週末だけは、泣いてもいいですか?
第一部】「完璧な女」の鎧が錆びつく夜
その言葉は、まるで何かの業務連絡のように淡々と告げられた。 「沙織なら、一人でも大丈夫だろ」 金曜日の夜、丸の内のカフェテラス。冷めきったアールグレイの表面に、街灯の光が油膜のように浮いている。 目の前に座る男――五年付き合い、来年には結婚するだろうと信じて疑わなかった恋人の修二は、私の目を見ずにそう言った。
「大丈夫って、なに」 喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど冷静だった。 「言葉通りの意味だよ。君は強いし、仕事も順調だし、俺がいなくても生きていける。……正直、君といると息が詰まるんだ。もっと、俺を必要としてくれる人と一緒になりたい」
ああ、まただ。 沙織はテーブルの下で、スカートの生地をきつく握りしめた。 『しっかりしてるね』『強いね』『一人で生きていけそう』。それは二十九年の人生で、褒め言葉として、あるいは呪いとして、幾度となく浴びせられてきた言葉だ。 私は強くなんてない。ただ、弱音を吐くのが下手なだけだ。泣き落としや甘え方が分からないだけだ。 でも、修二が求めていたのは、私が積み上げてきたキャリアや自立心ではなく、ただ「守ってあげたくなる弱さ」だったらしい。
「……分かった」 これ以上縋るのは、私のプライドが許さなかった。 「五年間、ありがとう」 完璧な笑顔を作れたと思う。 席を立った背中に、修二が何か声をかけた気がしたが、振り返らなかった。ハイヒールの音を高く響かせて、私は夜の街へ歩き出した。
二十九歳、秋。 結婚適齢期という名の椅子取りゲームから、私は強制退場させられた。
***
週が明けても、世界は残酷なほど変わらずに回っていた。 月曜日のオフィス。企画部のフロアは朝から殺気立っている。 「藤堂さん、来期の商品プラン、部長が修正しろって」 「藤堂先輩、新人の教育係の件なんですけど……」 「藤堂、例のプレゼン資料、今日中に頼むな」
次々と飛んでくるタスクを、沙織はテキパキと捌いていく。 眉一つ動かさず、的確な指示を出し、トラブルを未然に防ぐ。それが「チームリーダー・藤堂沙織」の役割だ。 トイレの鏡の前で、昼休みに化粧を直す。 目元のクマをコンシーラーで丁寧に隠す。 「……大丈夫」 鏡の中の自分に言い聞かせる。 会社に来れば、私はプロだ。失恋した惨めな女じゃない。部下たちが憧れる、強くて美しい先輩でいなければならない。 鎧は重い。でも、これを脱いだら、自分が崩れ落ちてしまいそうで怖かった。
金曜日が来るのが、これほど長く感じた週はなかった。 残業を終え、オフィスを出たのは午後十時過ぎ。心身ともに限界だった。 真っ直ぐ家に帰りたくない。冷え切った部屋で一人、修二との思い出に押し潰されたくない。
足が向いたのは、会社の最寄り駅から二つ離れた駅にある、路地裏の小さなビストロだった。 『Bistro Fil』。 カウンター六席とテーブル二つだけの小さな店。 重厚な木のドアを開けると、カウベルが乾いた音を立てた。 「いらっしゃいませ」 カウンターの中から、落ち着いたバリトンの声が迎えてくれる。 瀬戸 陸。この店のオーナーシェフだ。 まだ二十五歳と若いが、フランスで修行したという料理の腕は確かで、何よりこの店には、過剰な接客がないのが心地よかった。
「こんばんは、陸くん」 「あ、藤堂さん。お疲れ様です」 陸は仕込みの手を止め、人懐っこい、けれど礼儀正しい笑みを浮かべた。白いコックコートが、細身だが引き締まった体に似合っている。前髪を少し長く残した黒髪の奥にある瞳は、いつも静かな湖のように澄んでいた。
沙織はいつものカウンターの端の席に座り、深く息を吐いた。 「……白ワイン、グラスで。あと、何か温かいもの」 「了解です。顔色、悪いですね」 陸はグラスを拭きながら、さらりと言った。 ドキリとする。会社では誰にも言われなかったのに。化粧で完璧に隠したはずなのに。 「……そう? ちょっと疲れてるだけ」 「無理しないでくださいよ。……今日は、ポトフがあります。野菜、くたくたになるまで煮込んだんで、噛まなくても食べられますよ」 「ふふ、なにそれ。おばあちゃん扱い?」 「胃が疲れてる人への特別メニューです」
出された白ワインを一口飲む。冷たくてフルーティーな液体が、乾いた喉を潤していく。 続いて出てきたポトフは、厚手の白い器に入っていた。 大きめに切ったキャベツ、人参、玉ねぎ、そして自家製のソーセージ。湯気と共にハーブの香りが立ち上る。 スプーンでスープをすくう。 優しいコンソメの味が、身体の芯まで染み渡った。 「……おいしい」 思わず声が漏れる。 「よかった」 陸は満足そうに微笑み、また手元の作業に戻った。 この距離感が好きだった。踏み込んでこない、でも、見守ってくれている気配。
時刻は十一時半を回っていた。他の客は帰り、店内には沙織と陸だけになった。 BGMのジャズが静かに流れている。 ワインが三杯目になり、酔いが回ってきたせいだろうか。それとも、一週間の緊張の糸が切れたせいだろうか。 沙織の口から、ふいに言葉がこぼれ落ちた。 「……私ね、振られちゃった」 陸の手が止まる。 「五年付き合った人に。『一人でも生きていける』って」 一度口に出すと、止まらなかった。 「仕事頑張って、自立して、彼に負担かけないようにって必死だったのに。それが全部、間違いだったみたい。可愛げがないんだって。守りがいがないんだって」 視界が歪む。 カウンターの木の木目が、涙で滲んでいく。 会社では一滴も流さなかった涙が、ここでは堰を切ったように溢れ出した。 「私だって……寂しいのに。誰かに頼りたいのに……」
沙織は両手で顔を覆った。嗚咽が漏れる。 みっともない。二十九歳にもなって、行きつけの店の、しかも四つも年下の男の子の前で泣くなんて。 でも、止められなかった。 陸は何も言わなかった。 ただ、カウンター越しにそっと箱ティッシュを差し出し、新しい水を置いてくれた。 そして、厨房から出てきて、沙織の隣の席に座った。
「……藤堂さん」 低い声が、すぐ耳元でした。 「その彼氏は、見る目がないですね」 「え……」 「一人で立ってる人が、どれだけ踏ん張ってるか。どれだけ足元が震えてるか。それが見えない男なんて、こっちから願い下げでしょ」 顔を上げると、陸が真剣な眼差しでこちらを見ていた。 その瞳には、憐れみではなく、強い意志が宿っていた。 陸の手が伸びてきて、沙織の濡れた頬を親指で拭う。 熱い指先。 心臓が跳ねた。 「俺は、藤堂さんのそういう弱いところ、嫌いじゃないですよ」 「陸くん……?」 「むしろ、もっと見せてほしいと思う」
その言葉は、理性のブレーキを壊すには十分だった。 五年間否定された「強さ」の裏側にある「弱さ」を、彼だけが肯定してくれた。 沙織は縋るように、陸のシャツの袖を掴んだ。 陸は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい表情になり、沙織の手を包み込んだ。
「……今日、雨降ってますね」 陸が入口の方を見る。いつの間にか、外は激しい雨音に包まれていた。 「傘、持ってないですよね」 「……うん」 「俺の家、すぐこの上なんですけど。……雨宿り、していきますか?」
それは、ただの雨宿りではないことを、二人とも分かっていた。 二十九歳の理性が「やめなさい」と警告する。彼は四つも年下の、ただの店員さんだ。一時の感情で動いていい相手じゃない。 けれど、今の沙織には、冷たいワンルームに一人で帰る勇気がなかった。 誰かの体温に触れて、自分がまだ女として価値があるのだと、確かめたかった。
「……うん。行きたい」
沙織が答えると、陸は少し困ったように、でも嬉しそうに笑った。 「週末だから、特別ですよ」
店の明かりが消える。 暗闇の中で重なった手は、火傷しそうなくらい熱かった。 こうして、私の「完璧な女」の鎧は、秋の雨と共に静かに錆びつき、脱ぎ捨てられたのだった。
第2部】金曜日の逃避行
翌朝、目が覚めると、知らない天井があった。 無骨なコンクリート打ちっ放しの壁。男物のシェービングクリームと、焦がしバターの甘い香り。 一瞬、自分がどこにいるのか分からなくてパニックになったが、腰に回された腕の重みで全てを思い出した。 隣で陸が、子供のように無防備な顔で眠っている。長い睫毛が朝日に透けていた。
「……やっちゃった」 沙織は音にならない声で呻き、顔を覆った。 昨夜の記憶は鮮明だ。泣きじゃくる私を、彼は一晩中、壊れ物を扱うように抱いてくれた。優しくて、丁寧で、元彼の修二とは違う、若々しい熱量があった。 どうしよう。気まずい。なんて言って帰ればいい? 沙織が身じろぎすると、陸が目を覚ました。 「……ん、おはよ」 寝ぼけた声。でも、私を認めた瞬間、ふにゃりと笑った。 「よく眠れました?」 その屈託のない笑顔に、罪悪感よりも先に「愛おしい」という感情が湧いてしまったことに、沙織は動揺した。
朝食は、一晩アパレイユに漬け込んだという「パン・ペルデュ(フレンチトースト)」だった。 外はカリッと、中はプリンのようにトロトロ。蜂蜜とシナモンの香りが、二日酔いの頭を優しく解きほぐす。 「おいしい……」 「でしょ? 藤堂さん、昨日泣きすぎて顔がむくんでたから。甘いものがいいかなって」 「……余計なこと言わなくていいの」 コーヒーを啜りながら、沙織は意を決して切り出した。 「昨日は、その……ごめんね。酔っ払って、押しかけて」 「謝らないでくださいよ」 陸は真剣な顔で遮った。 「俺が誘ったんです。……それに、俺はずっと、藤堂さんのこと綺麗だなって思ってたんで」 ストレートな言葉に、三十路手前の心臓が跳ねる。 「……また、来てもいいですか?」 聞いてしまった。これが「沼」の入り口だと分かっていたのに。 陸は少し驚いた顔をして、すぐに嬉しそうに頷いた。 「いつでも。金曜の夜は、店が終わったらここで待ってますから」
***
それから、沙織の「秘密の週末」が始まった。 平日の五日間は、今まで以上に完璧な「チームリーダー・藤堂沙織」を演じた。 元彼との破局も周囲には隠し通し、仕事に没頭した。けれど、以前のような張り詰めた悲壮感はない。 なぜなら、金曜日の夜になれば、あの場所へ帰れるからだ。
金曜の二十三時。 ビストロ『Fil』の閉店作業が終わる頃、沙織は裏口から二階への階段を上る。 陸の部屋は、生活感があまりない。あるのは大量の料理本と、少しの服、そして沙織のために用意されたふかふかのタオルケットだけ。 「お疲れ様。今週も戦いましたね」 陸はいつも、温かいスープや、試作品のテリーヌを用意して待っていてくれる。 二人で安いワインを飲み、映画を観たり、ただ抱き合って眠ったりする。 ここには、結婚へのプレッシャーも、仕事の責任も、年齢の焦りもない。あるのは、陸の体温と、甘やかな充足感だけ。 陸は決して「付き合おう」とは言わなかった。 沙織も「私たちはどういう関係?」とは聞かなかった。 名前をつけてしまえば、この心地よいぬるま湯のような関係に、責任や義務が生じてしまう気がしたからだ。
ある雨の降る土曜日。 昼過ぎまでベッドで微睡んでいると、陸が唐突に言った。 「沙織さん」 いつの間にか、呼び方は「藤堂さん」から「沙織さん」に変わっていた。 「ん……?」 「俺、いつかフランスの田舎みたいなオーベルジュ(宿泊施設付きレストラン)をやるのが夢なんです。自分たちで野菜育てて、その日採れたものだけでコースを作るような」 陸は天井を見上げながら、少年のように目を輝かせて語る。 「いいわね、それ。陸くんの料理なら、絶対人気出るよ」 「十年後かな。もっと金貯めて、修行もし直して……」
――十年後。 その言葉が、鋭い棘のように沙織の胸に刺さった。 十年後、陸は三十五歳。脂が乗って、男として一番魅力的な時期だろう。 その時、私は? もう四十歳になる。 彼の輝かしい未来予想図の中に、四つ年上の、疲れたキャリアウーマンの居場所はあるのだろうか。 今はいい。今は、彼の「若さ」と「夢」の近くにいさせてもらえるだけで幸せだ。でも、時間は残酷だ。 彼の隣に似合うのは、もっと若くて、夢を共有できるキラキラした女の子なんじゃないか。
ふいに不安に襲われ、沙織は陸の背中にしがみついた。 「……どうしたの?」 「ううん。ちょっと、寒かっただけ」 嘘をついた。 陸は何も聞かず、ただ大きな手で沙織の手を握り返してくれた。その温かさが、今は逆に切なかった。 私は彼を搾取しているだけなのかもしれない。「癒やし」という名目で、彼の若い時間を奪っているだけなのかもしれない。
***
日曜日の夕方。 現実に戻る時間がやってくる。 「じゃあ、また来週」 陸は玄関まで見送ってくれる。キスは軽いものだ。それが余計に「恋人ごっこ」の終わりを強調する。 「うん、また」 笑顔で手を振り、階段を降りる。 一歩、また一歩と降りるたびに、魔法が解けていく。 ハイヒールのアスファルトを叩く音が、現実に引き戻すカウントダウンのように響く。
帰り道、ショーウィンドウに映った自分の顔を見た。 金曜の夜より、肌ツヤはいい。愛された余韻が残っている。 けれど、その瞳の奥には、隠しきれない怯えがあった。
――いつまで、こんなことを続けるの? ――この関係に、先なんてないこと、分かってるでしょ?
街中を歩く親子連れや、仲睦まじい夫婦の姿が目に入る。 かつて自分が目指していた「普通の幸せ」。 陸との時間は最高に幸せだ。でも、それは「週末限定」の、現実逃避の先にある幸せでしかない。 月曜日が来れば、また一人。 来週、三十歳の誕生日が来る。 その日を、陸は知っているのだろうか。知っていたとして、祝ってくれるのだろうか。それとも、彼にとって私は、ただの「週末の客」なのだろうか。
沙織は、逃げるように地下鉄の階段を降りた。 スマホのカレンダーには、来週の金曜日にだけ『Fil』と記されている。それ以外の白い空白が、どうしようもなく怖かった。
第3部】選択のフォークロア
三十歳の誕生日は、冷たい雨の降る水曜日だった。 日付が変わった瞬間、スマホが震えた。 一番乗りは、実家の母だった。 『お誕生日おめでとう。三十代も素敵にね。……ところで、先日話したお見合いの写真、送ります。相手は35歳の商社マン。どうしても一度会ってほしいそうです』 添付された写真には、誠実そうな、いかにも「優良物件」な男性が写っていた。 二番目は、保険会社の担当者からの自動送信メール。 三番目は、脱毛サロンのクーポン。 ……陸からの連絡は、なかった。 当然だ。私たちは連絡先を交換していない。「金曜の夜に店で会う」以外の接点を持たないようにしてきたからだ。それが「名前のない関係」のルールであり、マナーだった。 けれど、心のどこかで期待していた自分が、惨めで仕方なかった。
その日の夜、思いがけない人物から連絡が来た。 元彼の修二だ。 『誕生日おめでとう。どうしても話したいことがある。今から会えないか』 指定されたのは、かつてよくデートで行ったホテルのラウンジだった。
***
「……悪かった。俺が間違っていた」 修二は、以前より少しやつれて見えた。 コーヒーカップを見つめながら、彼はぽつりぽつりと語り始めた。新しい彼女とはすぐに別れたこと。沙織の居心地の良さ、賢さ、そして自分を支えてくれていたことの大きさに気づいたこと。 「勝手なのは分かってる。でも、沙織以上の女性はいなかった」 彼はポケットから小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。 「やり直そう。来年の春にでも、結婚式を挙げよう」 それは、三ヶ月前の私が喉から手が出るほど欲しかった言葉だった。 三十歳でのプロポーズ。安定した生活。親も喜ぶ相手。世間体も完璧な「逆転勝利」。 頭の中の電卓が、パチパチと音を立てて計算を弾き出す。これが正解だ。これを逃せば、もう二度とこんなチャンスは来ないかもしれない。 でも。 沙織の心は、驚くほど冷え切っていた。 目の前の彼は「私」を見ているようで、実は「自分の失敗を埋め合わせるパーツ」として私を見ている気がした。 脳裏に浮かぶのは、狭いワンルームで、安いワインを片手に「美味い」と笑う陸の顔だった。 「……少し、考えさせて」 箱を受け取らず、沙織は席を立った。
***
金曜日。 沙織は逃げ込むように『Fil』の階段を上った。 ドアを開けると、いつものように陸がいた。 「お疲れ様です、沙織さん」 陸の笑顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張が解けて、泣き出しそうになった。 テーブルには、小さなホールケーキが置かれていた。歪な形の手作りケーキ。プレートにはチョコペンで『Happy Birthday』と書かれている。 「え……」 「三十歳、おめでとうございます。……驚かせたくて、黙ってました」 陸が照れくさそうに鼻をこする。 「これ、俺が初めて焼いたケーキなんです。店じゃ出せないレベルですけど」 連絡がなかったのは、忘れていたからじゃなかった。 胸が詰まる。嬉しい。死ぬほど嬉しい。でも、その優しさが今は鋭い刃物のように痛かった。
ケーキを食べ、ワインを開けた後、沙織は沈黙に耐えきれず、口を開いた。 「……陸くん。私ね、プロポーズされたの」 陸がグラスを持つ手を止めた。 「元彼から。やり直して、結婚しようって」 部屋の空気が、急速に凍りついていく。 陸は静かにグラスを置いた。その表情から感情が抜け落ち、読めなくなる。 「……さらにね、親からはお見合いの話も来てる。相手は商社マンで、条件も完璧な人」 言えば言うほど、自分がひどい女に思えた。陸を試しているようだ。「行かないで」と言ってほしいのか、「幸せになれ」と言ってほしいのか、自分でも分からない。
「……で、沙織さんはどうしたいんですか?」 陸の声は低く、落ち着いていた。 「分からない。……分からないから、ここに来たの」 沙織は陸の手を握ろうとした。 けれど、陸はその手をそっと避けた。 その拒絶の動作が、沙織の心臓を抉った。
「そっちに行くべきですよ」 陸は淡々と言った。 「元彼とヨリを戻すか、そのお見合い相手と結婚するか。どっちにしろ、俺じゃない」 「どうして……っ、私は陸くんと一緒にいたいの!」 「俺じゃ、沙織さんを幸せにできない」 陸が初めて、声を荒げた。 彼は立ち上がり、窓の外の雨を睨みつけるように背を向けた。 「俺はまだ二十五だ。店も軌道に乗ってない。夢だったオーベルジュなんて、いつになるか分からない。……沙織さんは三十だろ? 子供だって欲しいだろうし、親だって安心させたいはずだ」 「そんなの、私が決めることよ!」 「いや、俺が決められないんだ」 陸が振り返る。その顔は、泣いているように歪んでいた。 「沙織さんの時間を、これ以上俺が奪っちゃいけない。十年待たせて、結局ダメでしたなんて、そんな無責任なこと俺にはできない」
正論だった。 あまりにも残酷で、あまりにも愛に満ちた正論。 彼は私のことを、私以上に真剣に考えてくれていた。だからこそ、突き放すのだ。 「好きだ」と言って抱きしめるよりも、「幸せになれ」と言って手を離す方が、ずっと辛くて、ずっと深い愛情が必要だと知った。
「……このケーキ食べたら、帰ってください」 陸は再び背を向けた。 「もう、ここには来ないでください。俺も、次のステップに進まなきゃいけないんで」
嘘だ。 背中が震えている。 でも、沙織にはその背中に抱きつく資格がなかった。 私が求めていた「週末だけの癒やし」は、彼の未来への覚悟を踏みにじる甘えだったのだ。
沙織は、味がしないケーキを無理やり飲み込んだ。 甘いはずのクリームが、涙の味で塩辛かった。 「……ありがとう。陸くんの夢、応援してる」 最後にそう告げて、沙織は部屋を出た。 鉄の扉が閉まる重い音。それが、二人の季節の終わりを告げる号砲のようだった。
外はまだ雨が降っていた。 傘はない。 ずぶ濡れになりながら駅へ向かう途中、沙織はスマホを取り出した。 修二の連絡先を表示する。発信ボタンを押せば、温かくて安全な場所へ戻れる。 指が震える。 雨に打たれる冷たさよりも、心に空いた穴の寒さが、沙織の体をガタガタと震わせていた。
【第4部】雨上がりの朝食
雨は、夜の帳を重く濡らしていた。 駅のホームのベンチに座り、沙織はスマートフォンの画面を見つめていた。 画面には『修二』の文字。 発信ボタンを一度押せば、すべてが丸く収まる。 来春には花嫁になり、親を安心させ、友人たちに祝福され、この孤独な寒さから永遠に守られる。それは、誰もが羨む「正解」の道だ。 ――俺じゃ、沙織さんを幸せにできない。
陸の言葉が、冷たい雨音のようにリフレインする。 彼は正しかった。二十五歳の彼に、三十歳の私の人生を背負わせるのは酷だ。彼の夢を、私の「結婚したい」というエゴで潰してはいけない。 だから、これは正しい選択なのだ。 頭では分かっていた。 けれど、修二への電話をかけようとする指が、どうしても動かない。 「……違う」 沙織は、画面の光が滲むのを感じた。 修二といた時の私は、いつも「いい彼女」を演じていた。嫌われないように、重くならないように、完璧な笑顔を張り付けて。 でも、陸の前での私はどうだった? ボロボロに泣いて、仕事の愚痴をこぼして、すっぴんで笑って、美味しいものを食べて。 あんなに無防備で、あんなに人間らしい時間を、私は他に知らない。
幸せとは、誰かに与えられる「安定」のことだろうか。 それとも、たとえ不安定でも、隣にいるだけで心が震えるような「温度」のことだろうか。
沙織は深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たす。 もし、私が三十歳だからといって、自分の心を殺して「安全な檻」に入ろうとしているなら、それは自分自身への裏切りだ。 未来の保証なんて、誰と一緒でもありはしない。修二と結婚しても、また振られるかもしれない。会社が倒産するかもしれない。 確かなものは、今、この胸にある痛みだけだ。これほどまでに胸が痛むのは、それほどまでに彼を愛してしまった証拠だ。
沙織は指を動かした。 発信ボタンではない。 アドレス帳の編集画面。『修二』の連絡先を削除する。 確認のポップアップなど見ずに、消去した。 ついでに、母から送られてきたお見合い写真のデータもゴミ箱へ入れた。
「……私の人生は、私が決める」
沙織は立ち上がった。 ハイヒールを脱ぎ捨てたい衝動に駆られながら、それでも強く地面を踏みしめ、改札を出た。 向かう先は、安全な自宅ではない。 さっき追い出されたばかりの、あの場所だ。
***
ビストロ『Fil』の裏口。 階段を駆け上がり、鉄の扉を叩く。 ドンドン、と乱暴な音が響く。 応答はない。 「陸くん! 開けて!」 叫ぶ声が雨音にかき消されそうになる。 「開けてよ、瀬戸 陸!」 しばらくして、ガチャリと鍵が開く音がした。 ドアが少しだけ開き、隙間から陸の顔が覗いた。目は赤く、髪はぐしゃぐしゃだった。 「……帰れって、言ったじゃないですか」 声が掠れている。 「帰らない。あなたが話を聞くまで、ここを動かない」 沙織がドアを強引に押し開けると、陸は驚いて後ずさった。 ずぶ濡れの服、乱れた髪、マスカラが落ちて黒くなった目元。 かつての「完璧な美人」の面影はない。けれど、その瞳だけが、鬼気迫る光を放っていた。
「……なんで戻ってきたんですか。あっちに行けば、幸せになれるのに」 陸が苦しそうに顔を歪める。 「俺には金もないし、時間もないし、自信もない。沙織さんを待たせることしかできない。それが惨めで、申し訳なくて……だから」 「勝手に決めないでよ!」 沙織の叫びが、狭い部屋に響き渡った。 陸が息を呑む。 「私がいつ、『養ってほしい』なんて言った? いつ、『結婚して仕事を辞めたい』なんて言った?」 沙織は一歩踏み出した。 「私を舐めないで。私は二十九年間、必死に働いて、キャリアを積んで、一人で生きていける力をつけてきたの。あなたの夢くらい、私だって一緒に背負えるわよ!」 「え……」 「十年後にオーベルジュ? いいじゃない。それまで私が稼ぐから、あなたは最高の腕を磨いて。店を出す時は私も手伝う。二人でやったほうが早いでしょ?」 陸は呆気にとられたように口を開けている。 沙織は、涙を拭いもせずに続けた。 「年齢とか、常識とか、そんなものどうでもいい。私が欲しいのは、『結婚』という肩書きじゃない。……陸、あなたなの」
名前を呼び捨てにした。 四歳の年齢差も、店員と客という垣根も、今この瞬間に飛び越えた。
「私は、あなたのご飯を食べて、あなたと笑って生きていきたい。たとえ泥沼でも、あなたと一緒なら泳ぎ切ってみせる。……だから、私の幸せを、あなたが勝手に諦めないで」
一気にまくし立てると、酸欠で眩暈がした。 部屋に沈黙が落ちる。 陸は立ち尽くしていたが、やがてその肩が震え始めた。 彼は両手で顔を覆い、子供のように泣き出した。 「……かっこよすぎだろ、それ」 震える声が漏れる。 「俺、ほんとに……怖かったんです。沙織さんが、俺のせいで後悔するのが怖くて……でも、本当は離したくなくて……」 陸が崩れ落ちるように膝をつく。 沙織もその場にしゃがみこみ、彼の体を抱きしめた。 濡れた服が冷たいはずなのに、互いの体温がマグマのように熱かった。 「バカね。後悔なんてさせないわよ。私が選んだ男なんだから」 沙織が囁くと、陸は彼女の腰に腕を回し、顔を埋めた。 「……好きです。沙織さん、愛してます」 「うん。私も」
窓の外の雨音は、いつしか優しいリズムに変わっていた。 二人は泥のように眠った。 不安も、見栄も、世間体も、すべて雨に流して。
***
翌朝。 カーテンの隙間から差し込む眩しい光で、沙織は目を覚ました。 雨は上がっていた。 空は洗われたように青く澄み渡り、街路樹の雫が宝石のように輝いている。 キッチンから、トントンという小気味よい包丁の音と、香ばしい匂いが漂ってくる。
沙織がベッドから起き上がると、陸が振り返った。 「おはよう、沙織」 そこには、昨夜の泣き顔はなく、憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔があった。呼び方も、自然と変わっていた。 「おはよう、陸」
テーブルには、色鮮やかな朝食が並んでいた。 冷蔵庫の残り物で作ったというオムレツ、焼き立てのトースト、そして温かい野菜スープ。 特別な食材は何もない。けれど、それはどんな高級ホテルの朝食よりも輝いて見えた。
「いただきます」 二人で手を合わせる。 スープを一口飲む。野菜の甘味が、体に優しく染み渡る。 美味しい。心から、美味しい。 沙織はスプーンを置くと、不意に涙がこぼれそうになった。悲しいからではない。あまりにも満たされているからだ。
「……どうかしました?」 陸が心配そうに覗き込む。 沙織は首を横に振り、最高の笑顔を見せた。 「ううん。ただ、幸せだなって」
三十歳。独身。彼氏は五つ下の料理人。将来の保証はどこにもない。 世間から見れば、「無謀な選択」かもしれない。 でも、ここにある温かさは本物だ。 「ねえ、陸」 「ん?」 「週末だけじゃなくて、これからも毎日、泣いてもいい?」 沙織がいたずらっぽく聞くと、陸はきょとんとして、それから吹き出した。 「どうぞ。その代わり、俺が毎日美味しいもの作って、笑顔にしますから」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。 窓を開けると、新しい季節の風が吹き込んできた。 名前のない関係は終わった。 ここから始まるのは、二人で紡ぐ、等身大の愛おしい日々だ。 雨上がりの空の下、二人の朝食は、いつまでも温かかった。




