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週末だけは、泣いてもいいですか?

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/12/06

第一部】「完璧な女」の鎧が錆びつく夜


 その言葉は、まるで何かの業務連絡のように淡々と告げられた。 「沙織なら、一人でも大丈夫だろ」  金曜日の夜、丸の内のカフェテラス。冷めきったアールグレイの表面に、街灯の光が油膜のように浮いている。  目の前に座る男――五年付き合い、来年には結婚するだろうと信じて疑わなかった恋人の修二は、私の目を見ずにそう言った。


「大丈夫って、なに」  喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど冷静だった。 「言葉通りの意味だよ。君は強いし、仕事も順調だし、俺がいなくても生きていける。……正直、君といると息が詰まるんだ。もっと、俺を必要としてくれる人と一緒になりたい」


 ああ、まただ。  沙織はテーブルの下で、スカートの生地をきつく握りしめた。  『しっかりしてるね』『強いね』『一人で生きていけそう』。それは二十九年の人生で、褒め言葉として、あるいは呪いとして、幾度となく浴びせられてきた言葉だ。  私は強くなんてない。ただ、弱音を吐くのが下手なだけだ。泣き落としや甘え方が分からないだけだ。  でも、修二が求めていたのは、私が積み上げてきたキャリアや自立心ではなく、ただ「守ってあげたくなる弱さ」だったらしい。


「……分かった」  これ以上縋るのは、私のプライドが許さなかった。 「五年間、ありがとう」  完璧な笑顔を作れたと思う。  席を立った背中に、修二が何か声をかけた気がしたが、振り返らなかった。ハイヒールの音を高く響かせて、私は夜の街へ歩き出した。


 二十九歳、秋。  結婚適齢期という名の椅子取りゲームから、私は強制退場させられた。


 ***


 週が明けても、世界は残酷なほど変わらずに回っていた。  月曜日のオフィス。企画部のフロアは朝から殺気立っている。 「藤堂さん、来期の商品プラン、部長が修正しろって」 「藤堂先輩、新人の教育係の件なんですけど……」 「藤堂、例のプレゼン資料、今日中に頼むな」


 次々と飛んでくるタスクを、沙織はテキパキと捌いていく。  眉一つ動かさず、的確な指示を出し、トラブルを未然に防ぐ。それが「チームリーダー・藤堂沙織」の役割だ。  トイレの鏡の前で、昼休みに化粧を直す。  目元のクマをコンシーラーで丁寧に隠す。 「……大丈夫」  鏡の中の自分に言い聞かせる。  会社に来れば、私はプロだ。失恋した惨めな女じゃない。部下たちが憧れる、強くて美しい先輩でいなければならない。  鎧は重い。でも、これを脱いだら、自分が崩れ落ちてしまいそうで怖かった。


 金曜日が来るのが、これほど長く感じた週はなかった。  残業を終え、オフィスを出たのは午後十時過ぎ。心身ともに限界だった。  真っ直ぐ家に帰りたくない。冷え切った部屋で一人、修二との思い出に押し潰されたくない。


 足が向いたのは、会社の最寄り駅から二つ離れた駅にある、路地裏の小さなビストロだった。  『Bistro Filフィル』。  カウンター六席とテーブル二つだけの小さな店。  重厚な木のドアを開けると、カウベルが乾いた音を立てた。 「いらっしゃいませ」  カウンターの中から、落ち着いたバリトンの声が迎えてくれる。  瀬戸せと りく。この店のオーナーシェフだ。  まだ二十五歳と若いが、フランスで修行したという料理の腕は確かで、何よりこの店には、過剰な接客がないのが心地よかった。


「こんばんは、陸くん」 「あ、藤堂さん。お疲れ様です」  陸は仕込みの手を止め、人懐っこい、けれど礼儀正しい笑みを浮かべた。白いコックコートが、細身だが引き締まった体に似合っている。前髪を少し長く残した黒髪の奥にある瞳は、いつも静かな湖のように澄んでいた。


 沙織はいつものカウンターの端の席に座り、深く息を吐いた。 「……白ワイン、グラスで。あと、何か温かいもの」 「了解です。顔色、悪いですね」  陸はグラスを拭きながら、さらりと言った。  ドキリとする。会社では誰にも言われなかったのに。化粧で完璧に隠したはずなのに。 「……そう? ちょっと疲れてるだけ」 「無理しないでくださいよ。……今日は、ポトフがあります。野菜、くたくたになるまで煮込んだんで、噛まなくても食べられますよ」 「ふふ、なにそれ。おばあちゃん扱い?」 「胃が疲れてる人への特別メニューです」


 出された白ワインを一口飲む。冷たくてフルーティーな液体が、乾いた喉を潤していく。  続いて出てきたポトフは、厚手の白い器に入っていた。  大きめに切ったキャベツ、人参、玉ねぎ、そして自家製のソーセージ。湯気と共にハーブの香りが立ち上る。  スプーンでスープをすくう。  優しいコンソメの味が、身体の芯まで染み渡った。 「……おいしい」  思わず声が漏れる。 「よかった」  陸は満足そうに微笑み、また手元の作業に戻った。  この距離感が好きだった。踏み込んでこない、でも、見守ってくれている気配。


 時刻は十一時半を回っていた。他の客は帰り、店内には沙織と陸だけになった。  BGMのジャズが静かに流れている。  ワインが三杯目になり、酔いが回ってきたせいだろうか。それとも、一週間の緊張の糸が切れたせいだろうか。  沙織の口から、ふいに言葉がこぼれ落ちた。 「……私ね、振られちゃった」  陸の手が止まる。 「五年付き合った人に。『一人でも生きていける』って」  一度口に出すと、止まらなかった。 「仕事頑張って、自立して、彼に負担かけないようにって必死だったのに。それが全部、間違いだったみたい。可愛げがないんだって。守りがいがないんだって」  視界が歪む。  カウンターの木の木目が、涙で滲んでいく。  会社では一滴も流さなかった涙が、ここでは堰を切ったように溢れ出した。 「私だって……寂しいのに。誰かに頼りたいのに……」


 沙織は両手で顔を覆った。嗚咽が漏れる。  みっともない。二十九歳にもなって、行きつけの店の、しかも四つも年下の男の子の前で泣くなんて。  でも、止められなかった。  陸は何も言わなかった。  ただ、カウンター越しにそっと箱ティッシュを差し出し、新しい水を置いてくれた。  そして、厨房から出てきて、沙織の隣の席に座った。


「……藤堂さん」  低い声が、すぐ耳元でした。 「その彼氏は、見る目がないですね」 「え……」 「一人で立ってる人が、どれだけ踏ん張ってるか。どれだけ足元が震えてるか。それが見えない男なんて、こっちから願い下げでしょ」  顔を上げると、陸が真剣な眼差しでこちらを見ていた。  その瞳には、憐れみではなく、強い意志が宿っていた。  陸の手が伸びてきて、沙織の濡れた頬を親指で拭う。  熱い指先。  心臓が跳ねた。 「俺は、藤堂さんのそういう弱いところ、嫌いじゃないですよ」 「陸くん……?」 「むしろ、もっと見せてほしいと思う」


 その言葉は、理性のブレーキを壊すには十分だった。  五年間否定された「強さ」の裏側にある「弱さ」を、彼だけが肯定してくれた。  沙織は縋るように、陸のシャツの袖を掴んだ。  陸は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい表情になり、沙織の手を包み込んだ。


「……今日、雨降ってますね」  陸が入口の方を見る。いつの間にか、外は激しい雨音に包まれていた。 「傘、持ってないですよね」 「……うん」 「俺の家、すぐこの上なんですけど。……雨宿り、していきますか?」


 それは、ただの雨宿りではないことを、二人とも分かっていた。  二十九歳の理性が「やめなさい」と警告する。彼は四つも年下の、ただの店員さんだ。一時の感情で動いていい相手じゃない。  けれど、今の沙織には、冷たいワンルームに一人で帰る勇気がなかった。  誰かの体温に触れて、自分がまだ女として価値があるのだと、確かめたかった。


「……うん。行きたい」


 沙織が答えると、陸は少し困ったように、でも嬉しそうに笑った。 「週末だから、特別ですよ」


 店の明かりが消える。  暗闇の中で重なった手は、火傷しそうなくらい熱かった。  こうして、私の「完璧な女」の鎧は、秋の雨と共に静かに錆びつき、脱ぎ捨てられたのだった。


第2部】金曜日の逃避行


 翌朝、目が覚めると、知らない天井があった。  無骨なコンクリート打ちっ放しの壁。男物のシェービングクリームと、焦がしバターの甘い香り。  一瞬、自分がどこにいるのか分からなくてパニックになったが、腰に回された腕の重みで全てを思い出した。  隣で陸が、子供のように無防備な顔で眠っている。長い睫毛が朝日に透けていた。


「……やっちゃった」  沙織は音にならない声で呻き、顔を覆った。  昨夜の記憶は鮮明だ。泣きじゃくる私を、彼は一晩中、壊れ物を扱うように抱いてくれた。優しくて、丁寧で、元彼の修二とは違う、若々しい熱量があった。  どうしよう。気まずい。なんて言って帰ればいい?  沙織が身じろぎすると、陸が目を覚ました。 「……ん、おはよ」  寝ぼけた声。でも、私を認めた瞬間、ふにゃりと笑った。 「よく眠れました?」  その屈託のない笑顔に、罪悪感よりも先に「愛おしい」という感情が湧いてしまったことに、沙織は動揺した。


 朝食は、一晩アパレイユに漬け込んだという「パン・ペルデュ(フレンチトースト)」だった。  外はカリッと、中はプリンのようにトロトロ。蜂蜜とシナモンの香りが、二日酔いの頭を優しく解きほぐす。 「おいしい……」 「でしょ? 藤堂さん、昨日泣きすぎて顔がむくんでたから。甘いものがいいかなって」 「……余計なこと言わなくていいの」  コーヒーを啜りながら、沙織は意を決して切り出した。 「昨日は、その……ごめんね。酔っ払って、押しかけて」 「謝らないでくださいよ」  陸は真剣な顔で遮った。 「俺が誘ったんです。……それに、俺はずっと、藤堂さんのこと綺麗だなって思ってたんで」  ストレートな言葉に、三十路手前の心臓が跳ねる。 「……また、来てもいいですか?」  聞いてしまった。これが「沼」の入り口だと分かっていたのに。  陸は少し驚いた顔をして、すぐに嬉しそうに頷いた。 「いつでも。金曜の夜は、店が終わったらここで待ってますから」


 ***


 それから、沙織の「秘密の週末」が始まった。  平日の五日間は、今まで以上に完璧な「チームリーダー・藤堂沙織」を演じた。  元彼との破局も周囲には隠し通し、仕事に没頭した。けれど、以前のような張り詰めた悲壮感はない。  なぜなら、金曜日の夜になれば、あの場所へ帰れるからだ。


 金曜の二十三時。  ビストロ『Fil』の閉店作業が終わる頃、沙織は裏口から二階への階段を上る。  陸の部屋は、生活感があまりない。あるのは大量の料理本と、少しの服、そして沙織のために用意されたふかふかのタオルケットだけ。   「お疲れ様。今週も戦いましたね」  陸はいつも、温かいスープや、試作品のテリーヌを用意して待っていてくれる。  二人で安いワインを飲み、映画を観たり、ただ抱き合って眠ったりする。  ここには、結婚へのプレッシャーも、仕事の責任も、年齢の焦りもない。あるのは、陸の体温と、甘やかな充足感だけ。  陸は決して「付き合おう」とは言わなかった。  沙織も「私たちはどういう関係?」とは聞かなかった。  名前をつけてしまえば、この心地よいぬるま湯のような関係に、責任や義務が生じてしまう気がしたからだ。


 ある雨の降る土曜日。  昼過ぎまでベッドで微睡んでいると、陸が唐突に言った。 「沙織さん」  いつの間にか、呼び方は「藤堂さん」から「沙織さん」に変わっていた。 「ん……?」 「俺、いつかフランスの田舎みたいなオーベルジュ(宿泊施設付きレストラン)をやるのが夢なんです。自分たちで野菜育てて、その日採れたものだけでコースを作るような」  陸は天井を見上げながら、少年のように目を輝かせて語る。 「いいわね、それ。陸くんの料理なら、絶対人気出るよ」 「十年後かな。もっと金貯めて、修行もし直して……」


 ――十年後。  その言葉が、鋭い棘のように沙織の胸に刺さった。  十年後、陸は三十五歳。脂が乗って、男として一番魅力的な時期だろう。  その時、私は?  もう四十歳になる。  彼の輝かしい未来予想図の中に、四つ年上の、疲れたキャリアウーマンの居場所はあるのだろうか。  今はいい。今は、彼の「若さ」と「夢」の近くにいさせてもらえるだけで幸せだ。でも、時間は残酷だ。  彼の隣に似合うのは、もっと若くて、夢を共有できるキラキラした女の子なんじゃないか。


 ふいに不安に襲われ、沙織は陸の背中にしがみついた。 「……どうしたの?」 「ううん。ちょっと、寒かっただけ」  嘘をついた。  陸は何も聞かず、ただ大きな手で沙織の手を握り返してくれた。その温かさが、今は逆に切なかった。  私は彼を搾取しているだけなのかもしれない。「癒やし」という名目で、彼の若い時間を奪っているだけなのかもしれない。


 ***


 日曜日の夕方。  現実に戻る時間がやってくる。 「じゃあ、また来週」  陸は玄関まで見送ってくれる。キスは軽いものだ。それが余計に「恋人ごっこ」の終わりを強調する。 「うん、また」  笑顔で手を振り、階段を降りる。  一歩、また一歩と降りるたびに、魔法が解けていく。  ハイヒールのアスファルトを叩く音が、現実に引き戻すカウントダウンのように響く。


 帰り道、ショーウィンドウに映った自分の顔を見た。  金曜の夜より、肌ツヤはいい。愛された余韻が残っている。  けれど、その瞳の奥には、隠しきれない怯えがあった。


 ――いつまで、こんなことを続けるの?  ――この関係に、先なんてないこと、分かってるでしょ?


 街中を歩く親子連れや、仲睦まじい夫婦の姿が目に入る。  かつて自分が目指していた「普通の幸せ」。  陸との時間は最高に幸せだ。でも、それは「週末限定」の、現実逃避の先にある幸せでしかない。  月曜日が来れば、また一人。  来週、三十歳の誕生日が来る。  その日を、陸は知っているのだろうか。知っていたとして、祝ってくれるのだろうか。それとも、彼にとって私は、ただの「週末の客」なのだろうか。


 沙織は、逃げるように地下鉄の階段を降りた。  スマホのカレンダーには、来週の金曜日にだけ『Fil』と記されている。それ以外の白い空白が、どうしようもなく怖かった。


第3部】選択のフォークロア


 三十歳の誕生日は、冷たい雨の降る水曜日だった。  日付が変わった瞬間、スマホが震えた。  一番乗りは、実家の母だった。 『お誕生日おめでとう。三十代も素敵にね。……ところで、先日話したお見合いの写真、送ります。相手は35歳の商社マン。どうしても一度会ってほしいそうです』  添付された写真には、誠実そうな、いかにも「優良物件」な男性が写っていた。  二番目は、保険会社の担当者からの自動送信メール。  三番目は、脱毛サロンのクーポン。    ……陸からの連絡は、なかった。  当然だ。私たちは連絡先を交換していない。「金曜の夜に店で会う」以外の接点を持たないようにしてきたからだ。それが「名前のない関係」のルールであり、マナーだった。  けれど、心のどこかで期待していた自分が、惨めで仕方なかった。

 その日の夜、思いがけない人物から連絡が来た。  元彼の修二だ。 『誕生日おめでとう。どうしても話したいことがある。今から会えないか』  指定されたのは、かつてよくデートで行ったホテルのラウンジだった。

 ***

「……悪かった。俺が間違っていた」  修二は、以前より少しやつれて見えた。  コーヒーカップを見つめながら、彼はぽつりぽつりと語り始めた。新しい彼女とはすぐに別れたこと。沙織の居心地の良さ、賢さ、そして自分を支えてくれていたことの大きさに気づいたこと。 「勝手なのは分かってる。でも、沙織以上の女性はいなかった」  彼はポケットから小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。 「やり直そう。来年の春にでも、結婚式を挙げよう」  それは、三ヶ月前の私が喉から手が出るほど欲しかった言葉だった。  三十歳でのプロポーズ。安定した生活。親も喜ぶ相手。世間体も完璧な「逆転勝利」。  頭の中の電卓が、パチパチと音を立てて計算を弾き出す。これが正解だ。これを逃せば、もう二度とこんなチャンスは来ないかもしれない。    でも。  沙織の心は、驚くほど冷え切っていた。  目の前の彼は「私」を見ているようで、実は「自分の失敗を埋め合わせるパーツ」として私を見ている気がした。  脳裏に浮かぶのは、狭いワンルームで、安いワインを片手に「美味い」と笑う陸の顔だった。 「……少し、考えさせて」  箱を受け取らず、沙織は席を立った。

 ***

 金曜日。  沙織は逃げ込むように『Fil』の階段を上った。  ドアを開けると、いつものように陸がいた。 「お疲れ様です、沙織さん」  陸の笑顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張が解けて、泣き出しそうになった。  テーブルには、小さなホールケーキが置かれていた。歪な形の手作りケーキ。プレートにはチョコペンで『Happy Birthday』と書かれている。 「え……」 「三十歳、おめでとうございます。……驚かせたくて、黙ってました」  陸が照れくさそうに鼻をこする。 「これ、俺が初めて焼いたケーキなんです。店じゃ出せないレベルですけど」  連絡がなかったのは、忘れていたからじゃなかった。  胸が詰まる。嬉しい。死ぬほど嬉しい。でも、その優しさが今は鋭い刃物のように痛かった。

 ケーキを食べ、ワインを開けた後、沙織は沈黙に耐えきれず、口を開いた。 「……陸くん。私ね、プロポーズされたの」  陸がグラスを持つ手を止めた。 「元彼から。やり直して、結婚しようって」  部屋の空気が、急速に凍りついていく。  陸は静かにグラスを置いた。その表情から感情が抜け落ち、読めなくなる。 「……さらにね、親からはお見合いの話も来てる。相手は商社マンで、条件も完璧な人」  言えば言うほど、自分がひどい女に思えた。陸を試しているようだ。「行かないで」と言ってほしいのか、「幸せになれ」と言ってほしいのか、自分でも分からない。

「……で、沙織さんはどうしたいんですか?」  陸の声は低く、落ち着いていた。 「分からない。……分からないから、ここに来たの」  沙織は陸の手を握ろうとした。  けれど、陸はその手をそっと避けた。  その拒絶の動作が、沙織の心臓を抉った。

「そっちに行くべきですよ」  陸は淡々と言った。 「元彼とヨリを戻すか、そのお見合い相手と結婚するか。どっちにしろ、俺じゃない」 「どうして……っ、私は陸くんと一緒にいたいの!」 「俺じゃ、沙織さんを幸せにできない」  陸が初めて、声を荒げた。  彼は立ち上がり、窓の外の雨を睨みつけるように背を向けた。 「俺はまだ二十五だ。店も軌道に乗ってない。夢だったオーベルジュなんて、いつになるか分からない。……沙織さんは三十だろ? 子供だって欲しいだろうし、親だって安心させたいはずだ」 「そんなの、私が決めることよ!」 「いや、俺が決められないんだ」  陸が振り返る。その顔は、泣いているように歪んでいた。 「沙織さんの時間を、これ以上俺が奪っちゃいけない。十年待たせて、結局ダメでしたなんて、そんな無責任なこと俺にはできない」

 正論だった。  あまりにも残酷で、あまりにも愛に満ちた正論。  彼は私のことを、私以上に真剣に考えてくれていた。だからこそ、突き放すのだ。  「好きだ」と言って抱きしめるよりも、「幸せになれ」と言って手を離す方が、ずっと辛くて、ずっと深い愛情が必要だと知った。

「……このケーキ食べたら、帰ってください」  陸は再び背を向けた。 「もう、ここには来ないでください。俺も、次のステップに進まなきゃいけないんで」

 嘘だ。  背中が震えている。  でも、沙織にはその背中に抱きつく資格がなかった。  私が求めていた「週末だけの癒やし」は、彼の未来への覚悟を踏みにじる甘えだったのだ。

 沙織は、味がしないケーキを無理やり飲み込んだ。  甘いはずのクリームが、涙の味で塩辛かった。   「……ありがとう。陸くんの夢、応援してる」  最後にそう告げて、沙織は部屋を出た。  鉄の扉が閉まる重い音。それが、二人の季節の終わりを告げる号砲のようだった。

 外はまだ雨が降っていた。  傘はない。  ずぶ濡れになりながら駅へ向かう途中、沙織はスマホを取り出した。  修二の連絡先を表示する。発信ボタンを押せば、温かくて安全な場所へ戻れる。  指が震える。  雨に打たれる冷たさよりも、心に空いた穴の寒さが、沙織の体をガタガタと震わせていた。



【第4部】雨上がりの朝食


 雨は、夜のとばりを重く濡らしていた。  駅のホームのベンチに座り、沙織はスマートフォンの画面を見つめていた。  画面には『修二』の文字。  発信ボタンを一度押せば、すべてが丸く収まる。  来春には花嫁になり、親を安心させ、友人たちに祝福され、この孤独な寒さから永遠に守られる。それは、誰もが羨む「正解」の道だ。    ――俺じゃ、沙織さんを幸せにできない。

 陸の言葉が、冷たい雨音のようにリフレインする。  彼は正しかった。二十五歳の彼に、三十歳の私の人生を背負わせるのは酷だ。彼の夢を、私の「結婚したい」というエゴで潰してはいけない。  だから、これは正しい選択なのだ。  頭では分かっていた。  けれど、修二への電話をかけようとする指が、どうしても動かない。   「……違う」  沙織は、画面の光が滲むのを感じた。  修二といた時の私は、いつも「いい彼女」を演じていた。嫌われないように、重くならないように、完璧な笑顔を張り付けて。  でも、陸の前での私はどうだった?  ボロボロに泣いて、仕事の愚痴をこぼして、すっぴんで笑って、美味しいものを食べて。  あんなに無防備で、あんなに人間らしい時間を、私は他に知らない。

 幸せとは、誰かに与えられる「安定」のことだろうか。  それとも、たとえ不安定でも、隣にいるだけで心が震えるような「温度」のことだろうか。

 沙織は深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たす。  もし、私が三十歳だからといって、自分の心を殺して「安全な檻」に入ろうとしているなら、それは自分自身への裏切りだ。  未来の保証なんて、誰と一緒でもありはしない。修二と結婚しても、また振られるかもしれない。会社が倒産するかもしれない。  確かなものは、今、この胸にある痛みだけだ。これほどまでに胸が痛むのは、それほどまでに彼を愛してしまった証拠だ。

 沙織は指を動かした。  発信ボタンではない。  アドレス帳の編集画面。『修二』の連絡先を削除する。  確認のポップアップなど見ずに、消去した。  ついでに、母から送られてきたお見合い写真のデータもゴミ箱へ入れた。

「……私の人生は、私が決める」

 沙織は立ち上がった。  ハイヒールを脱ぎ捨てたい衝動に駆られながら、それでも強く地面を踏みしめ、改札を出た。  向かう先は、安全な自宅ではない。  さっき追い出されたばかりの、あの場所だ。

 ***

 ビストロ『Fil』の裏口。  階段を駆け上がり、鉄の扉を叩く。  ドンドン、と乱暴な音が響く。  応答はない。 「陸くん! 開けて!」  叫ぶ声が雨音にかき消されそうになる。 「開けてよ、瀬戸 陸!」  しばらくして、ガチャリと鍵が開く音がした。  ドアが少しだけ開き、隙間から陸の顔が覗いた。目は赤く、髪はぐしゃぐしゃだった。 「……帰れって、言ったじゃないですか」  声が掠れている。 「帰らない。あなたが話を聞くまで、ここを動かない」  沙織がドアを強引に押し開けると、陸は驚いて後ずさった。  ずぶ濡れの服、乱れた髪、マスカラが落ちて黒くなった目元。  かつての「完璧な美人」の面影はない。けれど、その瞳だけが、鬼気迫る光を放っていた。

「……なんで戻ってきたんですか。あっちに行けば、幸せになれるのに」  陸が苦しそうに顔を歪める。 「俺には金もないし、時間もないし、自信もない。沙織さんを待たせることしかできない。それが惨めで、申し訳なくて……だから」 「勝手に決めないでよ!」  沙織の叫びが、狭い部屋に響き渡った。  陸が息を呑む。 「私がいつ、『養ってほしい』なんて言った? いつ、『結婚して仕事を辞めたい』なんて言った?」  沙織は一歩踏み出した。 「私を舐めないで。私は二十九年間、必死に働いて、キャリアを積んで、一人で生きていける力をつけてきたの。あなたの夢くらい、私だって一緒に背負えるわよ!」 「え……」 「十年後にオーベルジュ? いいじゃない。それまで私が稼ぐから、あなたは最高の腕を磨いて。店を出す時は私も手伝う。二人でやったほうが早いでしょ?」  陸は呆気にとられたように口を開けている。  沙織は、涙を拭いもせずに続けた。 「年齢とか、常識とか、そんなものどうでもいい。私が欲しいのは、『結婚』という肩書きじゃない。……陸、あなたなの」

 名前を呼び捨てにした。  四歳の年齢差も、店員と客という垣根も、今この瞬間に飛び越えた。

「私は、あなたのご飯を食べて、あなたと笑って生きていきたい。たとえ泥沼でも、あなたと一緒なら泳ぎ切ってみせる。……だから、私の幸せを、あなたが勝手に諦めないで」

 一気にまくし立てると、酸欠で眩暈がした。  部屋に沈黙が落ちる。  陸は立ち尽くしていたが、やがてその肩が震え始めた。  彼は両手で顔を覆い、子供のように泣き出した。 「……かっこよすぎだろ、それ」  震える声が漏れる。 「俺、ほんとに……怖かったんです。沙織さんが、俺のせいで後悔するのが怖くて……でも、本当は離したくなくて……」  陸が崩れ落ちるように膝をつく。  沙織もその場にしゃがみこみ、彼の体を抱きしめた。  濡れた服が冷たいはずなのに、互いの体温がマグマのように熱かった。 「バカね。後悔なんてさせないわよ。私が選んだ男なんだから」  沙織が囁くと、陸は彼女の腰に腕を回し、顔を埋めた。 「……好きです。沙織さん、愛してます」 「うん。私も」

 窓の外の雨音は、いつしか優しいリズムに変わっていた。  二人は泥のように眠った。  不安も、見栄も、世間体も、すべて雨に流して。

 ***

 翌朝。  カーテンの隙間から差し込む眩しい光で、沙織は目を覚ました。  雨は上がっていた。  空は洗われたように青く澄み渡り、街路樹の雫が宝石のように輝いている。  キッチンから、トントンという小気味よい包丁の音と、香ばしい匂いが漂ってくる。

 沙織がベッドから起き上がると、陸が振り返った。 「おはよう、沙織」  そこには、昨夜の泣き顔はなく、憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔があった。呼び方も、自然と変わっていた。 「おはよう、陸」

 テーブルには、色鮮やかな朝食が並んでいた。  冷蔵庫の残り物で作ったというオムレツ、焼き立てのトースト、そして温かい野菜スープ。  特別な食材は何もない。けれど、それはどんな高級ホテルの朝食よりも輝いて見えた。

「いただきます」  二人で手を合わせる。  スープを一口飲む。野菜の甘味が、体に優しく染み渡る。  美味しい。心から、美味しい。  沙織はスプーンを置くと、不意に涙がこぼれそうになった。悲しいからではない。あまりにも満たされているからだ。

「……どうかしました?」  陸が心配そうに覗き込む。  沙織は首を横に振り、最高の笑顔を見せた。 「ううん。ただ、幸せだなって」

 三十歳。独身。彼氏は五つ下の料理人。将来の保証はどこにもない。  世間から見れば、「無謀な選択」かもしれない。  でも、ここにある温かさは本物だ。   「ねえ、陸」 「ん?」 「週末だけじゃなくて、これからも毎日、泣いてもいい?」  沙織がいたずらっぽく聞くと、陸はきょとんとして、それから吹き出した。 「どうぞ。その代わり、俺が毎日美味しいもの作って、笑顔にしますから」

 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。  窓を開けると、新しい季節の風が吹き込んできた。    名前のない関係は終わった。  ここから始まるのは、二人で紡ぐ、等身大の愛おしい日々だ。    雨上がりの空の下、二人の朝食は、いつまでも温かかった。


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