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朝のホームは、いつも同じ顔をしている。
同じ電車、同じ時刻、同じ位置に集まる人たち。
……なのに、僕だけが毎回少しだけ落ち着かない。
理由は分からない。
分からないから、足元の白線を眺めているのが一番ラクだった。
白線の内側。
これ以上は出たら危ない、っていう境界。
境界は分かりやすい。人の気持ちよりずっと。
「朔」
呼ばれて顔を上げる。
釘宮遥が少し離れたところに立っていた。
腕を組んで、ショートボブの髪が風で揺れて、目だけが鋭い。
「そこ、前出すぎ」
「え? 出してないけど」
「出してる」
「出してない」
「出してる」
遥の“出してる”は、いつも判決だ。
反論したところで覆らない。
「危ないから、下がれ」
「……はい」
僕が一歩下がると、遥はふっと視線を外した。
それで終わりかと思ったのに、またすぐ僕の足元を見た。
「……ほら、また前出てる」
「出てない」
「出てる」
「出てない」
遥は一歩近づいてきて、僕の靴先を指差した。
「白線、見えてる?」
「見えてる」
「見えてない顔」
「顔で判断するのやめて」
「やめない」
即答。
今日も通常運転。
僕は何も言わず、靴先を白線から少し離した。
すると遥は満足そうに頷く……のに、絶対に褒めない。
褒めないくせに、確認だけはする。
こういうところが遥だ。
周囲の人が少しずつホームの端に寄っていく。
電車が来る音が近づいて、空気がざわざわする。
「……人、多いな」
僕がぼそっと言うと、
「通学時間」
遥が即答する。
「知ってる」
「なら言うな」
「……うん」
会話が一行で終わる。
終わるのに、胸が変に落ち着く。
電車のライトが見えた。
人の波が動く。押し合う気配。ホームの空気がひとつになる。
「はぐれるなよ」
遥が言った。
「はぐれない」
「はぐれる」
遥は当たり前みたいに僕の袖を掴んだ。
迷いがない。ためらいもない。
掴まれた瞬間、腕の皮膚がそこだけ熱くなる。
それが妙に意識に残って、心臓が一拍だけ早く鳴った。
「……掴まなくても」
「掴む」
「……なんで」
「面倒だから」
「はぐれないって」
「はぐれる」
堂々巡り。
だけど、遥は掴んだまま、何でもない顔をしている。
何でもない顔が余計にずるい。
……いや、ずるいとか考えるな。考えると変になる。
車内に押し込まれた瞬間、距離が一気にゼロになる。
ぎゅうぎゅうの空間。背中と背中の間がない。
遥は僕の前に立って、つり革に片手。
もう片方の手は、まだ僕の袖を掴んだまま。
揺れで体が寄る。
遥の背中が近い。髪が揺れる。匂いがする。
近い。
それだけで息が浅くなるのが、自分でも分かる。
「……朔」
「なに」
「息」
「え」
「うるさい。落ち着け」
落ち着けって言われて落ち着けたら苦労しない。
でも遥に言うと面倒なことになるのも分かってる。
「……努力する」
「努力じゃない。落ち着け」
遥の声はツンとしてるのに、袖を掴む指先だけが、やけに優しい。
掴む力は強くない。引っ張るわけでもない。
ただ、そこにいるっていう感じ。
次の駅で、ドアが開いて、人が押し出される。
少し隙間ができた。
そのタイミングで、遥の手がふっと離れる。
離れた瞬間、腕が軽くなる。
軽くなるのに――なぜか胸が落ち着かない。
感触が残ってる。
袖の辺りが熱い気がする。
「おはよう、幼馴染コンビ」
後ろから、軽い声が降ってきた。
振り向くと、糸井湊がにやにやして立っていた。
茶髪ショート、爽やかイケメン。朝から目が冴えすぎている。
「おはよう」
「おは」
遥は短く返す。
「朔、今日も赤いね」
「赤くない」
「赤い」
「赤くない」
湊は楽しそうに言う。
「遥、判定お願い」
「赤い」
即答が刺さる。
「……なんで分かるの」
「分かる」
「理由になってない」
「幼馴染だから分かる」
「……じゃあ湊は」
「親友だから分かる」
二人が同時に言って、ほんの一瞬だけ視線が交差した。
そして同時に、ふん、とそっぽを向く。
……仲いいのか悪いのか、よく分からない。
湊が僕の袖の辺りを見て、口元をつり上げた。
「さっき掴まれてた?」
「掴まれてない」
「掴まれてたじゃん」
「掴まれてない」
「遥、判定」
「……黙れ湊」
判定じゃない答えが返ってきた。
湊は肩をすくめて、僕の耳元に小声で言う。
「これ、ツンのくせに甘いタイプだな」
「……何言ってんの」
「朔は鈍感だから、翻訳してあげてる」
翻訳って何だ。
分からない。
分からないけど、湊が楽しそうなので、余計にむず痒い。
「でさ」
湊が声を普通の大きさに戻す。
「今日、放課後部活?」
「うん」
「遥は朝練だっけ?」
「当たり前」
遥が刺すように言う。
「全国優勝者、忙しいね」
「うるさい。湊は暇そう」
「暇じゃない。彼女とメッセするから忙しい」
遥が一瞬だけ反応した。
「……翠?」
「そう。剣城翠さん」
湊がわざとらしく言う。
「今日は『行けたら行く』って言ってた」
「行けたら行くって、一番来ないやつ」
遥が即答する。
「やめろ」
「だってそうじゃん」
「……でも翠は来る時は来る」
湊が言う。
「その時の破壊力がすごい」
「学校が死ぬ」
「死ぬって言うな」
「死ぬ」
“学校が死ぬ”の意味は分かる。
翠が来た日は、廊下の空気が変わる。視線が全部そっちへ向く。
僕は一回だけ遠い世界を想像して、すぐやめた。
想像しても意味がない。眩しいだけだ。
揺れが来て、湊が軽くつり革を握り直す。
遥も同じタイミングでつり革を握り直す。
僕だけが少し遅れて握ろうとして、空振った。
「……危ない」
遥が言った。
次の瞬間、遥の手が僕の袖を掴んだ。
また。
さっきは離れたのに。
「はぐれるなって言ってるでしょ」
「はぐれないって……」
「はぐれる」
遥は掴んだまま、前を向く。
何でもない顔。何でもない声。
なのに、手だけが確かにここにある。
湊がそれを見て、声を殺して笑った。
「今日も通常運転」
「黙れ」
「朔、赤い」
「赤くない」
「赤い」
遥がぼそっと追撃する。
「……赤い」
追撃はやめてほしい。
心臓がうるさい。
学校に着く。
人の波に押されて降りる。
「じゃ、朝練」
遥が言う。
「がんばれー」
湊が手を振る。
遥は振り返って、僕を見た。
ほんの一瞬だけ、目が真剣になる。
「……倒れんなよ」
「倒れない」
「倒れる顔」
「顔、便利すぎ」
「便利」
遥はそれだけ言って、走っていった。
速い。速いのに、走り方が綺麗で、見てるだけで気持ちがいい。
湊が僕の肩をぽん、と叩く。
「遥、あれ絶対心配してる」
「……そうかな」
「そうだよ。朔は鈍感」
「うるさい」
教室に向かいながら、湊がスマホを確認する。
画面を見た瞬間、表情が少し柔らかくなった。
「翠?」
「うん。今、移動中らしい。……午前の撮影が押してる」
「来れそう?」
「『ギリギリ』だって」
「ギリギリって言うやつも来ない」
「遥と同じこと言うな」
湊は返信しながら笑っている。
彼氏の顔ってこういうのか、とぼんやり思った。
――その直後だった。
「朔くん」
柔らかい声。
槌見碧が教室の前に立っていた。
ストレートロングの髪がさらりと落ちて、穏やかな笑顔。
その笑顔が、僕の顔を見た瞬間に少しだけ曇った。
「……朝ごはん、食べてないでしょ」
「え」
「顔に書いてある」
「今日みんな顔で判断しすぎじゃない?」
「分かりやすいんだもん」
碧は鞄から袋を取り出した。
小さなパンと栄養ゼリーと温かいお茶。
「はい」
「……ありがとう」
「ちゃんと食べてね。あと、水」
水も出てくる。
過保護が早速フルスロットル。
湊が横から口を挟む。
「槌見、完全に保護者」
「保護者じゃない」
「保護者」
「違うってば」
碧がむっとして、でもすぐに僕を見る。
「放課後、部活だよね」
「うん」
「終わったら連絡してね。喉、ケアしないと」
「……喉?」
「声、出すでしょ」
「……出すけど」
「だから。飴も持ってきたよ」
「え、飴まで?」
「必要だと思って」
“必要”って言葉が、胸に引っかかる。
考えない。考えると変になる。
「あと、これ」
碧が小さなメモを渡してくる。
字が丁寧で、やたら具体的だ。
『朝:パン
昼:ちゃんと食べる
放課後:水・飴
帰宅:温かい飲み物』
「……監督?」
「違う。お願い」
「お願いに見えない」
「お願いだよ。ね?」
“ね”が付いた。
頷くしかない。
「……うん」
「よかった」
碧が嬉しそうに笑う。
その笑顔で心臓がまたうるさくなるのは、理不尽だ。
午前の授業は、普通に過ぎた。
普通、のはずだった。
ノートを取っているのに、
たまに袖の感触を思い出してしまう。
思い出すたびに、胸がちょっとだけ熱い。
何でか分からない。分からないから、ノートに集中する。
昼休み。
弁当を開けた瞬間、机に影が落ちた。
「朔」
遥だ。
ジャージ姿で、汗を拭いている。朝より少し息が上がっているのに、目は強いまま。
「なに」
「放課後、選考」
「うん」
「見に来い」
「え」
唐突。
拒否権がない言い方。
「邪魔になるかも」
「ならない」
「でも」
「ならない。以上」
以上、で終わらせるのが遥だ。
けど、その目が真剣すぎて、適当に流せない。
碧が横からふわっと入る。
「私も行くよ」
「……槌見は忙しいだろ」
「忙しいけど、行く」
「……ふぅん」
遥の声がほんの少し低くなる。
碧は気づかないふりで僕の水のキャップを開ける。
「はい、飲んで」
「今?」
「今」
僕が飲む。
遥の視線が刺さる。
「……碧、やりすぎ」
「やりすぎじゃない」
「やりすぎ」
「やりすぎじゃない」
小学生みたいな言い合いなのに、空気は妙に熱い。
僕は間に挟まって、逃げ場がない。
湊が通りすがりに言った。
「二人とも、朔に構いすぎ」
「構ってない」
遥が即答。
「構ってないよ」
碧も即答。
即答が揃うの、怖い。
「じゃあ僕は誰と食べればいいの」
僕がつい口にすると、
「私」「私」
また揃う。
揃って、二人とも一瞬固まった。
遥が先に視線を逸らした。
「……冗談に決まってるでしょ」
「冗談だよ」
碧も慌てて言う。
冗談のテンポじゃなかった。
心臓が跳ねて、僕は弁当の米粒を一つ落とした。
碧がそれを見て、小さく息を呑む。
「朔くん……ちゃんと食べて。落ち着いて」
「……うん」
遥がぼそっと言う。
「……食べこぼすなよ」
「うん」
「……うんじゃなくて、ちゃんと拾え」
「拾う」
言われた通り拾う。
その間も二人が見ている。
見られていると、やたら手がぎこちなくなる。
放課後。
碧は生徒会の仕事で一度別れて、
僕は遥に言われるままグラウンドへ向かった。
走り幅跳びでも投擲でもない。短距離。
スタート地点に立つ遥は、日常の遥とは別の顔をしていた。
声を掛けようとして、止めた。
邪魔になる気がした。遥は邪魔にならないって言ったのに。
でも、遥の集中を邪魔したくないと思った。
矛盾している。自分でも分かる。
号砲。
遥が走る。
速い。
速い、なんて言葉じゃ足りない。
地面を蹴る音が一つ一つはっきり聞こえて、風が切れる。
ゴールの瞬間、周囲がざわっと沸いた。
遥が息を整えながらこちらを見る。
目が合う。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、遥の表情が緩んだ。
すぐにツンに戻る。
「……見てた?」
「見てた」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
遥はふん、と鼻を鳴らす。
「来て正解だったでしょ」
「……うん」
その“うん”を聞いた瞬間、遥が少しだけ満足そうに頷いた。
褒めないけど、分かりやすい。
そこへ碧が駆けてきた。
「遥ちゃん、すごい! やっぱり速い」
「当たり前」
「でも本当にすごい」
「……うるさい」
遥はうるさいと言いながら、否定しない。
碧は嬉しそうに笑う。
その空気が、少しだけ眩しい。
帰り道、湊からメッセが来た。
『翠、やっぱ無理。撮影延びた。
でも「頑張って」ってさ。あと、朔によろしくって』
僕によろしく、って何だ。
会ったこともないわけじゃないけど、そんなに関わりはないはずだ。
湊が次のメッセも送ってきた。
『朔、明日刺されるかもな。翠、応援=期待だから』
刺されるって何だ。怖い。
でも、少しだけ笑ってしまった。
湊の言い方は大げさだ。
僕はそのまま、eスポーツ部の部室へ向かった。
ドアの前に立った瞬間、胸のざわつきが少しだけ変わった。
日常のざわつきとは違う。
ここから先は、別の世界だ。
――ここで僕は、切り替わる。
⸻
eスポーツ部の部室の前に立つと、空気が少しだけ変わる。
同じ校舎、同じ廊下、同じ放課後。
なのに、この扉の前だけは、音が一枚壁を挟んでいるみたいに遠い。
運動部の掛け声も、文化部の笑い声も、廊下の雑談も。
全部が薄くなる。
代わりに聞こえるのは、低い機械音。
パソコンのファンが回る音と、キーボードを叩く乾いた音。
僕は一度だけ、短く息を吸った。
さっきまで胸を占めていたもの――遥の視線や、碧の「連絡してね」や、湊の「翠が来れるかも」――
それらが、ここでは少しだけ背景に押しやられる。
ドアノブに触れる。
押す。
「失礼します」
入った瞬間、桜先輩の声が飛んできた。
「おっかえりー! 司令塔おっかえりー!」
「うるさい」
蓮先輩の穏やかな声が即座に刺す。
「音量を下げろ、桜」
「えー! だってテンション上がるじゃん! 勝ちたいじゃん!」
「勝つために下げろ」
「理不尽!」
神々桜先輩は椅子をくるっと回して、ポニーテールを揺らして、わざとらしく頬を膨らませる。
美人がそれをすると腹立つのに、なぜか場が明るくなるのも事実だ。
条鋼蓮先輩は眼鏡の位置を指で直しながら、僕を見る。
「布上、来たか」
「はい」
返事をした自分の声が、少しだけ低い。
自覚はある。ここに入ると、声の出し方が変わる。
貝塚樹先輩はモニターから目を離さないまま、淡々と言う。
「……相手、決まった」
「どこ?」
湊がすぐ聞く。
「隣県の強豪。前寄り構成。初動が速い」
「やばいじゃん、楽しい」
湊が笑う。
穂村斎は、配線を直しながら苦い顔をした。
「楽しいって言うなよ。俺、胃がキリキリするタイプ」
「お前、いつもキリキリしてるじゃん」
湊。
「それは桜先輩の騒音のせい」
「騒音!? 私の声はBGM!」
「最悪のBGMだよ」
「ひどい!」
僕は席に鞄を置いた。
机の上に、ヘッドセットとマウスとキーボード。
その並びを見るだけで、脳が勝手に整理され始める。
蓮先輩が手を軽く叩いた。
「よし。調整試合だが、軽くやる気はない」
「軽くやる気ない調整って何」
斎がぼやく。
「“軽く”は、メンタルの話だ」
蓮先輩。
「やっぱり分かんない」
「分かるまでやる」
「こわ……」
桜先輩が手を挙げる。
「ねえ! 今日の私の役割は!?」
「いつも通りアタッカー」
「それだけ!? もっとこう……“今日のテーマ”みたいな!」
「テーマは“暴走しない”」
「えええ!?」
貝塚先輩がぼそっと足す。
「暴走すると、相手にカウンターを与える」
「分かってるもん!」
「分かってない」
「分かってる!」
言い合いながら、皆が自然にそれぞれの端末を起動していく。
この“騒がしさの中の準備”が、部室の時間だ。
湊が隣の席に座って、肘で僕をつつく。
「朔、今日どうだった?」
「……何が」
「陸上。遥の選考」
「見に行った」
「で?」
「速かった」
「それだけ?」
「……それだけ」
湊がにやにやする。
「朔、感想の語彙が小学生」
「うるさい」
斎が横から口を挟む。
「え、遥さんの選考見に行ったの? やば。青春じゃん」
「青春?」
「青春だろ」
「お前、そういうの言うキャラだった?」
「俺は常識人だから」
「常識人は“やば”って言わない」
「言う!」
桜先輩が椅子を回してこちらに寄ってくる。
「ねえねえ朔! 遥ちゃんって朔の幼馴染だよね? あの、全国優勝の?」
「……はい」
「絶対、朔のこと好きじゃん」
「違います」
「違わない!」
「違います」
「違うって言うところがもう“違わない”!」
蓮先輩が咳払い一つ。
「桜。話を戻す」
「はぁい……」
“はぁい”の素直さが、逆に怖い。
蓮先輩がモニターを指し示す。
「相手の傾向。初動で圧。視界外から刺す。崩したら一気に畳む」
「速攻型か」
湊。
「速攻型」
貝塚先輩。
「速攻型……嫌い」
斎。
「お前、嫌い多いな」
湊。
「だって怖いんだもん」
「可愛いこと言うな」
「可愛くない」
桜先輩がにやっと笑う。
「斎くん、可愛いよ」
「言うな!」
「可愛い〜」
「うるさい!」
「えへへへへ」
蓮先輩が僕を見た。
「布上。どう見る」
「……初動は引いて、相手の踏み込みを空振らせるのがいい」
言った瞬間、部屋の空気が少しだけ変わる。
桜先輩の顔が一段真剣になり、湊の笑いが少し薄くなる。
僕は自分の声が落ち着きすぎているのを自覚した。
日常の僕の声じゃない。
蓮先輩が頷く。
「理由」
「相手、前に出る時に“癖”が出る。そこを受けると崩れる」
貝塚先輩が短く言う。
「……妥当」
湊が肩をすくめる。
「朔がそう言うならそれで」
「いや、そこは理由で納得しろよ」
斎。
「理由? 信頼」
「重い」
「信頼は重い」
「重いって」
桜先輩が手を挙げる。
「じゃあ私、暴れ……」
「暴れるな」
全員ほぼ同時。
「ひどい!!」
笑いが起きる。
でもそれは、緊張をほどくための笑いだ。崩れる笑いじゃない。
蓮先輩が言う。
「作戦はシンプル。最初は受ける。相手が焦れて踏み込んだら反転」
「了解」
湊。
「了解」
僕。
「りょーかいっ」
桜先輩。
「了解」
貝塚先輩。
「……了解」
斎。
ここで蓮先輩が一つ、穏やかに釘を刺す。
「桜。今日の目標は“暴れる前に合わせる”だ」
「合わせてから暴れる!」
「そう」
「よーし!」
桜先輩は単純で助かる。
全員が席に着く。
ヘッドセットを手に取る。
僕がそれを耳に当てた瞬間、世界が一枚、切り替わる。
廊下の声が消える。
桜先輩の“うるさい”の成分が薄くなる。
視界の情報がくっきりする。
そして、胸のざわつきが、静かに形を変える。
――スイッチが入る。
湊が小声で言った。
「朔、入ったな」
「……」
「今、別人」
「喋るな」
「はいはい」
試合のカウントダウンが始まる。
ゼロ。
⸻
試合開始
「来る」
僕の声が落ちる。
湊が即答する。
「了解。前出ない」
「桜先輩、左広げて。焦らない」
「りょーかい」
返事の音量が下がっている。桜先輩は“集中の時”は静かだ。
「斎、裏の視界置く。温存」
「了解……温存嫌い」
「嫌いでもやる」
「はい」
「蓮先輩、前線“浅く”」
「分かった」
相手が突っ込む。
速い。圧がある。
でも、その速さは“約束された速さ”だ。想定内。
「引く。三秒」
「二」
「一」
全員の動きが揃う。
揃うのが気持ち悪いくらい揃う。
これが“強い”ということだ。
「反転」
湊が出る。
桜先輩が合わせる。
蓮先輩が線を押し上げる。
貝塚先輩がぼそっと言う。
「……相手、主要スキル切れ」
その一言で、盤面が“勝ち”に傾く。
「押す。欲張らない。取れる分だけ」
「了解」
「了解」
桜先輩が小声で言う。
「欲張らないって、むずい」
「むずいなら、今は我慢」
「……はい」
我慢してる桜先輩は偉い。
それを口に出す余裕はないけど、湊が代わりに言った。
「桜先輩、今の我慢えらい」
「え、褒めた!?」
「褒めた」
「朔も!」
「……えらいです」
「やったぁ」
褒めで伸びるタイプは扱いやすい。
相手が一旦引く。
ここで焦ると、事故る。
「一回落ち着く。視界取る」
「了解」
中盤。
相手が対策を変えてくる。
視界外から刺す動き。
囮。
誘い。
「……釣り」
貝塚先輩。
「釣りだね」
斎。
桜先輩が我慢できずに言う。
「釣られたい」
「釣られるな」
蓮先輩。
「釣られたいって何」
湊。
「恋?」
桜先輩。
「違う」
「えー」
軽口。
でも指は止まらない。盤面は崩れない。
「釣り無視。相手、裏薄い」
「じゃ、逆にいく?」
湊。
「いく。斎、裏から一回だけ圧」
「了解。……一回だけな」
「桜先輩、派手に見せて。蓮先輩、守るフリ」
「分かった」
「派手に見せる〜」
相手の視線が桜先輩に集まる。
その瞬間――
「今」
斎が刺す。
湊が合わせる。
貝塚先輩。
「……取った」
相手が崩れる。
「うわ、今の気持ちいい!」
斎。
「気持ちいいって言うな」
僕。
「言っちゃダメ?」
「ダメじゃない。……集中」
「はい」
湊が笑う。
「朔、いまの冷たさ、好き」
「言うな」
「はいはい」
終盤。
ここが一番事故る。
「集中。終盤は油断しない」
「了解」
湊。
「了解」
蓮先輩。
「……了解」
斎。
「了解っ」
桜先輩。
相手が最後の突入を仕掛ける。
切り札を切る。
「来る。受けて返す」
「蓮先輩、耐える。湊、焦らない。桜先輩、欲張らない。斎、守る」
全員が即座に動く。
相手の切り札が空振る。
「終わらせる」
声が落ちる。
その一言で、湊の呼吸が変わるのが分かる。
「湊、今」
「了解!」
突っ込む。叩く。押し切る。
決着。
勝利。
⸻
勝利
「っしゃああああ!!」
桜先輩が椅子から飛び上がる。
「勝った! 勝った! 見た!? 見た!?」
「見てた見てた」
湊が笑う。
「私、偉い!?」
「偉い」
蓮先輩が即答する。
「えっ!? 条鋼くんが褒めた!?」
「事実を言っただけだ」
「それが褒めだよ!!」
斎が机に突っ伏す。
「胃が……胃が……」
「お前、勝って胃が痛いって何」
湊。
「勝つと緊張が解けて反動が来るタイプ」
「弱い」
「繊細って言ってくれ」
貝塚先輩が淡々と画面を見ながら言う。
「……最後、綺麗」
「綺麗って何」
桜先輩。
「動きが揃ってた」
「揃ってた!? 私も!?」
「揃ってた」
「やったぁ!」
湊が僕の背中を軽く叩いた。
「ナイスコール」
「……たまたま」
「出た。たまたま禁止」
「癖なんだよ」
「癖やめろ」
桜先輩が僕の顔を覗き込む。
「朔、試合中ほんと別人!」
「別人じゃない」
「別人! だって目が怖い!」
「怖いは失礼」
「褒めてる!」
「褒め方が下手」
湊。
「湊、黙れ」
「はいはい」
蓮先輩が穏やかに言う。
「布上。助かってる」
「……ありがとうございます」
「否定するな」
「……はい」
その“はい”が、喉に残る。
褒められると、落ち着かない。
落ち着かないのに、嫌じゃない。
嫌じゃないから、余計に落ち着かない。
⸻
反省会
「よし、反省」
蓮先輩。
「えー!?」
桜先輩。
「勝っても反省はする」
「条鋼くん、真面目すぎる! 好き!」
「話を聞け」
蓮先輩は穏やかに、でも確実に場を締める。
「最初の受け、良かった。布上の“引く三秒”が効いた」
「はい」
「桜、最初に我慢できた。偉い」
「やった!」
「でも二回目、欲張りかけた」
「うっ……」
「そこは次の課題だ」
貝塚先輩が淡々と刺す。
「欲張ると、相手のカウンターが刺さる」
「刺すって言うなよぉ……」
桜先輩。
「事実」
「事実って言うなよぉ……」
斎が手を挙げる。
「俺、裏の視界置くのちょい遅れた」
「遅れた」
僕。
「……はい」
「次は二歩早く」
「二歩って具体的すぎ」
湊。
「具体的にしないと直らない」
「怖い」
「褒めてる」
「褒めてない」
湊が笑いながらも真剣に頷く。
「でも助かる。朔の指示、具体的だから」
「助かる」
蓮先輩。
「勝てる形を言語化できるのは強い」
言葉が重い。
受け皿がない。
でも、ここでは受け取る。
「……ありがとうございます」
貝塚先輩がぽつり。
「布上の判断は、今日も最適」
「……」
「受け取れ」
湊が笑う。
「樹先輩、それ“褒め”っすよ」
「事実」
「事実って便利だな」
「便利」
桜先輩が頬を膨らませる。
「私も最適って言って!」
「最適は言いすぎ」
斎。
「言いすぎ!?」
「でも偉い」
蓮先輩。
「えへへ……」
褒められて元気になる桜先輩が、部室の“空気”を守ってる。
蓮先輩が保護者で、桜先輩がムードメーカー。
樹先輩が観測者で、斎が読者の代弁で、湊がツッコミで、僕が司令塔。
その配置が自然に回っている。
⸻
顧問
ノックもなくドアが開いた。
「勝った?」
神々知世先生。茶髪ロング。
片手に缶コーヒー、もう片手に紙束。匂いはほんのり煙い。
「知世姉ぇ!!」
桜先輩が即叫ぶ。
「うるさい」
「勝った!!」
「聞いてないけど、よかったね」
知世先生は紙束を机に置いて、蓮先輩を見る。
「条鋼、今日もちゃんとやってた?」
「はい。調整です」
「調整って言いながら全力でしょ」
「……はい」
「素直かよ」
知世先生は僕を見る。
「布上、喉」
「……はい」
「声出しすぎ。水飲め」
「……はい」
「返事だけは優等生」
桜先輩が割り込む。
「知世姉、褒めて!」
「うるさい」
「褒めて!」
「勝ったなら偉い」
「やったぁ!!」
褒めの最短距離。
知世先生が続ける。
「で、新入生勧誘どうすんの?」
「やります! 私が!」
桜先輩。
「お前は暴走する」
蓮先輩。
「暴走しません! 多分!」
「多分がもう暴走」
斎。
「ひどい!」
知世先生は笑う。
「ルール守ってればOK。廊下塞ぐなよ。ポスター貼る場所も守れ」
「了解です」
蓮先輩。
「あと、書類増えるから」
「増えるんですか」
貝塚先輩。
「増える」
「機嫌で増えるんですね」
「増える」
理不尽が堂々としてるのが、この先生だ。
⸻
視線と紙切れ
片付けに入る。
僕は機材をまとめる板を持ち上げた。
その瞬間、ガラスに影が映った気がした。
“見られてる”。
ドアを開ける。
廊下には誰もいない。
遠くで勧誘の声が響いているだけ。
足元に、小さな紙切れ。
拾う。
『全国大会、見てました』
丁寧な字。癖がない。
心臓が、どくん、と鳴る。
一年の時の全国高校大会。
あの試合。
誰かが見ていた。
僕の判断を。
「朔?」
湊が覗き込む。
「……なんでもない」
「なんでもない紙じゃないだろ」
「……分かんない」
知世先生が肩をすくめた。
「分かんないなら分かんないでいい。今は帰れ」
「……はい」
蓮先輩が静かに言う。
「布上。一人で抱えるな」
「……はい」
その言葉が、胸に残る。
⸻
帰り(スイッチが戻っていく)
駅のホーム。
白線。
朝と同じ景色。
遥が来て、僕を見るなり言う。
「白線、近い」
「……分かってる」
「分かってない顔」
「顔で判断しないで」
「する」
遥は僕の袖を掴む。
「はぐれると面倒だから」
「……うん」
湊が横で笑う。
「今日も掴まれてる」
「掴んでない」
「掴んでる」
「掴んでない」
「掴んでる」
「……黙れ湊」
遥が少し赤くなって、でも離さない。
車内。揺れ。距離。
遥の背中。袖の感触。
さっきまでの“別人”が、少しずつ引っ込んでいく。
湊がスマホを見て言う。
「翠、やっぱ無理だったって。撮影延びた」
「そっか」
「でも『勝ったなら最高!』って。あと『朔くん、ご飯ちゃんと食べてる?』って」
「……なんで僕にそれ」
「知らん。翠は刺してくる」
「刺すって何」
「優しく刺す」
遥がぼそっと言う。
「……翠、余計なこと言うな」
「遥、それ嫉妬?」
湊。
「違う」
「即答」
「違う」
即答が可愛いの、ずるい。
僕はポケットの中の紙切れを指で押した。
存在を確かめるように。
――誰かに必要とされる理由を、僕はまだ知らない。
でも。
この日常が、静かに終わらないことだけは分かった。
紙切れの一行が、
未来の入口みたいに胸の奥で光っている。
(第一話・了)




