10
朝の駅前は、いつもと同じ騒がしさだった。
改札を抜ける人の流れ。
少し眠そうな顔。
制服の擦れる音。
布上朔は、その中で立ち止まっていた。
(……いない)
無意識に、視線が周囲を探してしまう。
いつの間にか、
そこにいるのが当たり前になっていた存在が、今日は見当たらなかった。
「……遅刻、か?」
自分でも理由がよく分からないまま、
そう呟いた時だった。
「……なに、キョロキョロしてんの」
少し低めで、聞き慣れた声。
振り向くと、
釘宮遥が立っていた。
ショートボブの髪は、朝の慌ただしさのせいか、
少しだけ外側に跳ねている。
それを耳にかけながら、
じとっとした目でこちらを見ていた。
「……おはよう」
「おはよ」
それだけで、空気が落ち着く。
特別な言葉はない。
でも、変に気を張らなくていい。
「……悠、いないんだな」
「今日は用事あるって言ってた」
「そうなのか」
「たぶん、遅れる」
必要な情報だけ。
それ以上も、それ以下もない。
その距離感が、
幼馴染だった。
「……久しぶりだね」
遥が言う。
「こうやって二人で行くの」
「……ああ」
歩き出す。
自然に、並ぶ。
肩は触れない。
でも、離れてもいない。
昔から変わらない距離。
悠と並ぶ時の、
あの“近さ”とは明確に違う。
(……楽、だな)
思ってしまって、
朔は小さく眉を寄せた。
楽だと感じることが、
少しだけ後ろめたくて。
「……今、変な顔してる」
「そうか?」
「してる」
「……気のせいだ」
「絶対違う」
遥はそう言って、
小さく笑った。
その笑い方も、
昔と同じだった。
⸻
電車に乗る。
混雑した車内で、
遥は自然に朔の隣に立つ。
つり革を掴む距離。
揺れた時に、少しだけ近づく。
でも、
触れない。
そこは、越えない。
「……最近さ」
遥が、前を見たまま言った。
「朝、賑やかだったでしょ」
「……そうか?」
「自覚ないんだ」
「……ない」
遥は、鼻で小さく笑う。
「まあ、そうだよね」
それ以上、踏み込まない。
少し間を置いてから、
ぽつりと続ける。
「……一年生の子」
一拍。
「大事にされてるよね」
名前は出さない。
でも、
誰のことか分からないほど、鈍くはない。
「……ああ」
「ふーん」
遥は、それ以上何も言わなかった。
責めない。
探らない。
でも、
話題を終わらせたのは遥だった。
(……俺から、言ってるな)
聞かれてもいないのに、
自分から答えてしまったことに、
朔は内心で気づく。
悠の存在を、
もう隠していない。
それが、少しだけ怖かった。
⸻
学校に着く。
校門をくぐると、
いくつかの視線がこちらを向く。
でも今日は、
昨日ほど露骨じゃない。
理由は単純だ。
距離が、普通だから。
「……なんか」
遥が言う。
「今日は平和だね」
「……そうだな」
教室へ向かう廊下。
遥の歩く速度は、
少しだけゆっくり。
急かされない。
置いていかれない。
「……朔」
「ん?」
「最近さ」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……ちゃんと寝てる?」
「急だな」
「顔」
「……普通だろ」
「普通だけど」
遥は、ちらっと朔を見る。
「前より、ちょっとだけ安心してる顔」
「……そうか?」
「うん」
幼馴染にしか分からない変化。
だからこそ、
胸の奥に、静かに刺さる。
朔は、返事ができなかった。
理由が分からないからじゃない。
理由を、認めたくなかったから。
⸻
教室前。
チャイムが鳴る前に、
二人は自然に足を止める。
「じゃ」
「おう」
別れ際。
遥は、ショートボブの髪を耳にかけてから、
何でもない調子で言った。
「……放課後、時間ある?」
「……部活」
「そっか」
それだけ。
引き止めない。
でも、離れもしない。
その立ち位置が、
遥の本気だった。
朔は教室に入りながら、
ふと思う。
悠といる時は、
心臓がうるさい。
遥といる時は、
呼吸が自然になる。
(……どっちも、違う)
どっちが正しい、じゃない。
どっちも、
今の自分に必要な距離だ。
それに気づいてしまったことが、
何よりも厄介だった。
教室の窓から差し込む朝の光が、
朔の足元を照らしていた。
⸻
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
机を叩く音。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
その中で、布上朔はゆっくりと立ち上がる。
(……部活)
いつも通りの予定。
いつも通りの流れ。
そう思っていたのに。
「……朔」
背後から呼ばれて、足が止まる。
振り向くと、
釘宮遥が立っていた。
ショートボブの髪が、少しだけ揺れる。
朝よりも整っているのに、
どこか落ち着かない。
「……なに」
「一緒に、帰らない?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……部活」
「知ってる」
「じゃあ……」
「駅まででいい」
理由を用意していない言い方だった。
ただ、
一緒に歩きたいという事実だけ。
「……分かった」
それ以上、断る理由はなかった。
⸻
廊下を並んで歩く。
人は多い。
でも、二人の周囲だけ、少し静かだった。
距離は、朝と同じ。
近すぎない。
遠くもない。
悠と並ぶ時とは、違う。
「……なんか」
朔が言う。
「今日は、やけに一緒だな」
「悪い?」
「……悪くはない」
正直な答え。
遥は、それを聞いても笑わなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「土曜さ」
一瞬、心臓が跳ねる。
でも、遥は続けない。
「……楽しかった?」
主語も、目的語もない。
でも、
何を聞いているのかは、はっきりしていた。
「……ああ」
一拍。
「楽しかった」
遥は、少しだけ視線を落とす。
「……そっか」
それ以上、聞かない。
でも、
その一言に込められた感情は、
決して軽くなかった。
⸻
駅へ向かう道。
夕方の光が、二人の影を長く伸ばす。
懐かしい風景。
遥が、ぽつりと笑う。
「……覚えてる?」
「なにを」
「中学の時」
「……急だな」
「朝練サボって、駅まで走ったやつ」
思い出す。
息が切れて、
並んで歩いた帰り道。
「……あったな」
「その時さ」
遥は少しだけ笑う。
「朔、今と同じ顔してた」
「……どんなだ」
「ぼーっとしてて」
「失礼だな」
「でも」
一拍。
「……安心してる顔」
胸の奥が、静かに鳴る。
「……そうか」
「うん」
遥は立ち止まる。
改札の少し手前。
人の流れの中で、
そこだけ時間が緩んだ。
遥は、前を見たまま言う。
「……私さ」
「ん」
「今さら、何か変えようとは思ってない」
言葉は、慎重だった。
「奪うとか」
「張り合うとか」
「そういうの、性に合わないし」
遥は、ゆっくりと息を吸う。
「でも」
そこで、初めて朔を見る。
真正面。
「……まだ、朔の隣にいていいよね」
問いかけなのに、
迫る感じはない。
答えを急かさない声。
幼馴染だからこそ出せる距離。
朔は、すぐに答えられなかった。
否定は、できない。
肯定も、はっきりとは言えない。
「……遥は」
一拍。
「ずっと、隣にいたろ」
それは、答えになっていない。
でも、拒否でもない。
遥は、その曖昧さを、
ちゃんと受け取った。
「……そっか」
少しだけ、口元が緩む。
「じゃあ」
「……ああ」
改札を通る直前、
遥は振り返らずに言った。
「……無理に追い越す気、ないから」
「……そうか」
「でも」
一拍。
「置いていかれる気も、ない」
それだけ言って、
改札を抜ける。
朔は、その背中を見送った。
胸の奥に、
何かが静かに残る。
重くない。
でも、消えもしない。
(……ずるいな)
遥のやり方は、
逃げ場を残す。
でも、
立ち位置だけは、譲らない。
それが、
幼馴染の本気だった。
朔は、ゆっくりと改札を抜ける。
この気持ちに、
名前はまだつけられない。
でも、ひとつだけ分かる。
自分は今、
選ばれているだけじゃない。
選び始めている。
その自覚が、
静かに胸に広がっていった。




