22
決勝前/去年の影、今の円
決勝当日――ではない。
正確には、決勝“直前”だ。
会場の裏手、選手用の通路。
照明が白くて、床がやけに冷たく見える。
人の足音だけが、規則的に響いていた。
準決勝を越えたはずなのに、身体はまだ重い。
昨日の夜、寝たはずなのに、回復した気がしない。
それでも、ここに来た。
今日が、決勝だから。
⸻
決勝の相手が告げられる
控室に入って、荷物を置く。
席につく前に、全員が自然とモニターの近くに集まった。
条鋼蓮が、いつも通りの穏やかな顔で立っている。
落ち着いている。
でも――目だけが、いつもより硬い。
「相手校、出た」
その一言で、空気が一段締まった。
朔は喉が乾いていることに気づく。
水を飲もうとして、手が少しだけ遅れた。
蓮が、プリントを一枚、テーブルに置く。
校名。
それを見た瞬間、空気が凍った。
「……は?」
最初に声が出たのは、穂村斎だった。
普段なら一拍置くタイプなのに、今回は抑えきれていない。
「……マジかよ」
次に、貝塚樹。
いつも無表情に近い彼が、ほんのわずか目を見開いた。
それだけで、驚きの大きさが分かる。
斎がプリントを指さす。
「決勝の相手……去年、俺たちが負けた高校じゃん……」
樹が静かに言葉を継いだ。
「……全国高校大会。準々決勝」
「俺たちが、最後に崩された相手」
その言い方が、妙に生々しい。
蓮が、小さく息を吐いた。
「……やっぱりか」
肩を落とすわけじゃない。
けれど、予感していたものが現実になった、そんな声音だった。
桜が、ぱっと両手を上げる。
「え、なにそれ最高じゃん!」
いつも通りのテンション。
いや、むしろ少し上がっている。
「リベンジ! リベンジ!」
「燃える燃える!」
場の空気を壊すのが得意な人間が、
こういう時に“必要な壊し方”をする。
斎が半笑いで突っ込む。
「……桜先輩、怖くないんすか」
「全然?」
桜は胸を張る。
「だって今日、決勝だよ? 楽しまなきゃ損じゃん」
蓮が、桜を一瞥して小さく笑った。
「……助かる」
桜は「でしょ?」とウインクして、またぴょんと跳ねる。
しかし。
その明るさが、余計に浮き彫りにしてしまうものがあった。
朔の顔色。
布上朔は、プリントの校名を見たまま固まっていた。
息が、浅い。
(……去年)
体の奥から、冷たいものが這い上がってくる。
視界の端に、あの時の会場の光景が浮かぶ。
実況の声。
ヘッドセット越しの自分の呼吸。
そして、最後の最後――判断が遅れた瞬間。
(……負けた)
朔が一年生だったあの大会。
自分は“期待の新人”なんて言われて、
でも、その期待を背負えるほど強くなかった。
勝てると思った。
いけると思った。
でも、相手はその一歩上で、
朔の“迷い”を見逃さなかった。
――敗北。
その文字だけが、胸の奥に残っている。
朔は、水を取ろうとして手を伸ばす。
指が、僅かに震えているのが分かった。
(……だめだ)
(……落ち着け)
落ち着こうとしているのに、
落ち着けない。
息を吸って、吐く。
吸って、吐く。
それでも、震えが止まらない。
⸻
知世の一言は、だるいのに刺さる
その時。
「……あー、はいはい」
控室の入口側から、だるそうな声。
神々知世が、壁にもたれたまま缶コーヒーを振っている。
今日も気だるい。
今日もやる気がないように見える。
だが、その目は全員を見ていた。
「因縁、ってやつ?」
樹が「……」と黙る。
斎も、言葉を失う。
知世は肩をすくめた。
「まあ、嫌だよね」
「思い出したくないやつほど、出てくるし」
一拍。
「でも」
知世は、朔の方を見た。
朔は、視線を上げるのが少し遅れた。
「朔」
名前を呼ぶ声は、相変わらず気だるい。
「不安ならねばいいけどねぇ」
ねばいい、って何だ。
文法は適当だ。
でも、その適当さが逆に救いになる。
知世は続けた。
「震えてるなら、震えたままやれば?」
「止めようとすると、余計気になるし」
朔は返事ができなかった。
知世は興味なさそうに視線を逸らす。
「ま、決勝でしょ」
「勝ってきなよ。……だるいけど」
最後の一言が、妙に温かかった。
⸻
去年の大会を、斎と樹が思い出す
斎が、頭を掻きながら言った。
「……去年さ」
「俺、あの相手の動き、まだ覚えてる」
樹が頷く。
「特徴がはっきりしていた」
「テンポを変えるのが上手い」
「こちらの判断を、半拍遅らせる」
その言葉で、朔の背中に冷汗が走る。
去年、自分がやられたのは、まさにそれだった。
(……半拍)
(……迷い)
斎が続ける。
「俺たち、あの時もさ」
「いけるって思ったんだよ」
「でも」
斎は笑えない顔で言う。
「相手が一枚上だった」
蓮が静かに口を開く。
「……だからこそ、今がある」
それは励ましでもあり、事実でもある。
「去年のままなら勝てない」
「でも、今年の俺たちは、去年じゃない」
蓮の言葉はいつも通り静かだが、強い。
桜が「そうそう!」と腕をぶんぶん振る。
「去年の布上は一人で背負ってた顔してたけど」
「今の司令は違うよ!」
朔の肩が少しだけ揺れる。
桜は、わざと明るく続けた。
「だってさ」
「悠ちゃんいるし」
「湊くんいるし」
「部長もいるし」
「私もいるし」
「樹くんもいるし」
「斎くんもいるし」
「凛ちゃんだっているし!」
条鋼凛が、びくっと肩を揺らした。
「は、はい……!」
桜がにこっと笑う。
「ね? 全員で勝つの!」
それは、桜なりの“円陣”だった。
朔は、少しだけ息を吐く。
(……全員)
(……そうだ)
一人じゃない。
頭では分かっている。
でも体が追いついていない。
そのギャップが、朔を震えさせていた。
⸻
朔の震えを察知する人たち
控室の外。
観客席側に向かう通路で――
遥と碧と湊が、準備を終えて戻ってきた。
応援席の入場時間まで、少しだけ余裕がある。
遥が先に、朔の顔を見た。
幼馴染の勘は、嘘をつかない。
「……朔」
遥の声は低い。
朔は視線を上げる。
「……大丈夫?」
朔は口を開きかけて、閉じた。
「大丈夫」
と言えば終わる。
でも、今はそれが嘘になる。
碧は朔の手元を見た。
指先。
僅かに震えている。
碧は、目を細めた。
「……去年の相手」
静かな声。
「なんだね」
朔は、言葉が出なかった。
湊が、朔の肩を軽く叩いた。
「……司令」
いつもの冗談っぽい声ではない。
「大丈夫だ」
遥が、少しだけ強い声で言う。
「朔は、去年の朔じゃない」
碧が続ける。
「今の朔は、一人じゃない」
言葉の内容は同じ。
でも、伝え方が違う。
遥は“隣に立つ”言葉。
碧は“背中を支える”言葉。
その瞬間、火花が散りかける。
互いに、朔を一番近くで支えたい。
でも今日は――
火花を散らす日じゃない。
二人とも分かっている。
だからこそ、遥が少しだけ口を尖らせた。
「……あとで勝ったら言い合いね」
「……望むところだよ」
碧の返事に、湊が小さく笑った。
「今それ言うの、逆に怖いわ」
桜が「え、なにそれ! 私も混ぜて!」と騒ぎかけて、
蓮に軽く止められる。
場が、ほんの少しだけ緩む。
朔の震えが、まだ残っている。
でも、空気が少しだけ温かくなった。
⸻
翠が遅れて到着する
そこへ。
控室のドアが開いた。
「はぁ……っ!」
息を切らした声。
剣城翠だった。
髪は整っているのに、肩が上下している。
走ってきたのが分かる。
「間に合った……!」
そして真っ先に湊を見つける。
「湊!!」
「間に合ってよかった!!」
声が大きい。
周囲の視線を気にしないタイプ。
湊が苦笑する。
「……お疲れ」
「疲れてるのそっちでしょ!」
翠が湊の両肩を掴んで、真正面から覗き込む。
「湊、顔色悪い!」
「……決勝だし」
「決勝だからって無理したらダメ!」
翠は一瞬だけ声を落とす。
「……私、全部見てる」
「全部見てるから、勝っても負けても……」
言葉が詰まる。
そしてまた明るく笑う。
「でも勝って!」
「うちの湊が一番かっこいいって見せて!」
湊は小さく笑って、軽く翠の額を指で弾いた。
「はいはい」
そのやり取りを見ながら、
遥と碧は互いに顔を見合わせる。
――あれは、完成された“支え方”だ。
朔は、その光景が眩しくて、少しだけ目を逸らした。
(……羨ましい、のかな)
分からない。
ただ、胸が少しだけ痛い。
⸻
部員たちの激励は短い
蓮が、全員を見渡した。
「……時間だ」
「入場する」
その声で、全員の背筋が伸びる。
樹が朔に言う。
「過去は過去」
「今は今だ」
言葉は短い。
でも樹の言葉は、いつも必要な分しかない。
斎が笑う。
「司令、決勝でビビったら一生いじる」
「……それはやめてくれ」
「じゃあビビるな」
軽口のようで、
朔に“今”を戻してくれる。
桜が拳を握る。
「司令、今日も呼び出してね!」
「私、暴れる準備だけは完璧だから!」
朔は反射的に言った。
「……桜先輩、お願いします」
呼び方が正しい。
その小さな整合性が、朔自身を落ち着かせる。
凛が小さく前に出た。
「……先輩」
朔に言う。
「私、観客席で……応援します」
「非力だけど……声、出します」
朔は少しだけ笑った。
「……十分だ」
悠が、朔の隣に立つ。
同学年の親友。
でも今は、前線の核。
悠は、朔の手元を見る。
震えている。
悠は一瞬だけ眉を寄せて、
次の瞬間、いつもの笑みを作った。
「先輩」
「……何だ」
「去年とは違うんですよ」
悠は、言い切る。
「去年の大会、私、見てました」
「だから私、ここに来たんです」
朔の心臓が跳ねる。
「今年は」
悠の声が少し震える。
「私がいます」
砂糖を吐く勢いの、真っ直ぐな言葉。
「先輩が怖いなら」
「私が前で受け止める」
朔の喉が鳴る。
「……頼む」
「任せてください」
その瞬間、朔の震えが少しだけ落ち着く。
完全には消えない。
でも――握れる。
震えたままでも、進める。
⸻
決勝の待機時間は長い
入場の時間まで、残り数分。
その数分が、やけに長い。
外の歓声が、壁越しに聞こえる。
実況の声。
拍手。
決勝の舞台は、空気が違う。
準決の“必死”とは違う。
決勝は、“静かな殺意”が漂っている。
朔は椅子に座って、目を閉じた。
去年の敗北が浮かぶ。
最後の場面。
自分の判断が遅れて、
味方が崩れた。
(……俺のせいだ)
その言葉が、喉の奥にこびりついている。
朔は目を開ける。
今は。
目の前に、味方がいる。
蓮先輩がいて。
湊がいて。
悠がいて。
桜先輩がいて。
樹先輩と斎がいて。
凛がいる。
そして――観客席には、遥と碧と翠がいる。
(……一人じゃない)
それでも、怖い。
怖いことと、一人じゃないことは、別だ。
その矛盾を抱えたまま、朔は立ち上がる。
⸻
8:最後の声
知世が、壁にもたれたまま言った。
「……朔」
「はい」
「震えてる?」
「……少し」
朔は正直に言った。
知世は、だるそうに鼻で笑う。
「いいじゃん」
「震えるってことは、ちゃんと勝ちたいってことでしょ」
一拍。
「まあ」
「勝ちなさいよ」
小さく、投げるように。
でも、その言葉はやけに真っ直ぐだった。
蓮が、全員を見渡す。
「行こう」
その一言で、
控室の空気が一つにまとまる。
朔の震えは、まだ消えない。
でも。
震えたままでも、前へ行ける。
扉が開く。
眩しい照明。
歓声。
決勝の舞台。
朔の心臓が跳ねる。
去年の影が、背中に張り付く。
それでも。
足は止まらなかった。




