兎
〈五月ともなれば全ては生ビイル 涙次〉
【ⅰ】
なんとなくむしやくしやしたので、杵塚はタンデムでなく、珍しくソロ・ライドでZ-250に乘つてゐた。
帰るさ「おや、一人かい。珍しいね」と、じろさん。それには答へなかつた杵塚であつた。(奴、氣が立つてるみたいだな)-じろさん。
杵塚は悩んでゐた。楳ノ谷汀の事である。あり體に云へば、別れたいのだつた。
些細な事で、彼女に對する興味が、色褪せた。例へば、彼女の食べ物の好き嫌ひの多さ、である。
彼女はまづ、カレーライスが食べられなかつた。日本人の國民食、と今では目される、カレーを。辛いのが苦手なら致し方がないが、「あのぐちやぐちやしたところが、嫌」と、楳ノ谷は云ふ。ぐちやぐちやした物で、旨い物は澤山ある。なら、ぐちやぐちやしてゐないドライカレーなら食べられるか、と云へば、答へはノー。それには杵塚、不誠實さを感ぜざるを得なかつた。その他、鶏卵は駄目、蒟蒻は駄目、海雲酢・ひじきは駄目、いゝ齡して靑魚のワタが駄目... まだまだある。
まあ所謂「倦怠期」であらう、と自分には云ひ聞かせるのだが、最近、それが嵩ずるばかりで、何ら解決法が見付かつてゐない。せめて、偏食を治してくれさへすれば... 或ひは。と云つたところ。
【ⅱ】
カンテラ、じろさんには、相談出來ぬ。何となれば、いゝ「お得意先」である楳ノ谷の報道番組、お客筋から外す譯には行かないのは、杵塚にも分かり切つてゐた。彼女との別れは、自分一人の問題ではないのである。云つてみれば、事務所の未來は杵塚の双肩に懸かつてゐる...
カンテラ、じろさんに話を聞いて、杵塚と面談した。「何か(待遇面で、でも)気に入らない事があつたら、云つてくれ。正直にな」-杵塚、お志は有難いんだけど、と云つたところ。「カンさん、じろさんとは関はりのない事、云つてもいゝですか?」-「それは何?」-「實は...」楳ノ谷への今の氣持ち、洗ひざらひぶちまけた。勿論、偏食の件も含めて、である。
【ⅲ】
男女の機微の難しさについては、カンテラも極く最近、知る處があつて、偏食の件は、何だそんな事、と一概に云へぬ、とは分かつてゐた。
「杵くん、ぢや、彼女の偏食癖を治しさへすれば、別れは回避出來るのかい?」-「恐らく、自分でコントロール出來るところ迄は、彼女への思ひは、恢復するでせう」-「そればらば、お安いご用だ」
「え!?」と確かめる迄もなく、カンテラの態度は確信に滿ちてゐた...
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〈今日ひと日涙を呑めばいゝと云ふ鵜呑みにする程涙洩らすな 平手みき〉
【ⅳ】
カンテラは、【魔】の介在を考へてゐた。楳ノ谷、彼女のやうな、日頃【魔】を扱ひ慣れた者には、【魔】は却つて憑り付き易い、と云ふのは、過去のデータが物語つていた。
カンテラ、テオに命じ、楳ノ谷のこれ迄の人生で、【魔】を惹き寄せる要素はなかつたか、調べて貰つた。答へは、彼女が唯一上梓した本である、彼女のエッセイ集に見付かつた。
テオ「兎、彼女が髙校生の頃とても大事にしてゐた、の事故死、ですね。彼女は誤つて、踏ん付けて兎を死なせてしまふ。それもこれも、兎が彼女にとても懐いてゐたことの証左となる事ですが...」カンテラ「それで?」テ「彼女は自分が許せない。生理が止まる迄拒食し、學校を一年、休學してゐます」カ「それ、だな」
カンテラ、ペットショップで兎を購入。兎の糞を、護摩壇に投じた。楳ノ谷の髪の毛(杵塚の服に付いてゐた、髪の長さで彼女の物と断定)と共に。
兎、がカンテラの眼前に現れた。「なにかご用?」兎は年経て魔物化してをり、人間の言葉を喋つた。やけに肥つてゐて、楳ノ谷の食べる筈だつた物は、こいつが食つてしまつてゐたのだ、と知れた。勿論、「思念上」での話である。【魔】の風格充分(?)な兎。「お前のような小動物を斬るのは、生まれて初めてだ」だが、容赦なく、カンテラ、その兎を斬つた... カンテラは仕事に手を拔くと云ふ事はない。「しええええええいつ!!」
【ⅴ】
「拒食、と云ふところに着目した譯だが-」-「有難うございます。少し、彼女の様子を見てみませう」
杵塚が手製のカレー(彼は割りと料理、得意だつた)を振舞ふと、楳ノ谷、嬉しさうに食べた。「だうやら、カンテラさんにお世話になつたみたいね」彼女自身、兎の件、氣付いてはゐたのである。たゞ、杵塚にだう打ち明けやうか、その事に悩んでゐたらしい。「エッセイ集、俺も讀んでみるよ。あんたの事を、意外に知らないんだ、俺」-二人、倦怠期は乘り越えたやうである。改めて、楳ノ谷が依頼者として名乘りを上げた。
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〈樹下にあり一寸先が五月闇 涙次〉
意外と云へば、カンテラの一味のメンバーに對する思ひ遣り、であらう。まあ最近、色んな事あり過ぎるぐらゐ、あつたからね。楳ノ谷さん、偏食を克服しましたが... 人の勝手とは云へ、何でも美味しく食べたいものです。お仕舞ひ。ぢやまた。