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月曜日の朝は、少しだけ落ち着かない。
針瀬悠は、一年生の昇降口で靴を履き替えながら、
無意識に視線を上げていた。
二年生の教室がある方向。
(……いない)
分かっている。
朝のホームルームが違う。
教室も、階も違う。
それでも、
探してしまう。
金曜日の放課後から、
ほんのわずかに変わった空気。
言葉にするほどじゃない。
でも、触れていた距離があるからこそ、
分かってしまう違和感。
(……金曜の帰り)
悠は、廊下を歩き出す。
自分の教室へ向かう途中、
二年生の廊下と交差する階段の前で、
ほんの一瞬、足を緩めた。
生徒が流れてくる。
知っている顔も、いくつか。
でも、
目的の姿はない。
(……当然ですね)
自嘲気味に、心の中で呟く。
今までが、近すぎただけ。
⸻
午前の授業が終わる。
チャイムと同時に、廊下が騒がしくなる。
悠は教室を出ると、
流れに逆らわないように歩きながら、
視線だけを巡らせていた。
(……やっぱり、探してる)
自覚して、
小さく息を吐く。
昼休み。
購買へ向かう途中、
曲がり角の向こうに、見慣れた背中を見つけた。
布上朔。
一瞬だけ、足が止まる。
話しかける理由はない。
でも、視線は離れない。
歩き方。
肩の力。
視線の落とし方。
(……やっぱり)
金曜日の帰りから、
ほんの少しだけ変わっている。
誰かと、
ちゃんと話した後の空気。
悠は、すぐに近づかなかった。
今日は、触れない。
今日は、確認する日だ。
⸻
午後。
階段ですれ違った時、
ようやく視線が合う。
「……おはようございます」
「……おはよう」
それだけ。
距離はある。
でも、拒絶じゃない。
それが分かるから、
悠は踏み込まない。
(……部活前)
話すなら、
その時だ。
⸻
放課後。
部活へ向かう生徒の流れの中で、
悠は意を決して足を止めた。
「……先輩」
朔が振り向く。
「部活の前に」
一拍。
「少し、話したいです」
朔は、ほんの一瞬だけ考えてから頷いた。
「……分かった」
短い返事。
でも、
ちゃんと向き合う返事。
それで、十分だった。
⸻
部室の外。
夕方の光が、廊下に長い影を落としている。
人の気配はない。
遠くから、誰かの笑い声だけが聞こえる。
悠は、深呼吸をひとつした。
「……先輩」
朔が、こちらを見る。
「金曜の帰り」
一拍。
「誰かと、ちゃんと話しましたよね」
朔は、一瞬だけ目を見開いた。
否定しない。
「……ああ」
それだけで、答えは十分だった。
悠は、視線を逸らさずに続ける。
「土日を挟んで」
「空気が、少し変わりました」
責める声じゃない。
探る声でもない。
確認する声。
「……幼馴染の先輩ですね」
朔は、少しだけ黙ってから頷く。
「……そうだ」
悠は、小さく息を吐いた。
「分かりました」
一拍。
「私は」
「それが、嫌じゃありません」
朔が、眉をひそめる。
「……嫌じゃない?」
「はい」
悠は、落ち着いた声で続ける。
「先輩には」
「積み重ねた時間があります」
「関係も、歴史も」
否定しない。
壊さない。
でも。
「でも」
一拍。
「私は、そこで引く気はありません」
声は穏やか。
けれど、揺れない。
「奪いたいわけじゃないです」
「追い出したいわけでもありません」
一歩、近づく。
でも、触れない。
「……私は」
「選ばれたいだけです」
その言葉は、
甘さよりも、覚悟を含んでいた。
朔は、しばらく黙ってから言う。
「……俺は」
「まだ、決めきれない」
正直な言葉。
逃げじゃない。
悠は、少しだけ微笑んだ。
「知っています」
「だから」
そっと、袖を掴む。
軽く。
逃げられる強さで。
「……私は、隣にいます」
抱きつかない。
迫らない。
でも、
消えない。
朔は、その手を振り払わなかった。
「……それでいいのか」
「はい」
即答。
「選ばれなくても」
「嫌われなければ」
「……私は、進めます」
それは、
年下だからこそ出した、
背伸びじゃない覚悟だった。
部室のドアが開く。
「お、始めるぞー」
湊の声。
日常が、戻ってくる。
悠は、手を離す。
「……行きましょう」
「ああ」
二人は並んで歩き出す。
距離は、ゼロじゃない。
でも、
確実に、途切れない距離。
朔は、歩きながら思う。
自分は今、
追われているわけじゃない。
選び続ける時間を、許されている。
その重さを、
ようやく理解し始めていた。
誰かに必要とされる理由を、
朔はまだ知らない。
それでも。
その理由を探す時間だけは、
確かに、守られていた。




