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週刊誌の新米記者である木山は、大御所老俳優和田のスクープを狙って彼を尾行していた。妻とこれから生まれる子供を養うために渋々業務を続ける木山が、都内から和田の車を尾行してたどり着いた先は、四方を山林に囲まれた湖畔に建った風変わりなホテルだった。

僕は、吸い終えた煙草を簡易灰皿に捨てると、車の窓を閉めた。

標的が動き出したのである。サングラスにマスクという如何にもな変装姿でコンビニから車に戻った和田高明は、警戒するように何度か辺りを見回してからエンジンを始動した。妙な連中に付き纏われていないか確認するのが既に癖になっているのだろう。世間に名の知れた人間の宿命なのかも知れない。かくいうこの僕が、その妙な連中の一人であるのだが。

彼が乗った黒のアウディA8は、豪快な排気音を轟かせながら駐車場を発ち、山間部へと続く国道へ合流した。

都心にある自宅から出発した彼を追い、もうかれこれ二時間以上車を走らせている。摩天楼の隙間を走っていたはずが、今はもう木枯らしに揺られる森林の中に人家が疎らに建っているだけだ。対向車線の車とすれ違うことは滅多にない。コンビニの駐車場は休憩中のトラックで溢れていたが、ここからはさらに尾行に気づかれないように注意を払わなければならない。

少し間を空け、僕も国道に出た。先日降った雨の影響で路面は濡れており、微かに霧が湧き立っている。



昔から漠然と、書く、という行為が好きだった僕は、大学卒業後の進路を考えるに当たって、ルポライターを志した。それは当時話題になったジャーナリストの影響があった。長きに亘る潜入取材を経て、とある地方政治家の汚職を暴いたという彼の記事を偶然目にした僕は、真実を追求する彼の姿勢に感銘を受けたのだ。そうして、何とか中堅出版社に入社できたのは良かったのだが、待っていた未来は、僕が思い描いていたものとは大きくかけ離れていた。圧倒的人手不足のその出版社で僕が配属されたのは、女児向け雑誌の編集部だったのだ。それなりに意義のある仕事ではあったが、自分の人生にはまるで縁のなかったものを毎週のように特集するのはかなりの苦痛で、次第に僕のやる気は失せていった。そして、それが僕の提出する草稿にも表れていたのだろう。一月前に僕は遠回しに戦力外通告を食らい、半ば追い出される形で別の部署に転属することとなった。それがゴシップ誌だったのである。時折芸能人の熱愛や不倫をスクープして世間を賑わせる、あれだ。形こそ、僕が私淑していたジャーナリズムに酷似しているものの、その実態は、世間で評判の著名人の私的領域に無断で踏み込み、その実態を晒しあげるというものだった。僕は元からこの類の人間にあまり良いイメージを持っておらず、何故芸能人相手であればこのような行いがまかり通るのかと疑問にさえ思っていた。

そうして新人の僕は、大御所俳優の和田高明の動向を探るように上司から特命を受け、休日を削って彼の尾行をする羽目になっていた。和田高明は現在67歳、業界内でも指折りの名俳優だ。若い頃に出演した時代劇で日の目を浴びて以来、四十年以上第一線で活躍しており、現在でも主に映画の分野で重宝されている。バラエティなどへの露出は少ないが、昭和スターのような濃い顔立ちに反した人当たりの良さと愛妻家として世間で評判だった。あまり映画に馴染みのなかった僕も子供の頃から彼のことは知っていたし、どちらかといえば好きな方だった。そんな大御所俳優の担当を任されるとは期待されたのものだと考えていたが、彼の張り込みを始めてからその意味を理解した。一切記事になるそうなネタが出ないのである。芸能業界内の裏事情や良からぬ噂は、部署内で共有され、その中でも特にネタになりそうな人、言い換えれば金になりそうな人を標的に定めるのだが、和田高明に関しては違った。これまで不祥事があったわけでもなく、悪い噂もなかった。ただ、半年程前に元女優の妻喜美恵を亡くしており、もし何かゴシップがあれば話題になるから、というネームバリューだけで狙われていた。当たれば一攫千金だが、坑道の入り口すらない金山に、僕は放り投げ出されてしまった。妻を亡くした彼の覇気のない顔を見ているのは、レンズ越しでも辛いものがある。

しかし、どうしてもこの仕事を辞められない理由があった。転属を機に辞職の二文字について考える回数が増えたのは言うまでもないが、辞職して辛い思いをするのは今や僕一人ではなくなっていた。転属の直前に妻祐華との間に新たな命を授かっており、七ヶ月に入ろうとしている。

大事な時期に仕事を変えるというのは、妻に多大な迷惑をかけてしまうだろうし、精神衛生上良くない。そして何より、転職活動をしている暇もない。新たな命を迎え、家族として一緒に暮らして行くために、これからの生活費を稼がなければならない。そのために、金になるトクダネを手に入れる必要があった。



 片道一車線の古びた国道は、山林の隙間を縫うように一直線に伸びている。黒のアウディが前を走る。彼の行き先についてずっと思案を巡らせていたが、漸く分かった。この道をずっと行った先には、有名な温泉地がある。彼は恐らく気分転換の温泉旅行にでも来たのだろう。であれば、常に後ろを走っていても尾行を怪しまれることもないだろうが、残念ながらデメリットの方が大きかった。彼を見失わないように、常に近くにいる必要がある。つまり、彼がホテルに泊まれば、僕もまたその周囲で寝泊まりしなければならない。一応我が社にも経費という概念はあるが、完全に形骸化していた。とくダネを掴めなかった遠征は価値なしとみなされ、経費で落ちるのは雀の涙程で、実質自腹となる。だからこそ、できるだけ出費は押さえたい。そうして、必然的に車中泊を強いられることになるが、山間部の夜は信じられない程冷える。食品冷蔵室の中のような極寒の車内で震え、眠ることもできない自分を想像してしまい、嫌な気分になる。


ただ、和田が荷物を何一つ持ってきていないことが妙だった。ノート三冊程度しか入らなそうな小さな鞄を携えているだけで、旅行鞄のようなものは持っていなかったし、道中で買い集めていたわけでもない。必要なものは現地で揃えるタイプなのかもしれないが、それでも手ぶらというのは珍しいように思う。さては、現地で誰かと待ち合わせているのだろうか。彼の心にぽっかりと空いた穴を埋めることのできる、女性。

その説は最早、論理的な思考からではなく、単なる願望によって生み出されたものだった。

それは、彼のためでもあったが、何より自分のために、自分の家族のため。

僕は無意識に、そうであってくれと祈るような視線を前の車に向けていた。


五キロ程走ったところで、和田は突然路肩に車を停めた。温泉地まではまだ数キロある。両側を森林に挟まれた、歩道も信号も、何もない道である。ここで停車する理由などないはずだ。まさか、尾行がバレたのだろうか。僕の車に意識を向けさせないように、山間部に入ってより一層、慎重に車間距離を取っていたつもりだった。車を停めることは当然できない。前に停まった車に段々と近づく。仕方なく、彼の車の横を通り抜けた。通り過ぎると、僕はバックミラーに視線を移し、すぐさま前に戻した。彼と目があったのだ。マズイ。折角の機会が水泡に帰す。僕は冷や汗を額に浮かべながら、何食わぬ顔で車を走らせ続けた。

少し行った所に、お土産屋があった。一台分しかない駐車スペースに車を停めると、僕は早足で店へ駆け込み、飲料と申し訳程度の土産用お菓子を購入し、車に戻った。いずれ彼の車が通ると踏んだからである。あれから、彼が車を停めた理由について一通り考えを巡らせ、ただ用を足すためだったという説に落ち着いていた。


十分程駐車場で彼の車が通るのを待っていたが、一向に現れなかった。

まさか、本当に尾行に気づき、引き返したのだろうか。しかし、いくら尾行の存在を把握したとして、旅行そのものまでキャンセルするだろうか。僕はこれまで彼を遠くから観察していただけで、まだ直撃取材をしたこともない。当然、顔を把握されている可能性もない。僕は車を始動させ、彼が路駐していた所まで戻ることにした。


彼の車は消えていた。やはり彼は引き返したらしい。僕が土産屋に入った時に通り過ぎて行った可能性もない。中に居ても、外を走る車の音は聞こえる。

そこで僕は奇妙な発見をした。

彼が路駐していた所、濡れた路面の上に、彼の車のタイヤの痕が残されていた。そして、それが道路から横に大きく外れた土の上に続いていたのである。先程は気がつかなかったが、そこには木々の隙間を縫った細い一本道があった。舗装などされていない、殆ど登山道のような隘路である。そこには、はっきりと轍が残っていた。彼の車はここを進んで行ったのだろう。

僕は左折し、その道に入った。凸凹した未舗装路に、ぐらぐらと車は揺れる。

頭上には、鉛色の空を覆い隠すように枯れ木がカーテンを作り、その隙間を補うように濃い霧が漂っている。ハイビームに切り替え、慎重にアクセルを踏んだ。

彼がこの道を進んで行ったのだから、どこかには続いているのだろう。この道は先には何があるのかと、僕は考える。そして、田代のことを思い出した。

中学時代の旧友で、卒業以降は異なる学校へ通っていたが、交友関係は続いていた。彼は去年、大学卒業間近に行方を消した。失踪の1ヶ月前、彼から久しぶりに連絡があった。そこで、久しぶりに旅行にでも行かないかと誘われた。その行き先が、この先にある温泉地だったのだ。サボっていた就活の皺寄せを食らっていた僕は断ってしまったのだが、彼は一人で旅行に出たきり、今日まで見つかっていない。

車のライトが鬱々とした雑木林を照らしている。今にも途切れそうな道は、いつの間にか若干の傾斜がついていた。少しずつ山を上っている。泥濘るみには彼の車がつけた轍が残っていた。それがいつまでも続いている。樹海のように途切れることなく、延々と伸びている。

永遠に続くと思えたその道の終わりが見えたのは、それから二十分後だった。これまで常に視界を覆っていた木々の群れが消え、鈍色の光が車内に満ちた。

目の前には、大きな湖があった。地面との境目が見えない程広大で、どれほどの大きさなのか把握できない。灰色の湖面は一切波立っておらず、そこから脇立った霧が揺蕩っている。二匹の白鷺が水面に浮かび羽を休めている。

その湖の円周に沿うようにして、手間には舗装路が敷かれていた。そしてその道の先、湖のほとりには、洋風の邸宅が建っていた。


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