします!」
「条鋼凛です……よろしくお願いします」
礼儀がちゃんとしている。
ただ悠は、礼儀がちゃんとしてるのに、距離感がちゃんとしていない。
悠の視線が、まっすぐ僕に刺さる。
凛は、僕を見て、すぐに目を逸らす。
桜先輩が椅子を回しながら二人に近づく。
「よく来た! 私は神々桜! 副部長! 美人! うるさい!」
「最後言うな」
斎。
「美人ですか」
悠が真顔で言う。
「うん!」
「……分かりました」
「何が」
「把握しました」
把握したらしい。
蓮先輩が穏やかに言う。
「今日は軽く練習だ。まずは役割の説明から」
「はい」
「はい」
貝塚先輩が淡々と凛を見る。
「……条鋼。妹」
「はい……」
「兄に似てる」
「……似てません」
凛の否定が小さくて可愛い。
桜先輩がすかさず絡む。
「似てるよ! 静かなところ!」
「……静かじゃないです」
「静かだよ!」
「静かじゃ……」
「静か!」
「……はい」
押し切られた。
湊が小声で僕に言う。
「凛ちゃん、押しに弱い」
「……うん」
そして悠が、さらっと言った。
「先輩」
「……なに」
「隣、座っていいですか」
「え」
「朔先輩の隣」
「……」
部室が一瞬だけ静かになる。
桜先輩が目を見開き、斎が口を押さえ、湊が肩を震わせ、貝塚先輩が無表情のまま「……ほう」と言いそうな空気。
蓮先輩が穏やかに助け舟を出す。
「席は自由だ。ただし邪魔にならない位置にしろ」
「はい」
悠は即答する。
即答して――僕の隣に座った。
距離が近い。
椅子の脚が触れそう。
僕は反射で少し椅子を引こうとして、引けなかった。
引いたら負けな気がした。何に負けるのか分からないけど。
悠が、ふっと小声で言う。
「……嬉しいです」
「……なにが」
「先輩の隣」
言い方が、普通に甘い。
斎が小声で叫んだ。
「出た……!」
「出たね」
湊。
「出てる」
貝塚先輩。
「出てるって何!」
桜先輩。
凛が、少しだけ青ざめている。
親友の爆発に慣れていない顔だ。
蓮先輩が咳払いして場を戻す。
「まずは軽い練習。基本操作と連携の確認」
「連携」
悠が復唱する。
「はい。先輩と連携」
「……」
「間違えた。チームと連携」
「間違えたのに堂々とするな」
湊。
悠は平然としている。
「先輩、指示ください」
「え」
「指示が欲しいです」
僕は言葉に詰まる。
練習はこれからなのに、最初からそこへ行くのか。
蓮先輩が穏やかに言う。
「布上。今日は“教える側”だ。頼めるか」
「……はい」
答えた瞬間、胸の奥が切り替わる。
部室の空気が、また別の色になる。
日常の僕が薄くなって、情報だけが濃くなる。
でも今日は、完全に別人にはならない。
“教える”という日常寄りの役割があるから。
僕は悠に言った。
「まず、前に立つ時の基準を覚えて」
「はい」
「前に出るのは、勇気じゃなくて、計算」
「計算」
「視界と、味方の位置と、相手のスキル」
「はい」
「それが揃ってない時は、前に出ない」
「……はい」
悠が頷く。真剣。
真剣すぎる。
「今、先輩の声、好きです」
「……え」
「さっきの“計算”って言い方、好きです」
「……」
桜先輩が机に突っ伏した。
「うわぁぁぁぁ……糖度ぉぉぉ……」
「桜先輩、息して」
斎。
「してる……でも砂糖で溺れる……」
湊が笑いを堪えながら僕に言う。
「朔、耐えて」
「耐えるって何」
「耐える」
僕は耐え方を知らない。
凛が小さく手を挙げた。
「あの……」
「なに、凛ちゃん?」
桜先輩。
「私、何から……」
「まずは操作! 可愛い!」
「可愛いって言うな!」
斎。
「え、可愛いじゃん」
「可愛いけど言うな!」
部室が賑やかになる。
賑やかだけど、崩れない。
これがこの部の空気だ。
そして――その賑やかさの中で、
蓮先輩がふとスマホを見て、ぽつりと言った。
「……湊」
「ん?」
「翠から、連絡来てる」
「え」
湊が反射でスマホを見る。
その一瞬、部室の空気がほんの少しだけ変わった。
変わったのは、僕じゃない。
桜先輩でもない。斎でもない。
――悠の目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
遥や碧とは違う種類の反応。
“敵意”じゃなく、“観測”の鋭さ。
湊がメッセを読んで、笑った。
「……来るって」
「え?」
桜先輩が顔を上げる。
「え、翠ちゃん来るの!? まじ!?」
「まじ」
「やば! 校舎死ぬ!」
「死ぬって言うな」
「死ぬ!」
「死ぬな」
凛が小声で言った。
「……すい?」
「湊の彼女」
斎が説明する。
「女優」
貝塚先輩。
「モデル」
桜先輩。
「金髪!」
「情報が雑」
斎。
悠が静かに言った。
「……湊先輩の彼女」
「うん」
湊が軽く返す。
「会う?」
「……はい」
悠は即答しなかった。間があった。
そして最後に、はっきり言った。
「会ってみたいです」
その言い方が、妙に怖い。
僕は、なぜか背筋が少しだけ伸びた。
――来る。
あの、剣城翠が。
空気を持っていく人が、ここに来る。
ラブコメの外側から、現実を持ち込む人が。
そしてその現実は、きっと僕にも刺さる。
蓮先輩が穏やかに言った。
「とりあえず練習を続ける。来るなら来る。騒ぐな」
「騒ぐ!」
桜先輩。
「騒ぐな」
「騒がない! でも騒ぐ!」
「どっちだ」
斎。
湊が僕を見て、にやっと笑った。
「朔、今日の放課後、長いぞ」
「……やめろ」
「始まる」
「始めるな」
悠が、僕の隣で小さく言う。
「先輩」
「……なに」
「今日も、指示ください」
その声が甘いのに真剣で、
僕は返事の仕方を少しだけ迷った。
「……分かった」
そう言った瞬間、
悠が本当に嬉しそうに笑った。
そして僕は思った。
――この回、絶対に静かに終わらない。
_______________________
「来るなら来る。騒ぐな」
条鋼蓮先輩の声は穏やかなのに、有無を言わせない。
――でも、騒ぐ。
神々桜先輩が、もう騒いでる。
「だって翠ちゃんだよ!? 湊の彼女だよ!? 金髪だよ!?」
「金髪は関係ないだろ」
穂村斎が即ツッコミを入れる。
「関係ある! 圧がある!」
「圧はあるけど金髪は情報として浅い」
「浅くない! 深い!」
「深くない!」
貝塚樹先輩が淡々と付け足す。
「……騒ぐと集中が落ちる」
「落ちない!」
桜先輩。
「落ちる」
「落ちない!」
「落ちる」
「落ちない!!」
僕はヘッドセットを手に取ったまま、息を整えた。
今日の目的は、新入生二人の“合わせ”を見ること。
勝ち負けより、動きと反応と、声と、理解。
なのに、部室の外から“現実”が近づいてくる気配がする。
――剣城翠。
名前だけで空気が変わる人。
湊がスマホをポケットに仕舞って、いつもより少しだけ背筋を伸ばした。
さっきまでの「面白がってる湊」じゃない。
“彼氏の湊”だ。
「……どこまで来てるって?」
斎が小声で聞く。
「校門」
湊が短く答える。
「早っ」
「早いっていうか、オーラで人が避ける」
「オーラで判断するな」
桜先輩。
「する!」
僕の隣で、針瀬悠が静かに息を吸った。
表情は変わらない。
でも、目が少しだけ鋭い。
観測する目。
悠が小さく言った。
「湊先輩」
「ん?」
「その人は……」
「翠?」
「はい」
「やばい」
「やばい」
斎が即座に同意する。
「やばい」
桜先輩。
「やばい」
僕が言うと、
「先輩、やばいって言うんですね」
悠が真顔で返してくる。
「……言う」
「好きです」
「え」
「“やばい”って言い方、好きです」
桜先輩が机に突っ伏した。
「やばい……糖度……」
「桜先輩、今は吸って」
斎。
「吸っても吐く……」
「吸うな吐くな」
蓮先輩が一度だけ咳払いして、空気を戻す。
「練習を続ける。針瀬、条鋼。端末に入れ。基本操作確認から」
「はい」
悠。
「……はい」
凛。
凛はまだ緊張している。でも、昨日よりは呼吸が落ち着いてる。
桜先輩の圧にも少し慣れてきた顔だ。
僕はヘッドセットを装着した。
外の音が一枚薄くなる。
“切り替え”が始まる。
完全に別人にはならない。今日は“教える側”だ。
でも、指先が落ち着いていく感覚は、嘘がつけない。
「まず、悠」
「はい」
「前に出る時は“勝ち筋”が見えてから。感情で出ない」
「感情で出ない」
「うん。凛は、焦らない。焦って操作すると全部ズレる」
「……はい」
「桜先輩、今日は暴れないで」
「えぇ!?」
「暴れるなら、合わせてから」
「合わせてから暴れる!」
「それでいい」
湊が笑う。
「朔、先生みたい」
「先生じゃない」
「先生だよ」
「先生じゃない」
「先生」
貝塚先輩が淡々と。
「……教えるの、向いてる」
「……」
「受け取れ」
湊。
受け取るの難しい。
練習開始。
僕は短く指示を出す。
「初動、引く。三秒」
「はい」
悠が即答する。
「二」
「一」
「反転、今」
悠の動きが速い。
反応が素直で、迷いがない。
タンクは「迷いがあると遅れる」。
遅れると味方が死ぬ。
だから、迷いを捨てられる人は強い。
「……悠、今のは良い」
「嬉しいです」
「嬉しいって言うな」
湊。
「言います」
「強い」
桜先輩。
凛が小さく言う。
「……悠、素直すぎ」
「素直が正義」
「またそれ」
「正しいから」
凛の口元が少しだけ緩む。
笑いかけて、慌てて隠す。
その仕草が、部室の空気を少し柔らかくした。
僕は言う。
「凛、今の笑い方、いい」
「えっ」
「緊張が抜ける」
「……はい」
凛が頷いて、少しだけ背筋を伸ばした。
そこへ、部室の外がざわついた。
遠くから聞こえる声。
「え、マジで!?」
「翠ちゃん!?」
「本物!?」
それが波みたいに近づいてくる。
湊が立ち上がった。
「……行く」
「行くな」
斎が反射で言う。
「行く」
湊。
「行くな」
「彼氏だから」
「彼氏でも行くな」
「行く」
蓮先輩が頷く。
「迎えに行け。廊下を塞がせるな」
「了解」
湊が部室を出る。
その瞬間、部室の空気が一段階だけ静かになった。
静かになって、次に――
扉の向こうから、“別の種類の静けさ”が入ってくる気配がした。
音が消える前兆。
世界が一瞬止まるやつ。
桜先輩が息を飲んで、斎が背筋を伸ばして、凛が固まって、悠は――
悠は、真っ直ぐ前を見ていた。
扉が開く。
「やっほー!」
明るい声。
でも軽くない。
空気が、持っていかれる。
金髪ロング。
当たり前みたいに“そこ”に立つ存在感。
剣城翠だった。
その隣にいる湊の顔が、完全に“彼氏”だ。
「翠」
「湊くん!」
翠は湊の腕に飛びつく……と思いきや、
一歩手前で止まって、わざとらしく両手を広げた。
「会いたかったー!」
「会いたかった」
湊が笑う。
そのやり取りだけで、部室の温度が二度上がる。
桜先輩が先に爆発した。
「翠ちゃーーーーん!!!!!」
「桜ちゃん! 久しぶり!」
「やば! 本物! 本物がいる!」
「本物ってなに!?」
「本物だよ!!」
「私、偽物みたいじゃん!」
「偽物じゃない! でも本物!!」
斎が横で小声。
「情報量が多い……」
「翠はそういう人」
蓮先輩が穏やかに言う。
翠は部室を見回した。
視線が一回で全部を拾う。
先輩たち。機材。空気。
そして――僕。
僕のところで、視線が一瞬だけ止まった。
止まったのに、怖くない。
むしろ、見透かされる感じがする。
「朔くん」
翠がにこっと笑って言った。
「久しぶり。元気?」
「……はい」
僕の返事が固い。
翠はその固さを面白がらない。
ただ、当たり前みたいに受け取る。
「相変わらず、反応が可愛いね」
「可愛くない」
「可愛いよ」
「……」
湊が笑って補足する。
「朔は褒められると固まる」
「うん、知ってる」
翠。
「知ってるんだ」
「知ってるよ。遥と碧がいつも言ってる」
あの二人、僕のこと何て言ってるんだ。
翠は目を輝かせた。
「ねえねえ、今日は新入生が来たって聞いた!」
「来てます」
蓮先輩が丁寧に言う。
「針瀬悠、条鋼凛」
「おー!」
翠の視線が悠に向く。
その瞬間。
悠が、椅子から立った。
背筋が真っ直ぐ。
視線が逃げない。
「針瀬悠です」
「悠ちゃんね! よろしく!」
「よろしくお願いします」
翠は笑顔のまま、数秒だけ悠を見つめた。
“見てる”じゃない。
“測ってる”。
そして次に凛を見る。
「凛ちゃん!」
「……条鋼凛です」
「かわいい!」
「……え」
「かわいい!」
「……ありがとうございます」
凛が小さく頷く。
耳が赤い。
桜先輩がすかさず言う。
「翠ちゃん、凛ちゃんは部長の妹!」
「えっ! そうなの!? 蓮くんの!?」
「はい……」
「え、すごい。家にイケメンいるの?」
「……いる、と思います」
「思いますって何」
斎。
凛が困っている。
僕が助け舟を出す前に、翠がさらっと言った。
「凛ちゃん、困ったら湊くんに投げていいよ。湊くん便利だから」
「便利って言うな」
湊。
「便利だよ」
「嬉しくない」
「嬉しいでしょ?」
「……嬉しい」
湊の負け。
翠はそれを見て楽しそうに笑う。
その笑いが、部室の空気を一気に“明るい側”へ引っ張った。
――でも。
翠の目は、ずっと鋭い。
「で?」
翠が言った。
「君が、例の子?」
視線が悠に刺さる。
悠は迷わず頷いた。
「はい」
「例の子って何」
桜先輩。
「多分、朔の周りが騒がしくなった原因」
斎。
「なるほど」
桜先輩。
翠は、悠に笑顔で言う。
「悠ちゃん、距離、近いね」
「はい」
「認めるんだ」
「近いのが正義です」
「出た」
凛が小声。
「正義が多いね」
翠。
「正しいので」
「なるほど。じゃあ聞くけど」
翠が首を傾げる。
「その“近さ”は、朔くんが困る近さ?」
「困りません」
悠が即答した。
「困ります」
湊が即答した。
「困らないです」
「困る」
「困らないです」
言い合いのテンポが速い。
桜先輩が笑う。
「湊、悠ちゃんに言い負けてる!」
「言い負けてない」
「負けてる」
「負けてない」
翠が、ふっと息を吐くみたいに笑った。
「……うん、分かった」
何が分かったんだ。
翠は僕の方を見て、にこっとする。
「朔くん」
「……はい」
「君、自分が“中心”だって自覚ないでしょ」
「……中心?」
僕は言葉を失う。
中心って何だ。
そんな大層なもの、僕にはない。
翠は明るい声のまま、でも言葉は鋭い。
「君が喋ると、皆ちゃんと聞く」
「……」
「君が困ると、皆助けようとする」
「……」
「君が何も言わないと、皆不安になる」
心臓が、妙に鳴る。
「ねえ、朔くん」
翠は少しだけ声を落とした。
「それ、“選ばれてる”ってことだよ?」
言葉が胸に落ちる。
僕は反射で否定したくなる。
いつもの癖。
でも、否定の言葉が見つからない。
なぜなら――今ここにいる全員が、少しだけ黙ったから。
桜先輩も。
斎も。
貝塚先輩も。
蓮先輩も。
凛も。
そして悠も。
湊だけが、苦笑して言った。
「翠、それ刺しすぎ」
「刺すの優しさ」
「優しさの使い方おかしい」
「湊くんは黙ってて」
「はい」
翠の“黙ってて”は、湊ですら従う。
その瞬間、部室の外から声がした。
「失礼します!」
遥だった。
その後ろに、碧。
二人が入ってきた瞬間、空気がさらに変わる。
遥は翠を見るなり、目を細めた。
「……来たの」
「来たよー!」
翠が抱きつく。
「遥! 会いたかった!」
「……はいはい」
遥は受け止める。でも、受け止め方が不器用で可愛い。
碧も近づいて、翠と軽く抱き合う。
「翠、来れたんだ」
「来れたー! ギリギリ!」
「無理しないでね」
「無理してない! でも無理した!」
碧が笑う。
遥も少しだけ口元が緩む。
それだけで分かる。
三人の距離は、僕が想像するよりずっと近い。
そして――
遥の視線が、悠に刺さった。
刺さって、次に僕の袖を掴む。
「朔」
「……なに」
「白線、近い」
ここ部室だよ。
碧も僕を見る。
「朔くん」
「……なに」
「水飲んだ?」
「まだ」
「はい」
水が差し出される。
僕が水を受け取った瞬間、悠が静かに言った。
「先輩」
「……なに」
「私も、水、持ってます」
「……そう」
どう返せばいいのか分からない。
翠がそれを見て、楽しそうに笑った。
「うわぁ、地獄だ」
「地獄って言うな」
湊。
「地獄だよ。甘い地獄」
桜先輩が両手を頬に当てて震える。
「うわぁぁぁぁぁ……この空間、糖分で窒息する……」
「窒息するな」
斎。
「する……」
「するな」
蓮先輩が穏やかにまとめに入る。
「見学なら、少しだけ練習の様子を見せる」
「見たい!」
翠が即答する。
「遥と碧も?」
「……見る」
遥。
「見るよ」
碧。
悠が真顔で言う。
「私も見せたいです」
「何を」
斎。
「先輩の指示」
「言うな」
湊。
「言います」
「強い」
桜先輩。
「強いの種類が違う」
凛。
僕は深く息を吸って、ヘッドセットを装着した。
切り替える。
今度は、ちゃんと別人になる。
翠の視線がある。
遥と碧の視線がある。
悠の視線がある。
全部が僕に集まっている。
――中心。
翠の言葉が、胸の奥で反響する。
でも、ここは戦う場所だ。
「……いきます」
僕が言うと、
「うん」
蓮先輩。
「いけ」
貝塚先輩。
「いけー!」
桜先輩。
「いけ」
遥。
「頑張って」
碧。
「先輩、ください」
悠。
「……はいはい」
湊。
「うわ、全部刺さる」
翠。
練習開始。
「悠、前線浅く。欲張らない」
「はい」
「凛、焦らない。スキル温存」
「……はい」
「桜先輩、合わせてから暴れる」
「合わせてから暴れる!」
盤面が動く。
悠が前に立つ。迷いがない。
凛は少し遅れるが、ちゃんと追いついてくる。
僕は短く、正確に言う。
「引く。三秒」
「はい」
「二」
「一」
「反転。今」
相手役の先輩(桜先輩)が派手に動き、斎がツッコミながら支援し、貝塚先輩が淡々と情報を落とす。
「……相手スキル切れ」
「今、行ける」
「行けます」
悠の声が重なる。
その“行けます”が、たぶん部活の言葉なのに、妙に甘い。
遥が小声で言った。
「……あれ、やばい」
「やばいね」
碧が穏やかに同意する。
「やばい」
翠。
「やばい」
湊。
「やばい」
桜先輩。
「やばいの使い方が雑!」
斎。
練習が一段落したところで、僕はヘッドセットを外した。
日常の音が戻ってくる。
でも、戻り方がいつもより遅い。
視線が多すぎる。
翠が拍手した。
「すご。朔くん、ほんと別人」
「別人じゃない」
「別人だよ」
「別人です」
悠が真顔で言う。
「言うな」
湊。
「言います」
「強い」
桜先輩。
翠が悠を見て、にこっとする。
「悠ちゃん」
「はい」
「君、分かりやすいね」
「はい」
「分かりやすいの自覚あるんだ」
「あります」
「へえ」
「好きなので」
空気が止まる。
遥が眉を寄せる。
碧が息を飲む。
凛が目を丸くして、桜先輩が「うわぁ」と言いかけて、斎が机に突っ伏し、湊が天を仰ぐ。
僕だけが理解できていない。
「……何が」
僕が言うと、
「朔、黙って」
湊が即座に言った。
「え」
「黙って」
「……」
翠が明るいまま、でも真剣に言った。
「悠ちゃん、いい?」
「はい」
「“好き”って言葉は、相手が鈍感だと凶器になる」
「凶器ですか」
「凶器」
「分かりました」
「分かったのにやめないでしょ」
「やめません」
即答。
遥が低い声で言う。
「……やめろ」
「やめません」
悠は遥の方を見た。
「やめません」
「……」
「正々堂々です」
正々堂々って、何の勝負なんだ。
碧が穏やかに、でも逃げ道なく言う。
「悠ちゃん、朔くん、困るよ」
「困りません」
「困るよ」
「困りません」
「困る」
碧の“困る”も判決だ。
悠は一拍置いて、僕を見た。
「先輩、困ってますか」
「……え」
「困ってますか」
その目が真っ直ぐすぎて、僕は答えを間違えそうになる。
「……困って、ない」
「よかったです」
「よかったって言うな」
湊。
「言います」
「強い」
桜先輩。
凛が小さく言った。
「……悠、無敵」
「無敵が正義」
「またそれ」
「正しいので」
翠が笑った。
「最高。悠ちゃん最高」
「ありがとうございます」
「でも朔くんはね」
翠が僕を見る。
「ちゃんと自分の気持ち、言えるようにならなきゃだめ」
「……気持ち?」
「困ってるなら困ってるって言う。嬉しいなら嬉しいって言う」
「……」
「君が言わないと、周りが勝手に解釈して勝手に戦争になる」
「戦争って言うな」
湊。
「戦争だよ」
翠。
「……はい」
僕が返事をした瞬間、
遥と碧が同時に僕を見た。
見られてる。
僕は息を吸って、やっと言った。
「……今日は、ちょっと、疲れた」
「え」
碧が驚いた顔をする。
「疲れたって言えた」
遥が小さく言う。
「言えたね」
翠。
「偉い」
湊。
「偉いです」
悠。
やめてほしい。
みんなで褒めないでほしい。
恥ずかしい。
でも、胸の奥が少しだけ軽くなる。
蓮先輩が穏やかにまとめる。
「今日はここまで。新入生二人は良い動きだった」
「ありがとうございます」
悠。
「……ありがとうございます」
凛。
貝塚先輩が淡々と付け足す。
「……針瀬は即戦力。条鋼は伸びる」
「……はい」
凛が小さく頷く。
桜先輩が抱きつく勢いで言う。
「凛ちゃん! 伸びる! 伸びしろ! かわいい!」
「言い方が雑」
斎。
「雑じゃない! 愛!」
「愛も雑」
知世先生がふらっと戻ってきて、状況を一瞬で把握した顔をした。
「うわ、揃ってる」
「先生」
斎が助けを求める。
「助けないよ」
「ですよね」
「ルール守ってればOK」
「今日それ言うの危ないやつ」
「でも守ってるじゃん」
「守ってますけど!」
知世先生は翠を見る。
「お、剣城」
「知世先生! 久しぶり!」
「久しぶり。来れたんだ」
「来れた! でも明日また撮影!」
「大変だね」
「大変! でも来た!」
知世先生が笑う。
「無理するなよ」
「無理してない! でも無理した!」
「言ってることが矛盾してる」
「矛盾が青春!」
「青春は便利な言葉だな」
翠が湊の腕を掴んだ。
「湊くん、帰ろ」
「うん」
その“うん”が、柔らかい。
遥と碧は翠を見送るために一緒に出る。
「翠、またね」
碧。
「またね! 次はもっと長くいる!」
翠。
遥が短く言った。
「……無理するな」
「遥、優しい」
「優しくない」
「優しいよ」
「……うるさい」
翠が最後に僕を見て、にこっとした。
「朔くん」
「……はい」
「今日の君、ちゃんと“中心”だった」
「……」
「否定しないでね」
「……はい」
否定しなかったのは、僕の成長なのか、疲れているだけなのか分からない。
でも、否定しなかった。
翠が去る。
部室の空気が、少しずつ元に戻る。
でも、戻りきらない。
悠が僕の隣に立って、小さく言った。
「先輩」
「……なに」
「今日、嬉しかったです」
「……何が」
「先輩が“疲れた”って言ったこと」
「……」
「先輩の本音、好きです」
また好き。
僕は頭が真っ白になる。
湊が横で言った。
「朔、耐えて」
「耐えるって何」
「耐える」
桜先輩が手を合わせて祈る。
「尊い……」
「尊いって言うな」
斎。
「尊い……」
「言うな」
蓮先輩が穏やかに言った。
「針瀬。今日は帰れ。頭を冷やせ」
「はい」
「条鋼も」
「……はい」
凛が小さく僕を見る。
目が合って、すぐ逸れる。
その目に、ちょっとだけ“頑張る”が入っていた。
⸻
帰り道。
駅までの道は、いつもより少しだけ騒がしい。
湊が翠を送り、遥と碧が翠と別れ、
僕はなぜか悠と凛と同じタイミングになった。
……なった、というか。
悠が当たり前みたいに隣にいる。
「先輩」
「……なに」
「帰り、一緒ですか」
「……駅、同じだから」
「一緒ですね」
「……うん」
凛が小さく言う。
「……悠、距離」
「正義」
「……正義じゃない」
「正義」
凛のツッコミが弱い。
でも、その弱さが可愛い。
ホームに着くと、遥が僕を見つけた。
そして即座に袖を掴む。
「白線、近い」
「ここでも?」
「ここでも」
「……はい」
碧も合流して、僕の水を確認する。
「飲んだ?」
「飲んだ」
「偉い」
「偉いです」
悠。
遥が悠を見た。
「……あなた、針瀬悠」
「はい」
「距離、近い」
「はい」
「認めるんだ」
「近いのが正義です」
「……正義じゃない」
「正義です」
遥のツンが、明らかに増している。
碧が穏やかに言う。
「悠ちゃん、朔くん、困るから」
「困りません」
「困るよ」
「困りません」
「困る」
この人たち、同じ会話を何度してるんだ。
湊が戻ってきて、笑った。
「はいはい、戦争」
「戦争じゃない」
碧。
「戦争じゃない」
遥。
「戦争です」
悠。
「戦争だね」
湊。
「戦争って言うな」
僕。
「言う」
電車が来る。
押されて乗る。
いつもの車内。
いつもの揺れ。
でも、今日は全部が違う。
翠の言葉。
“中心”。
悠の言葉。
“好き”。
遥と碧の距離。
増えていく圧。
僕は、たぶん今日初めて、はっきり思った。
――僕、ほんとにこのままでいいのか。
その瞬間、悠が小さく言った。
「先輩」
「……なに」
「次の試合、いつですか」
「試合?」
「はい。実戦」
「……近い」
湊が笑う。
「近いね」
翠の声が頭に響く。
「……来週、練習試合がある」
「出たいです」
「……早い」
「早く出たいです」
「理由は」
僕が聞くと、
「先輩の指示で戦いたいからです」
悠が真顔で言った。
――またそれだ。
でも、胸の奥が少しだけ熱くなる。
遥がぼそっと言う。
「……出さない」
「出す」
蓮先輩の声が脳内で聞こえる。
「判断は部長」
碧が静かに言う。
「悠ちゃん、焦らないでね」
「焦ってません」
「焦ってるよ」
「焦ってません」
湊が笑って、僕の肩を叩いた。
「朔、次回予告」
「やめろ」
「『初戦、悠参戦!?』」
「やめろ」
「面白い」
「面白くするな」
悠が僕を見上げて、真っ直ぐ言った。
「先輩」
「……なに」
「私、頑張ります」
「……うん」
「先輩に必要とされたいです」
心臓が、どくん、と鳴った。
――必要。
タイトルの言葉が、胸の中で揺れる。
僕は息を吸って、短く答えた。
「……必要だよ」
「え」
言ってから気づく。
僕、今――言った。
悠の目が、一気に輝いた。
「……好きです」
「言うな」
遥。
「言います」
悠。
「言うな」
碧。
「言います」
「……もうやだ」
僕。
「やだが可愛い」
湊。
僕はもう、どうしていいか分からなかった。
でも。
胸の奥が、少しだけ温かい。




