12
生徒会室は、放課後になると妙に音が減る。
昼間は廊下の足音や話し声がガラス越しに入ってくるのに、
放課後は部活へ散っていく流れに吸い取られるみたいに、
ここだけが少し取り残される。
槌見碧は机に向かったまま、淡々と書類に目を通していた。
提出期限。
添付漏れ。
部活名の記載ミス。
修正。
確認。
署名。
いつもの作業。
いつもの手順。
なのに今日は、指先が少しだけ重い。
(……気のせい)
碧はそう思おうとした。
思おうとして、ふとペン先が止まる。
視界の端に、付箋が貼られた紙が見えた。
提出先:eスポーツ部
それだけで、胸の奥がほんの少しだけ鳴る。
ドクン、ではない。
トン、と軽い音。
(……仕事だよ)
碧は自分に言い聞かせるように、書類の束を揃えた。
理由はある。
生徒会役員としての業務。
部活の提出物を回収し、必要なら確認を入れる。
十分に正当。
だけど――
(……それでも、行く)
自分の足が向かうことを、
碧はもう否定しなかった。
⸻
部室棟に向かう廊下は、夕方の匂いがする。
窓の外の空は薄くオレンジで、
遠くの運動部の掛け声が風に混ざる。
eスポーツ部の前で、碧は足を止めた。
扉の向こうは賑やかだ。
「え、今の見た!?」
「見た見た!」
「布上、今の判断やばいって!」
女子の声も混じっている。
神々桜。
相変わらず元気だ。
(……入る前から分かるな)
碧は一度、深呼吸してからノックした。
「失礼します」
扉を開けると、部室の空気が一気に肌に触れる。
モニターの光。
キーボードの音。
椅子の軋み。
「お、槌見さん!」
斎が先に気づいて声を上げた。
「生徒会の書類を持ってきました」
「いつもありがとー!」
桜が手を振る。
「桜、落ち着け」
蓮が苦笑しながら制す。
「はいはい。碧さん、こっち置いといて」
顧問の神々知世が、椅子にだらんと座ったまま手を振った。
今日もゆるい。今日も通常運転。
「ありがとー。助かる」
「いえ」
碧は書類を蓮に渡す。
それで終わるはずだった。
――はずだったのに。
視線が、自然と向いてしまう。
布上朔。
画面の前に座り、マウスを持つ手は落ち着いている。
練習中のスイッチが入っているわけではないのに、
姿勢がいつもより少しだけ整って見えた。
その隣。
針瀬悠がいた。
距離は、近い。
でも、べったりではない。
ただ、そこが“定位置”みたいに自然だった。
(……日常になったんだ)
碧は心の中で、そう言葉にする。
驚きはない。
理解はある。
でも、胸の奥に小さな痛みが残る。
気づかないふりをするほど鈍くない。
「……碧先輩」
悠の声。
碧が顔を上げると、悠が丁寧に頭を下げた。
「この前の生徒会の調整、本当に助かりました」
「ああ、あれね。気にしなくていいよ」
「でも、ありがとうございます」
悠は真っ直ぐだ。
飾らない。
押し付けない。
碧はその“真っ直ぐさ”を、
苦手じゃないどころか、少し眩しいと思っていた。
「……どういたしまして」
そのやり取りを、朔が見ていた。
声を挟まない。
ただ、穏やかに見ている。
碧は、その視線に胸が少しだけ温かくなるのを感じて――
同時に、苦しくなる。
(……好きだな)
改めて思ってしまった。
好きだから苦しい、なんて、
分かりきったことなのに。
⸻
練習が始まる。
碧は部室の隅、邪魔にならない場所に立って様子を見る。
朔の“スイッチ”が入る瞬間は、何度見ても分かりやすい。
顔つきが変わる。
声が変わる。
目が変わる。
「前線、あと二秒耐えて」
「はい」
悠の返事が早い。
「湊、今は突っ込むな。回ってから」
「了解」
指示が的確だ。
迷いがない。
(……やっぱり、すごい)
碧は何度も思ってきた。
朔は普段、目立たない。
教室でも控えめ。
自分を低く見積もる癖がある。
でも、ここでは違う。
ここでは、
朔の判断が“中心”になる。
その中心に、悠がいる。
支えるように。
合わせるように。
しかし、折れないように。
チームの勝利が決まる。
桜が大げさに椅子を蹴り、盛大に拍手する。
「はい優勝ー!」
「練習だよ」
斎が突っ込む。
「でも今の綺麗すぎた!」
「うん、布上の判断が早い」
樹が淡々と補足した。
知世が気だるそうに拍手する。
「まーた勝ってる。いいねぇ。先生、機嫌よくなる」
碧は小さく笑う。
部の空気が、いい。
だからこそ――
(……ここは、安心できる場所なんだ)
朔にとっても。
悠にとっても。
そして、碧にとっても。
だから、余計に厄介だった。
⸻
「……碧」
横から声がして、碧は振り向いた。
釘宮遥。
ショートボブの髪が、軽く揺れている。
腕を組んだまま、部室を眺めていた。
「来てたんだ」
「仕事」
「うん、仕事」
遥が、わざとらしく頷く。
碧も、わざとらしく頷く。
そのやり取りだけで、
二人は“同じものを見ている”と確認できてしまう。
「……どう思う」
遥が小さく聞いた。
「なにが」
「今の」
遥は顎で、朔と悠の方を示した。
碧は少し考えてから答える。
「……変わったね」
「でしょ」
遥は、軽く鼻で笑う。
でも、目は笑っていない。
「一年生、強い」
「うん」
碧の返事は短い。
短いのに、
そこにはいろいろな意味が詰まってしまう。
「……私はさ」
遥が言う。
「止める気はない」
「知ってる」
「でも、譲る気もない」
「……それも知ってる」
碧は、少しだけ笑ってしまった。
「遥、素直じゃないね」
「碧もね」
遥は碧を見る。
その視線が、鋭い。
「……碧は」
一拍。
「どうなの」
碧は答えない。
答えられない。
沈黙が落ちる。
遥はそれ以上聞かなかった。
それが、親友の優しさだと分かる。
優しさが、痛い。
⸻
練習が終わる。
片付けの時間。
朔が椅子を戻す。
湊がコードをまとめる。
斎が雑談しながら机を拭く。
蓮が軽く次の予定を確認し、知世は「勝ったから今日は良し」と適当に頷く。
いつもの空気。
そして、悠は――
いつものように朔の近くにいる。
袖を軽く掴む。
近くで話す。
小さく笑う。
距離ゼロが、もう当たり前。
碧は、その光景を見て――
胸の奥が、じわりと痛んだ。
(……あ)
初めて、はっきり痛い。
感情の正体が、輪郭を持つ。
碧は自分の中で、静かに認めてしまった。
(……私は)
支える側でいたかっただけじゃない。
近くにいたかった。
言い換えれば。
――選ばれたかった。
それを口にした瞬間、
何かが壊れそうで、碧は目を伏せた。
(……でも、壊さない)
壊さないと決める。
決めたから、
次にできることを選ぶ。
⸻
碧は、ゆっくりと朔に近づいた。
「……朔」
呼び方は、自然に“名前”になった。
朔が顔を上げる。
「碧?」
「少し、話せる?」
悠が一瞬だけこちらを見る。
でも、何も言わない。
表情も変えない。
その配慮が、碧には分かってしまう。
(……強い)
だからこそ、弱くなる。
朔が頷く。
「……いいよ」
部室の外へ出る。
廊下の空気が少し冷たい。
「……最近、賑やかだね」
碧が言う。
「……自覚はある」
朔は苦笑した。
「疲れてない?」
「疲れてないと言えば嘘だな」
正直。
碧は、その正直さが好きだった。
「ね」
碧は言葉を選ぶ。
「自分の気持ち、後回しにしすぎないで」
朔が黙る。
碧は続ける。
「誰かを傷つけないように、って考えるのは優しい」
「でも、優しさって」
一拍。
「自分を置いていくと、空っぽになるよ」
言ってから、
少しだけ自分の胸が痛む。
それは、朔のための言葉なのに。
同時に、碧自身のための言葉でもあるから。
朔が小さく頷いた。
「……ありがとう」
「ううん」
碧は笑おうとして、
うまく笑えなかった。
朔が続ける。
「碧には、いつも助けられてる」
「……またそれ」
「本当だ」
その言葉は、優しい。
でも――
優しいからこそ、残酷だ。
碧は一度、目を伏せた。
「……ね、朔」
「ん?」
「“助けられてる”って言葉」
一拍。
「私、好き」
ここで告白はしない。
でも、気持ちは隠しきらない。
碧は少しだけ笑う。
「だから、あんまり軽々しく言わないで」
「……ごめん」
「謝らないで。嬉しいから言ってるの」
朔は何も言えずに黙る。
その沈黙が、
碧にはありがたかった。
無理に言葉で片付けないでくれるから。
⸻
別れ際。
部室の前に戻ると、
中から桜の声が聞こえた。
「え、今日も勝てる!?勝てるよね!?」
「練習だから」
「練習でも勝て!」
いつもの騒がしさ。
碧は深呼吸して、
いつもの顔に戻る。
「じゃ、またね」
「うん」
朔が部室に戻る背中を見送って、
碧は心の中で決める。
(……私は)
まだ奪わない。
まだ壊さない。
でも。
(……支えるだけでも、終わらせない)
この気持ちは、しまい込まない。
しまい込まないで、
自分の中で育てる。
いつか、必要な時が来たら――
その時は、ちゃんと出す。
碧は、廊下を歩き出した。
誰かに必要とされる理由を、朔はまだ知らない。
けれど、
その理由のひとつに自分がなれるように。
碧は、静かに前を向いた。




