本文
本文はこの文で殆どですが、この後2話ほど付け足しの文が残っています。
小分けするのが得意じゃないので一気に読んで頂ければと思っています。
それと本文中の追記の方に全曲の題名があって、そこに註釈が付いている場合は追記の最後の方に註釈の中身が描かれているのでご覧ください。なお、註釈がなく『本文中に説明』という文が付加されている曲については最終話「おわりに」でその内容に少しだけ触れます。
彼女の最初の作品とされているのが『さよならぼくのともだち』です。
7番までありますが、彼女の男の友だちのAさんの思い出を断片的に歌いながら、その思い出のひとつひとつに別れを告げるように歌っているのです。
Aさんというのは大学生で彼と会ったとき森田童子さんは高校生でした。
彼女はこの歌をライブで泣きながら歌ったそうです。
彼女はAさんの部屋に一緒に住んでいましたが、男女の関係はなかったみたいです。Aさんは彼女のことを女性としてよりも友だちとして見ていたらしいです。
そのことが分かるのは『赤いダウンパーカー』の5番と『早春にて』の2番、そして歌ではないけれど「終曲の為に第3番』で、二人を結び付けていたのは恋愛感情ではなく友情だったと言うことが分かります。付け加えると『男のくせに泣いてくれた』でも、涙が枯れるまで二人で肩を抱き合って眠たという表現があります。寝たではなく、眠た、です。前者は行為を含める意味もありますが、後者にしたのは単に眠ったということを表しているのだと思いました。二人が眠る場面は『ピラビタール』にもありますが、きっとそんな場合でも行為には到らなかったのだと思います。『蒼き夜』などもこの薬を服用して過ごした夜のことを歌ったのではないかと思われます。
しかもその友情でさえもAさんを彼女が繋ぎとめておくことができなかったことが『さよならぼくの友だち』の6番でもわかります。同じことが『ぼくたちの失敗』の4番でもわかります。
そのことは勿論『赤いダウンパーカー』でも分かりますし、ちょっとわかりづらいものでは『センチメンタル通り』でも推測されます。この歌に出て来る『この街』というのは森田童子さん自身のことで作中の『君』はAさんのことだと思うのです。
さてこの『さよならぼくのともだち』の中の4番で『クスリ』と言う言葉が出てきます。もしかして危ない薬ではないのかという印象を持ちますが、『ピラビタール』という歌に出て来る同名の薬品で、鎮痛・鎮静剤の原料の一つであるらしいです。不安な心を鎮める為に二人で飲んでいたらしい。そして悲しい現実から逃避していたらしい、というのが私の解釈です。
『ぼくたちの失敗』の『失敗』も現実の悲しみから逃げていたことをさし、そのことを『弱虫』と言う風に表現しているのだと思います。『さよならぼくの友だち』の7番ではAさんのことを、そして『ぼくたちの失敗』の1番と6番では自分のことを『弱虫』と言っているのは、二人とも一緒に辛い現実から逃げていたということを言っているのでしょう。
でも森田童子さんの家庭環境を考えてみれば、つらい現実から逃げたくなるのもよく分かる気がします。
まず彼女の父親は自分の弟(彼女の叔父さん)が稼いだお金を片っ端からスッテンテンになるまで使いまくる人なのです。
そして図々しくも妻と(童子さんも含めて)三人の子供を連れて弟の家に入り込むのです。弟の奥さんは呆れて出て行くという酷い話になってます。
彼女の父親は怪しげな事業に手を出して何度も失敗して無一文になるけれど、ギャンブルのように山師的なことを繰り返すばかりでなく、奥さんもいるのに酒と女に溺れてばかりいるのです。しかも自分の弟の家に住み、弟の金を勝手に使いまくるのです。さらに弟の名前で借金をし、なかにし礼さんはそれを返済するのに非常に苦労したと言われています。
そういう酷い父親ですが、最後に弟に縁を切られ金の無心もできずにがっくり来ている様子を『淋しい素描』で童子さんは歌っています。
それとこれは私の勝手な憶測ですが『グリーン大佐答えて』という歌があって、その中で彼女に問いかけられているグリーン大佐というのが父親のことをもじっているのではないかと思うのです。
この父親は長男として大事に育てられてきたので、家長制度が崩壊してもなおかつ長男と言う地位にしがみつこうとしている様子がうかがえます。そこにわがままな甘えがあり、人として崩壊しているものを感じさせます。『チィチィよハァハァよ』の3番では、笑う時に声を出さないとかすぐに下唇を噛む自分の悲しい癖について歌っていたり、3番と4番の間のナレーションでは夜中に親の夢にうなされて泣いていたことを語ってます。
やはり父親不在のような家庭環境だけでなく、いても声を出して笑うこともできないような家庭だったのではないかと詮索してしまいます。
そして彼女の叔父にあたる『なかにし礼』さんの遺作の小説に、童子さんの父親のことは詳しく書いてますが、母親の情報は殆どありません。
けれども『チィチィよハァハァよ』では父親とセットで恨みを歌っていますが、歌でもっとも沢山出て来るのは母親の方なのです。
童子さんは3人いるきょうだいの中の真ん中で次女になります。長女は歌にも出て来ない、謎の存在ですが。弟は『端午の節句』で出てきますし、『淋しい猫』に出て来る『お前』というのは弟のことではないかと推測します。猫は童子さんのことで、死のことを口にする姉に「死んでしまえば良い」と言っているみたいなのです。そして『球根栽培の唄』にも『お前』が出てきます。これも弟のことだと思います。やはり「死んでしまえば良い」と口にしているらしいです。
けれどこの弟は母親とセットで2つの歌にも出て来るのです。『きれいに咲いた』『セルロイドの少女』の2つです。その中で母と弟は繋がっている絆を感じますが、童子さんは疎外されているような印象を受けます。勘ぐるに父親が生涯離さなかった家長制度の影響が母親にもあって、息子の世話になる為にベッタリ?だったのではないかと思うのです。
その他に母親は単独で『地平線』と『伝書鳩』に登場します。
だから母親は5回童子さんに歌われていて、弟も5回、父親は3回なので、とても多いのです。そして3人とも登場の仕方は必ずしも好意的なものではありません。
特に『地平線』は題名を変えて、童子さんの後の作品にも再登場しますが、そこではお母さんの優しさが身近なものではないとはっきり言っています。
童子さんは彼女独特の秘密めいた言い方で歌いますが、地平線の向こうにあるやさしさなんて肌で感じることができないものです。
つまり優しさを感じたことがないということでしょう。
そんな愛?を受けて彼女は育ったのです。
どんなに彼女が寂しかったか想像に絶するものがあります。
だからこそ『男のくせに泣いてくれた』とか 『君は変わっちゃったネ』で自分の淋しさを聞いてくれたAさんのことを優しいと慕っているのだと思います。彼女にとっては淋しくて淋しくて死にそうなとき淋しい海の中で溺れそうなときに必死にしがみついた藁束のようなものだと思うのです。Aさんのことを藁束呼ばわりするのは失礼ですが、物のたとえですので勘弁してください。
『さよならぼくのともだち』の7番でAさんのことをとっても好きで、自分にとって良い友達だったと言いながら泣いて歌った童子さんの気持ちは分かる気がするのです。
友達を失った悲しみは勿論のことだけれど、その背景に童子さんの底知れぬ淋しさがあると感じた私でした。
ですから『ぼくたちの失敗』の5番で駄目になった僕と言う言葉がありますが、Aさんという心の支えを失ってがっくりして自堕落になってしまった僕という意味だと思います。
別の解釈もあるようですが、あくまで私はこの解釈がしっくりくると思うという意味で他の方の解釈にダメだしをする積りはありません。
ところで『さよならぼくのともだち』の3番に汗をかいて寝ているAさんのことが歌われていますが、『まぶしい夏』で睡眠薬飲んで汗をかいて寝ている姿が描写されています。
それが自殺未遂なのかどうかは不明です。
でも借りていた太宰の本が形見になったと言っていますが、童子さんはAさんの死を1通のハガキで知ったと言いますから、この場面では死んではいないのだと思います。
ただ何かの情報で、Aさんが故郷から送って来た杏子の実を食べ散らかして死んでいたという言葉があります。
たとえばAさんは杏子の名産地の長野県出身かもしれません。山形とか山梨の可能性もありますが、地方から東京の大学に出て来て学生運動をしていたらしいです。
そして杏子の実を食べ散らかすというのですが、杏子の実は食べ過ぎると体内の成分と反応して青酸化合物を生むらしくて、それで死ぬ場合もあるとか。
どうやらそれが原因で死んだのではと思われる節があるのです。
ピラビタールのような薬を使ったりするAさんには薬学的知識があったのかもしれません。私は勝手にAさんは長野県の農家出身の薬科大学の学生さんではなかったのかと想像しています。
そして可能性として事故死と自殺の二択がありますが、私は後者だと思っているのです。
いずれにしてもAさんの死は童子さんにとってかなりの衝撃だったようです。
それがきっかけで歌手デビューすることになってしまったのですから。
例の父親は童子さんのデビューに関して一切口を出さないように念書を書かされたそうです。デビューに関しては敏腕女性プロデユーサーとマネージャー役の前田さんとなかにし礼さんが立ちあったそうです。
そのときに童子さんを一種の仮面歌手として通すという作戦があって、それは最後まで守られたとのことです。童子さんには失礼ですが、特に美少女という訳でもなく顔は平凡なので声の可愛さを印象付ける為にああいうスタイルにしたのだと思います。
夫の前田さんもイラストレーターだった人ですが、自分の顔を露出するのを極端に避けていたので、夫婦共々面は公には割れていないのです。
そのことが童子さんを神秘的にする助けになったのかもしれませんね。ことさら仮面歌手として実名を伏せていたのには、本人がメジャーな存在であるなかにし礼さんの姪であることを知られたくなかったということです。叔父の七光りでデビューしたくないということ、そして敏腕プロデューサーであるMさんも童子さんの雰囲気から反体制的なスタイルで売り出したかったというのが原因しています。
ところで前田亜土さんとの関係ですが、童子さんが21歳の時には結婚していたことが分かっていたのです。表向きは30歳になって歌手を引退してから結婚したということになっていましたが、ある事をきっかけにその事実がわかってしまったのです。なにかの報道で前田【旧姓中西】美乃生の名前が出てしまったということです。そのときの童子さんは21才でレコードデビューを控えていたということです。実際は22才~30才までが童子さんの活動期です。その為童子さんの正体はとにかく隠さなければならなかったという訳です。ですから童子さんがAさんのことを涙ながらに歌っていた頃、前田亜土さんはマネージャー兼夫であったわけなのですが、彼は童子さんよりも15才も年上なので、温かく包むように支えていたのだと思います。そして歌の中の『君』や『あなた』がAさんのことなのか前田亜土さんのことなのかはある程度判断しなければならないかなと思うのです。
ところで童子さんは聞くところによると最初は自分の歌を他の誰かに歌って貰う積りだったようです。自分が目立つことが嫌だったからです。けれどもこの歌は作ったあなたではないと本当の意味で歌えないと言われて説得されたとか。その後先ほど述べた仮面歌手作戦になったようです。どちらにせよ、収入の道が他になかったのと青春の悲しい思い出とトラウマを解決する為とはいえ、8年間も身分を隠し結婚の事実を隠し仮面歌手として歌い続けた童子さんは大変な思いをしたことと思います。身バレしたらその時点でファンが離れて行くし、自分の歌手生命も終わると思っていましたから。その後『高校教師』の二度のブームでそのたびに出演依頼が殺到しましたが、家の事情や健康上の問題がなくても彼女は決して出演要請に応じなかったのは分かるような気がします。
ところで『端午の節句』という歌で童子さんは悲しみを歌ってますが、どこが悲しいのかとても分かりづらいのです。
それは童子さんは家族のことをはっきり言うことができなくて、曖昧に胡麻化しているからなのです。
童子さんはもともと他者に伝えるのが主ではなく、自分が歌って発散するのが主だからなのです。
だからその歌だけを聞いても何のことか分からないことが多いのです。
様々なことを考えて、童子さんの母親は父親と同じく家長制度の影響下にある人ですから、息子である弟を大事にして童子さんのことはほぼ無視していたのだと推理します。
とすると男の子の節句に菖蒲湯を焚いたり、鯉のぼりを上げたりしたのだと思います。そのことが童子さんには辛かったのだと思うのです。その分自分には何もしてくれない母親です。優しさを地平線の向こうに捨てて来た母親ですから。
また愛を受けられないで悲しく淋しく死にたいと零したとき、弟は「死ねば良い」と言ったのだと思います。それが『淋しい猫』と『球根栽培』の歌の両方で『お前』と呼ぶ人に言われています。童子さんが『お前』と呼べるのは弟しか思い浮かびません。
そして例の父親ですが、たった一度だけどまだ幼い童子さんをお祭りの夜店に連れて行ったことがあります。そして珍しいことにアイスキャンディーを買い与えて食べさせたそうです。そんなことは初めてだったのでしょう。喜んで食べていた童子さんですが、父親が手を繋いでくれずにどんどん行ってしまうので、追いつこうとして転びそのときにアイスキャンディーの棒で喉の奥を突き刺して血が出たそうです。でも童子さんは父親が買ってくれたキャンディーを血を出しながら決して離さずに食べ続けたのだとか。
この逸話一つでどれだけ童子さんが淋しかったのか想像できますね。
ところで童子さんの遺族ですが、童子さんのことは深く詮索して知ろうとせずに神秘的なままにしておいて欲しいと要望しているのだとか。そうですね、つついて掘り起こしても悲しい事実しか出て来そうにないからだと思います。
童子さんの歌は大雑把に分けて三種類あると思うのです。
1つは家族絡みのこと。もう1つはAさんに関すること。そして最後は童子さん自身の心の問題です。
家族が原因で淋しい思いをしそれを歌にしたものが一つ。その淋しさを受け止めて共に泣いてくれたAさんロスの気持ちを歌にしたのが二つ。そして3つ目はそれ以外のものです。つまり家族ともAさんとも関係ないものを歌った歌です。『たとえばぼくが死んだら』なんかはそうですね。それとか『憂鬱です』とか『ぼくを見つけてくれないかナ』などは自分自身の孤独な心や死と向き合って作った歌なのだなって思います。
そしてこの中には難解な歌も結構入っています。
私が思うのは『ぼくは流星になる』という歌では満員電車の中で何かあって悔しい思いをしたことを歌っていることです。
満員電車で起こったとっても悔しいことって何でしょう? お金がたくさん入った財布を盗られたとか……よしましょう、こういう詮索は。でも、悔しかったのですよね。流星になってしまうくらいに。
これはそれとは別件ですが、後もっとも気になるのは『ぼくのせいですか』『麗子像』『雨のクロール』の3曲です。どうも17才のときに海で何かあったようです。そこで誰かが一度死んだような歌い方をしています。
誰かとは童子さんが自分のことを隠すために三人称にして歌っているのだと思います。
一度死んだというようなことってどんなことでしょう? 人食いざめに襲われそうになったとか?
と言う仮説を立ててみました。それ以上はここでは書きません。あくまでも仮説ですから。
ところでこの中の『麗子像』の2番では麗子は白いワンピースを着ています。そして自分に恋してショパンの曲を踊るのです。ここから私は麗子とは童子さん自身のことであると同時に空想の中の分身の女性でもあると思いました。この白いワンピースがヒントになっているのです。
白いワンピースの女性は『サナトリウム』では童子さんを見舞いに来てくれた女性で一緒にソーダ水を飲んだり、チェリーを頬張ったりする女性です。この女性は童子さんが創りあげた架空の女性です。という解釈です。ここでは童子さんはもうすぐ結核で死ぬようなことを暗示していますが、こういう死に関する言葉は童子さんがよく使います。いつも死と隣り合わせの感覚を持ち続けているという感じです。
また童子さんは『愛情練習・ロシアンルーレット』でこの女性と踊っています。どうしてこういう女性を登場させるのか、童子さんはきっと女友達がいない人付き合いの悪い人なので、空想の上でこういう女性を登場させて一緒にソーダ水を飲んだり踊ったりしたかったのでしょうか?
また他にも『151680時間の夢』という歌があります。151680時間は6320日になります。それは17、3年になります。この年数は生まれてから17才の途中までの期間でしょうか? そしてこの期間は夢のような非現実のようなものだと歌っています。ここで『あなた』が出て来ますがそれが誰なのかははっきりしません。Aさんのことなのか、または自分が勝手に創り出した人物なのか? 夢の続きをずっと見続けているとそれはもう夢ではないというようなセリフも最後に入っています。
『ぼくは16角形』という歌もあります。歌を聞いて見ると、どうやらこの多角形は『自己交叉多角形』と言う種類のようです。つまり多角形の辺が同じ多角形の辺同士交わるもので、グチャグチャと出鱈目に直線を一筆書きのようにして線を交叉させながら書けば良いのです。つまりこういうグチャグチャな自分の気持ちを表現したかったのかなと思いました。実家の問題もあるし、Aさんロスは結構長い間続いていたし、その代わりのものが見当たらなくてグチャグチャしてるのかなと……ちょっと雑な分析ですが、そんな感じの歌かなと思いました。
もう一つ『今日は奇蹟の朝です』という難しい歌があります。聖母マリアが浮上して奇蹟を起こすというような歌ですが、どうも私には皮肉のように聞こえるのです。『八月の海』という言葉と『悲しい』と言う言葉が出て来ると、先ほど書いた夏の海で出会った人食い鮫?のことを思い出します。どうして助けてくれなかったんだ?助けろよ、と歌っているみたいな気がするのは私だけでしょうか? (本当に私だけだったりして)
最後に再びAさん関連の歌に戻りますが、正確に言うとAさんは出て来ません。『海を見たいと思った』という歌です。Aさんロスで淋しがっているうちにもう若くはない自分に気づき、なにか救いを求めようと海を見たいと思うのです。でももう自分は無駄に年月を過ごしてしまって、そこが行き止まりの海だと絶望するのです。そこで『ニューヨークからの手紙』という歌が登場します。
行き止まりの海だと言うなら、実際に海の向こうのアメリカに行って見ようと、誰が提案したのか分かりませんが、そういう機会があったのでしょう。そこで童子さんは狭い日本で悩んでいたことと決別しようと、恋人や友達や菜の花に別れを告げるのです。自分のことは忘れて欲しいと。風に載せて日本の国に向かって歌ったのですね。と言う解釈です。
以上、なにやら勝手な想像で書いてみました。実際歌詞を書いて説明できなかったのは著作権に触れるからなので、勘弁してください。
また機会があれば、森田童子さんの歌について語りたいなと思ってます。
それではお元気で。
追記
ところで童子さんの歌は3種類に分けられると書きましたが、どれがどの種類なのか書いていませんでした。そこで書きだしてみたいと思います。★はあまり人気がなく、わりと知られていない歌です。そしてできる範囲で各歌の題名の最後に、歌い方について少年の声の場合は♂、女性の声の場合は♀、ハスキーまたは息もれ音の場合はH、一人称が僕の場合はB、私の場合はW,二人称が君の場合はK,あなたの場合はAという略号を付けます。それを参考にあなたなりの分析の参考にして下さい。なお、声が男性か女性かの判別はあくまでも私の主観によるもので、絶対てきではありません。♂♀という両方の併記をしているものは判別不能か両面の要素を持っていると感じた場合です。なお、私見ですが童子さんの性自認はあくまでも♀だと思います。けれども親の影響もあって、♀的なものに嫌悪または忌避感を持っていた為に、そしてAさんとの友情関係から♂的な自己意識も持っていたと思います。ただそれは少しずつ崩れて♀的な要素も後からどんどん加わって行ったような、そんな印象を持っています。あくまでも私の主観的な感想です。それと……ロックというのかな? 童子さんがライブとかで激しいリズムで歌っている曲をRという印をつけておきます。
またそれらの曲が発表されたアルバムの名前もギリシャアルファベットの文字で付け加えておきます。
オリジナル盤:1975「good Byeグットバイ=α」、1976「マザースカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=β」、1977「ア・ボーイ=γ」、1978「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤=δ」、1980「ラスト・ワルツ=ε」、1982「夜想曲=ζ」、1983「狼少年wolf boy=η」 ベスト盤:「森田童子全曲集=θ」、1981「自選集・友への手紙=ι」、「ぼくたちの失敗 森田童子ベストセレクション=κ」、「たとえばぼくが死んだら 森田童子ベストセレクション2=λ」、レコードシングル盤・CDしんぐる盤:1989「さよならぼくのともだち/まぶしい夏=μ」、「ぼくたちの失敗/ぼくと観光バスに乗ってみませんか=ν」、セルロイドの少女/蒼き夜は=ξ」、「ラストワルツ・菜の花あかり=ο」、「ぼくたちの失敗・男のくせに泣いてくれた=π」、「たとえばぼくが死んだら=ρ」 サウンドトラック盤:1989「グッド・バイ=σ」、「高校教師=τ」
森田童子のプロモーション用LP:「森田童子の世界=ʊ」
2003「森田童子ベストコレクション=φ」 以下ギリシャアルファベット文字で示した数で一番多いのは童子さん側が一番多く発表したい曲で、少ないのはその逆です。特に家族に関したものとか聖母マリアに関する曲は、あまり知られたくないので一回くらいの発表でやめてますね。
【Aさんに関わるもの】20曲
★『君は変わっちゃたネ』 (註5)♂BA (5) α δ θ σ τ
『さよならぼくのともだち』♂BK 本文中に説明(7) α δ θ ι κ μ ʊ
『ぼくと観光バスに乗ってみませんか』♂BK註29 (7) β δ θ ι ν ʊ φ
『ぼくたちの失敗』♂HBK 註33 (9) β θ ι κ ν π τ ʊ φ
『赤いダウンパーカーぼくのともだち』 (註1)♂BK (4) ε ι λ φ
『おとこのくせに泣いてくれた』♀WK 本文中に説明 (4) β κ π τ
『終曲の為に第3番』♀B 註15 (2) γ ι
★『センチメンタル通り』BK 本文中に説明 (4) α δ θ ʊ
★『友よ泣かないのか』♂BK 註13 (2)δ σ
『孤立無援の唄』♂BHK 註21 (3) ζ κ φ
★『ピラビタール』♀H 本文中に説明 (2) β θ
『淋しい雲』♀BK 註16 (2)α φ
『まぶしい夏』♀BK 註34 (5) α θ ι μ ʊ
『早春にて』♀BK 註30 (4)α θ ι ʊ
『君と淋しい風になる』♂BK註37(4) γ θ τ φ
『蒼き夜は』♀BK 本文中に説明 (6) γ θ ι κ ξ ο
『ラストワルツ』♂A 註14 (8) ε ζ ι κ ο ρ σ φ
『ぼくが君の思い出になってあげよう』♂BK (註2) (3) γ σ φ
『風さわぐ原地の中に』 註28 ♂おれ・お前 R (3) δ ι ʊ
★『驟雨』♂BK 註39 (1)α
【家族に関するもの】14曲(実質11曲)
『淋しい素描』(父)♀ 本文中に説明 (2) γ ι
★『グリーン大佐答えてください』(父)♀W 註17(1) ε
★『地平線』(母)♂B 本文中に説明 (4) α δ θ ʊ
『狼少年・ウルフボーイ』(上と同曲)♂B 註3 (1)η
★『伝書鳩』♂B(母) 註6 (2) β θ
★『チィチィよハァハァよ』本文中に説明(父母)♂BA (1) λ
★『海が死んでもいいョって鳴いている』(上と同曲)♂BA (2) ε λ
『ひとり遊び』(上と同曲)♀BA (1)φ
★『きれいに咲いた』(母弟)R ♀BK 註20 (3) ε λ σ
★『セルロイドの少女』(母弟)♂ 註25 (4) γ θ ξ ο
『球根栽培の唄』(弟)♂Bお前 註10 (2)η λ
★『淋しい猫』(弟)♀お前 本文中に説明 (1) ζ
★『端午の節句』(弟)♀ 本文中に説明 (1) α
★『船がくるぞ』♂BK 註19 (2) ζ λ
【それ以外のもの】23曲
★『海を見たいと思った』♂B 本文中に説明 (4) β δ θ ʊ
『ニューヨークからの手紙』本文中に説明♀W3人称 (友だち・恋人)註9(2)β ι
『たとえばぼくが死んだら』♂B 註31 (4) ε λ ρ φ
『憂鬱です』♂ 註26 (1) η
『ぼくは16角形』本文中に説明♀W R (3)ζ λ φ
『151680時間の夢』♂WAB 註24 (2) η λ
★『ぼくを見かけませんでしたか』♂B 註22 (2)γ θ
『ぼくを見つけてくれないかなァ』♂BK 註27 (2) η λ
『みんな夢でありました』註38 ♂BKH (4) ε λ τ φ
★『今日は奇蹟の朝です』♂B 註23 (1)β
『ふるえてるネ』♂BK 註32 (4) γ θ ι φ
『哀悼夜曲』♂♀ 註36 (2) ζ κ
『逆光線』♂B 註8 R (6) β δ θ ι κ ʊ
『サナトリウム』♀BA 本文中に説明 (2) ζ κ
『愛情練習 (ロシアンルーレット)』♂♀A(註4) (2)η λ
『ぼくのせいですか』♂BA 本文中に説明 (2)η λ
★『麗子像』♂A 註41 (1)ζ
『ぼくは流星になる』♂B 本文中に説明 (1) η
『雨のクロール』♀♂KB 註35 (7) α δ θ ι κ ʊ φ
『春爛漫』♂ R 註18 (4) β θ κ ʊ
『菜の花あかり』♂A 註11 (4) ε ι λ ο
『蒸留反応』♂BK 註7 (3) ζ κ φ
『G線上にひとり』♂♀HBA 註12 (4) γ θ κ φ
以上計57曲(実質54曲)
以上です。そして割と注目されていない曲に童子さんの秘密が隠されているような気がします。特に家族に関する歌に★が多いですね。
人気がないのは意味が良く分からない、というのもあるかもしれません。でも童子さんは自分の為に歌を作って歌う人なので、自分で意味が分かれば良いや、ってところがあるから厄介なのです。そういう童子さんでもある2曲に関しては時を隔てて別の題名をつけて繰り返して発表しています。『地平線』は『狼少年・ウルフボーイ』という派手な題名をつけて歌詞を2番分増やして発表しています。それで注目されました。それから『チィチィよハァハァよ』は最後の最後で結構歳をとってから『ひとり遊び』という題で復活させていますが、これにはセリフの部分が抜けています。でも最後の声だということで注目されました。そして実はその前にも別の題名『『海が死んでもいいョって鳴いている』でも発表しているので、3回発表したことになりますね。私が思うにはこの2曲こそ童子さんがもっとも訴えたかったことではなかったかということです。童子さんの心の淋しさの根源はこの2曲にあるのではということです。特に3回発表した曲は一番強い思いがあるのでしょう。
あと、学生運動に関連する歌ですが、『みんな夢でありました』以外は『友よ泣かないのか』とか『孤立無援の唄』が少し関連があるのかなくらいで、割と見当たらりません。童子さんはAさんが学生運動をしていて一緒に行動をしてはいるものの。そんなにそれをテーマにして数多く歌っているようではないと思います。ただ、彼女は自分の日常や現実に忌避感を持っていた為、なにか非日常的で非現実的なものを学生運動の中に見ていたのかもしれません。自分の嫌いな大人社会に立ち向かって行く学生運動に夢をもったのかもしれないのです。それも甘い夢です。戦い続けていればその間ときめいていられる。そして戦い続けていればいつか自分にないものが与えられるというような幻想です。童子さんにとってのそれはきっと『得られなかった父母の愛に替わるなにか』なのだとは思いますが……。
ここからはほぼ妄想に近い私の憶測ですが、『さよならぼくのともだち』の5番で学生運動の同志が警察に捕まったときから、やさしかったAさんが変わってしまったと歌っています。ではその前までは優しかったAさんは童子さんの現実逃避的な理想論を受け入れて優しく包んでいたのでしょうか。それが仲間が逮捕されたことをきっかけとして、そんな悠長なことは言ってられないという風に変わって行ったのかもしれません。Aさんたちの運動は敗北に終わり国家権力の前で潰されて行くのです。でも童子さんはその事実を認めたくないし、いつまでも夢見ていたかったのかもしれません。
『君は変っちゃったネ』では、空想の上でのAさんがとても大人びているのに、自分は相変わらず甘い夢を追っていると歌ってます。そしてそういう自分のことを子供っぽく見るだろうなと。『ぼくを見つけてくれないかナ』の2番では、いつもバカな夢をみているぼくを見つけて欲しいと歌ってます。『ぼくたちの失敗』の3番では、地下のジャズ喫茶に変われないぼくたちがいたと歌ってます。そうです。童子さんはいつまでも大人になりきれない変われない子供のままの自分が心の中にいることをいつも気にしています。それは大人(親)からきちんとした愛情を受けた経験がないから、自分が大人になれないのではともとられます。そうは言ってもどんな人間にもそういう部分はあると思うのですが、童子さんの場合はその思いが強かったのだと思います。でもAさんは敗北して大人の世界に飲み込まれてしまいましたが、童子さんはいつまでも夢を見続けたとも言えるのです。自虐的に子供っぽいとか言ってますが、逆にそれが悪いことだとも言い切れない気もします。
それとAさんに関する歌の最後に『ぼくが君の思い出になってあげよう』と『風さわぐ原地の中に』を入れたのは私なりの独断です。前者はとうの昔に亡くなったAさんが童子さんに語り掛ける形で歌っているのだと思います。つまり空想上のAさんに自分を慰めて貰いたくて創ったのだと。それに対して後者の方は雰囲気は真逆で今度はロック調ですが、これもAさんが童子さんと一緒に街から街へ飛び回って行こうぜってガンガン歌っているのだと思います。その中で19のAさんが17の童子さんのことを色々評価しているのが思わずほほえましく思います。Aさんとの関係の別の面を見たようで楽しくなります。
最後の最後になりますが、『ぼくたちの失敗』の5番で出て来る『あの子』とは誰でしょう?そして『センチメンタル通り』にも出て来る『あのこ』とは?
Aさんの恋人なのでしょうね。それが『風さわぐ原地のなかに』の4番に『あの娘』として出てきています。でもここではAさんは『あの娘』の所には帰らずに童子さんと一緒に行くことを歌っています。
私はここでも思わず頬を緩めました。
さてもしここで童子さんが私のこの文章を読んでいたとしたら、どうおっしゃるでしょうか?たぶんこうおっしゃると思います。すなわち「この文章で書かれていることは事実と違うところが多く散見されるので、こういう文は書いてほしくないし、読んでほしくありません」と。
この追記の部分は後からつけたしました。以上で本当に終わりたいと思います。ではまた。
*本文で書けなかった曲の解釈は註1~註32の中で致します。
註1 『赤いダウンパーカーぼくのともだち』の3番の歌詞の中で言っていることは童子さんの過去のことを聞いてしまったAさんがその悲惨さに同情して悲しむことを歌っていると思います。そして5番で声をたてずに笑ったのは『チィチィよハァハァよ』でも歌ってた童子さんの悲しい癖なのです。
註2 『ぼくが君の思い出になってあげよう』の『ぼく』はAさんのことだと説明しましたが、そういう面もありますが、実は童子さんのことでもあると思っています。なぜなら童子さんの心の中に生きているAさんはあの頃と同じく歳をとらないままなのに、童子さんはどんどん歳をとって行くからです。年上だったAさんよりも年上になってしまい、もう若くはないぼくになってしまったのです。そういう意味も込めて歌っているので、謎めいて分かりづらくなっていると思うのです。『ぼく』がAさんの場合は、シャイマン・ヒッキーさんという方が以下のように書き込みをしています。参考にして下さい。「死別した友達の彼が童子さんに語り掛けている形式の歌ではないかと思っています。童子さんがこのような形で喪失感を埋めようとしてるのかなと。それにしても、彼はきっとこの歌のような優しい人だったのでしょうね」 つまりこの歌は『ぼく』一つとっても二つの意味が考えられ、歌の解釈をしづらくしています。このようなダブルスタンダードを作って理解しづらくしているのは、童子さんの歌にときどき見られます。
註3 『狼少年・ウルフボーイ』では『地平線』の歌詞に付け加えて、自分のことを狼に育てられたと歌ってます。これも二通りの解釈が成り立ちます。一つは狼のような酷い親に育てられたという解釈。2つ目は、実際の狼少年や狼少女のように、人間の親からはぐれて野生の狼に育てられた実話を例にして、全く放置されて育ったから人の愛を知らないことを訴えているのだと思うのです。どちらなのかは皆さんの想像にお任せしたいと思います。また童子さんはラジオ番組井出演したときにこんなことを話しています。実際に狼に育てられた子供の記録映画を見たことを話していました。そしてその子が保護されて人間の言葉を教えられた時、最初のうちは物に向かって話しかけて練習してたと言います。そのことに凄く感心興味を持ったことを相手の方に話していました。この題名を考えたとき、この話が念頭にあったのではないかと思いました。これは蛇足ですが、童子さんは『友よ泣かないのか』の曲の中で『風、時、夜。荒野、故郷、終わり』に泣かないのかと呼びかけています。まさしく人間以外のものに呼びかけています。でもこれは詩作上の修辞的問題なので多分狼少年とは関係ないです。それとこの曲が入っているレコードには歌詞カードが入っていなかったそうです。親が目にしたらまずいと思って入れなかったのでしょうね。ファンの人は何かの謎みたいでワクワクしたとか……。蛇足でした。
註4 『愛情練習 (ロシアンルーレット)』については相談の結果、前説を書き直しました。「恋は盲目」と言いますね。だから目隠しをして踊れば恋の練習になるのではという、割と乱暴で大雑把な理論で仮想の相手として自分の分身を選び踊ってみたのではないかと。実験のような練習ですからAさんとか亜土さんを巻き込んではいけないから、自分自身で実演してみせたという設定です。たとえ空想でも知らない人と踊るのは嫌だから分身と踊ったのでしょうね。目隠ししてテーブルやワイングラスのあるところを踊る。これが盲目の愛情なのか。まさにロシアンルーレットみたいなものだなあと。通常の男女の愛というものを父親の姿を見て否定的にみているので、まさにそのことを皮肉っている部分もあるのかもしれません。同時に愛というものに対して怖がっている童子さんがいます。Aさんとの友情、亜土さんの愛は特殊なもので、それと区別して一般的な愛を俯瞰して表現してみたのでしょうね。一般的な愛というものにはこういう危険が潜んでいると。いちおうこういう感じで解釈しておくことにしました。
註5 『君は変わっちゃたネ』 の題名なのに、歌詞の方は変ったことについてあまり言及していません。久しぶりにAさんと会ってその変容ぶりを歌っているのかというとそれはありえません。Aさんは、童子さんの元を去ってからそのまま亡くなってしまったと考えるのが妥当ではないでしょうか。そのことは『ぼくたちの失敗』の5番と同じで、もし君が今のぼくを見たとしたらという空想上の話なのです。そしてこの題名も『さよならぼくのともだち』の5番の中で歌っている、変わってしまったと同じ意味だと思います。言外のやさしかったAさんがそうでなくなったことを悲しんで歌った歌なのだと思います。だから題名で言っている『変わっちゃった』姿というのは生きていていた頃に最後に見た様子のことを言っているのだと思います。Aさんに縋りつくような気持ちで愛すしかなかった童子さんは異性としてでなく友達として彼と繋がっていたと思います。けれども最後に余裕のなくなったAさんは童子さんから離れて別れ際にお酒を飲んで踊り明かし始発の電車であの娘と去って行ったのでしょうね? その悲しい別れは『早春にて』で歌われているような気がします。そして『センチメンタル通り』でもです。ですからこの『君は変わっちゃたネ』は変る前のAさんのことを思い出して歌っている部分もあるような気がします。この歌を作った時点でAさんは死んでいるので、空を見上げながら話しかけているという図を思い浮かべてしまいます。ですからこの歌のどこまでが現実でどこからが空想なのかは誰にも分かりません。
註6 『伝書鳩』の最初の4行は涙が出るような悲しさや淋しさを表現していると思います。後に続く5・6・7行は『鳩小屋=自分の胸』から『伝書鳩=自分の心』が失われてしまったと告げていると思うのです。そして悲しさを堪えている声が漏れている様子を。8・9・10行は自分が(母)親の支配から離れて自由になろうとしていること、そしてその心の叫びを表しているのではと思います。その次の4行は遂に自分が親の束縛から解放されて飛び立ったことを表していて、(母親に)この私を撃ち落とせるものなら撃ち落としてみてごらん、と挑発しているのだと。後の唸り?声は、今まで溜まっていた鬱憤を吐き出す音かそれとも喜びが漏れた声かわかりませんが、それを鳩の鳴き声と重ねているのかもしれません。これはかなり母親に対して挑発的な内容なので、分かりづらいように作っているのではないかと。母親は童子さんにとって表立っては逆らえない存在だったので。
さらにライブでは一人で歌っていましたが、アルバムでは鳩の唸り声の部分を児童合唱の形にして和らげています。最後の部分で最大にして最高の音程で絶叫式に歌うのは『端午の節句』でも見られますが、家族絡みになると、彼女の恨みが最高潮に達することが多いのは、そこに感情のしこりがあるからだと推理します。絶叫型の曲の終わり方は家族関係以外でも『驟雨にわかあめ』でも見られますが、この場合は孤独の叫びで家族関係とは別ですが。ここで鳩の比喩が二通りの使い方をされている気がします。伝書鳩が帰って来ない事と、自分自身が背中に羽根を生やして鳩になることの物語的なまたは論理的な一貫性がない気がするのは、童子さんがわざと解釈され辛くしているような気がします。感覚的、場当たり的な空想によって煙に巻いてる部分があるのは、母親のことだからはっきり解釈されたくないとも考えられます。
註7 『蒸留反応』についてはシャイマンヒッキーさんが、童子さんの気持ちになって以下のセリフを添えてくれています。この歌を歌う童子さんの気持ちを想像して語らせてみたという感じですね。
「ぼくは幼い少女を見たのです。それはもしかするとぼく自身の小さい頃の姿だったのかもしれません。いま28才のぼくが5才くらいのその女の子と長いマフラーでつながりました。どっちもぼくだから離れたくなかったのです。そしてぼくもひとりで行くのが淋しかったから。そしてぼくはとっても腹を立てていました。またはとても激しく熱い感情に囚われていました。つまりぼくは沸騰していたのです。だから雪の降りしきるこの道を歩いて冷やすことにしたのです。沸騰したぼくの心は冷やされて、純粋なぼくたちが蒸留されて行きます。混ざりものだらけのぼくが先に進むにつれてどんどん純粋なぼくになって混ざりものに絡まれ縛られていたことから解放されて行きます。雪よ、降れ。んーーんーー、良い気持ち。えっ?このまま行くと凍死してしまうって? そうかな? それなら、それも仕方がないんじゃないかナ……」
ここでいう混ざりものというのは諸々の幼い頃に受けた心的外傷体験ではないでしょうか? やはり童子さんの淋しさの根幹にあるものは親の愛の不足のような気がするからです。そういうものを蒸留によって取り除き純粋な自分自身になりたい。けれどこの曲の最後に弔鐘が鳴るレコードもあることから、純粋な自分の行きつくところは『死』ではないかと童子さんは思ってるのかもしれません。
このように童子さんの歌には自分の分身を作って、自分自身を客体化して見つめるという手法をとっている曲が多いです。『菜の花明かり』『サナトリウム』『ラストダンス』『ロシアンルーレット(愛情練習)』『麗子像』『雨のクロール』などです。そして分身を人間以外にしたもの『ふるえているネ』なども入れると、さらに増えると思います。童子さんが心療内科の治療法を知っていたとは思えないのですが、無意識にも自分を客体化して自分を見つめなおす自己治療法を使っていたのには驚きがあります。まさに彼女の天才ぶりを見せつけられた思いがします。
註8『逆光線』にはセリフが付いています。1975年のNHKのスタジオライブで紹介したときは、最初に「君は口いっぱいに杏子の実を頬張って死んでいました。郷里から送って来た杏子の実が部屋いっぱいに散らばっていました」の後題名を言って演奏しましたが、それはアルバム版では歌い方はもっと大人しかったのですが、スタジオでは何故か激しくビートを聞かせて歌いました。アルバム版では歌の後に「夏休みのとても暑い日でした。郷里から送って来た杏子の実が君の部屋に散らばっていました」とセリフが入っていました。童子さんは一枚のはがきでAさんの死を知る訳ですが、そのときにかその後でかは不明ですが、死んだときの様子を知らされていたのです。この歌のときにAさんの死をセリフで添えるということは、彼女が動揺して後追い自殺を企てたということになります。季節は汗の出る暑い夏、青い空、白いランニングシャツ姿の童子さんは安全カミソリでリストカットをしたのだということです。後追いとまで行かなくても狂いそうな気持を落ち着ける為にそうしたのかもしれません。どれだけAさんの死がショックだったか伺えます。なお、童子さんの歌で『青い空』の青が悲しみの色としてたびたび表現されるのは、このときのことと深く関係しているのだと思うのです。
註9『ニューヨークからの手紙』の中で『恋人 ともだち』に別れを告げていますが、両方ともAさんのことをさしていると思います。Aさんと童子さんの間には恋愛感情はなかったのかどうかについてですが、当然異性同士だったので可能性はあったと思います。けれども童子さん側には自己表現として『女』を選ぶことに忌避感があったらしいです。それは父親の女道楽を身近に観察していたからだと。当然童子さんはAさんに対して『女』を出さなかったのだと思うのです。Aさんは童子さんのそういう姿勢を尊重して男女の関係にならなかったのだと思うのです。だからAさんは異性を求めるとしたら『あの子』『あのこ』『あの娘』に向かう訳です。そして童子さんの性自認は女性であるので、当然Aさんに異性として恋をしていた部分があったのだと思います。では何故『ともだち』としての立場を守り続けたのか? 私が思うに、親の愛を受けなかった童子さんは子供の時に『すりこみ』ができていなかったのではないかということです。そしてその分をAさんに対して『すりこみ』をした、ということではないかと。だとすれば童子さんは恋愛感情を前面に出してもし二人の関係が終われば、『ともだち』という立場も失う恐れがある、だから絶対にそうならない為に友情を守りたかったのだと思うのです。童子さんの中ではAさんは恋人としても位置付けてあったのだと思います。だからこの曲の歌詞の中にあるようにAさんのことを『恋人 ともだち 』と併記して歌っているのではないでしょうか。 さらに童子さんのAさんに対する感情が、季節外れの『すりこみ』によって、保護者のそれに対する子供っぽいものであることを彼女はいつも自覚していたのだと思われます。けれどもほんの少しだけ年上の異性にすぎないAさんにそういう感情を持つことは童子さんの孤独感をますます深めることになったのかもしれません。Aさんの死後ますます……。
註10 『球根栽培の唄』は童子さんの歌の中でもとても難解なものですが、曲中の台詞でページをめくって何かを読んでいる描写があります。そしてそれを空しい思想のように語っているのです。それは球根栽培の本で日本共産党が革命による理想実現の方向を転換をする前に出した『火炎瓶の作り方』の教本らしいのです。童子さんはどうやらこの本の中身は空しいものだと反発しているような気がします。この本で言ってることと自分は別だ、とでも言うように。童子さんの弟さんの情報についてはないに等しいのですが、童子さんは弟さんをこの本に重ね合わせることによって、暗に批判しているのではないか? 淋しくて空しい……孤立無援……つまり誰も共感しない生き方をしていると。そして童子さんは愛憎の念を弾丸のように壁を撃ち抜くはずだと語って、弟さんに対する自分の強い思い?を語っているような気がします。2番では赤ヘルメット……たとえば日本赤軍のような過激な運動の派の学生が被っているようですが、それが弟さんが実際に被っていたか、または何かの象徴で歌の中で被せていたかは不明です。でも弟さんが学生になるころは全共闘運動もほぼなくなっていると思うので、私の想像では童子さんの空想の中で彼に赤ヘルメットを被せていたのではないかと思うのです。彼を同じように過激な人間だとでも言うように。別の歌で酒を飲んでは喧嘩を売る彼のことを歌っているようなので、そういう面を火炎瓶と重ね合わせて同じだと言ってるような気がします。そして彼のことを火炎瓶に喩えて、そっちが火炎瓶ならこっちはモデルガンだと対抗?しているようなのです。これはあくまで私の空想上の解釈ですからたぶん大幅に外れているかもしれませんがね。ホームランを打った積りで柵越えのファウルの可能性が大きいです。(恥)
註11 『菜の花明かり』は17才の『あなた』を童子さんが一緒にどこへ行きましょうと話しかけている歌だと思います。この『あなた』は短い命でたぶん17才で死んだもう一人の童子さんなのでしょう。孤独な童子さんが大好きな菜の花畑で17才で死んだ自分と一緒に闇の向こうへ行こうかと誘って?いるのでしょうか。17才で……たぶん童子さんは海で人食い鮫?と遭遇して一度心が死んでいるのですね。そしてそれから成長したもう一人の今の自分もAさんロスから抜けきらなくて死にたいほど淋しくて、一緒に闇の向こうに行こうかと歌っているのではないかと思いました。そして菜の花畑の黄色い明かりがあるので、まだここに留まっているという歌かなと思いました。
註12 『G線上にひとり』は『G線上のアリア』からとっていると思います。バイオリンの第4弦のことをG線と言って、その弦だけで演奏した曲というのが『G線上のアリア』の意味ですが、童子さんもバイオリンを弾いてG線だけでこの曲を作曲したのでしょう。歌詞の内容は死への憧れを耽美的に表現しているといった感じです。糸の切れた風船のように不安定な彼女がこういう歌を紡ぎ出すことによって手探りで何かを捜していたのかもしれません。とても美しくて暗くて淋しくて悲しい歌ですね。
註13 『友よ泣かないのか』は4番までありますが、1番と4番はほぼ同じ内容で、童子さんがたびたび歌の中で口にしている『甘い夢』に相当する『輝く陽射し』と『新しい朝』と言う言葉が登場します。『友』とはAさんのことを指し、この歌は『甘い夢』を捨てきれない童子さんが、闘争に敗れて別の道を歩むAさんへの問いかけのように感じました。この歌で一貫して連呼している言葉『泣かないのか』は『友』に対してですが、同時に『風、時、夜。荒野、故郷、終わり』に向かって問いかけています。一緒に泣いてくれとでも言うように。Aさんには運動の同志がたくさんいた筈ですが、童子さんが呼びかけているのはAさんにだけで、あとは人間でないものに向かって訴えています。だからこれは学生運動の闘争での問題だけではないと思います。童子さんの『甘い夢』とは日米安保条約を潰すことではなく、全共闘の闘争が勝利することでもなかったという気がします。『みんな夢でありました』で歌っていた『ときめき』とは何だったのだろう? 子ども(青年)が大人社会に立ち向かって何かを得ること、それは童子さんが大人から奪われたもの……なのでしょうか? 私はそれが童子さんの場合彼女の心を刷り込むべき対象の親の愛ではなかったかと思うのです。Aさんが逮捕されたことをきっかけに彼女は高校を中退して、やがて彼と同居するようになります。全共闘の闘争をしていたAさんと一緒に行動することによって、童子さんは自分にないものを手に入れたかったのではなかったのかと思いました。私はAさんこそ童子さんが新たに見つけた『刷り込み』の対象だったのではないかと思うのです。
註14『ラストワルツ』 童子さんの最後のライブは新宿ロフトというところで、巨大テントを張って行われました。ここの会場は、あちこちで何度も拒否されてようやく見つけた場所だったらしいです。しかも一度承諾した後、民間人には明かせない理由で断られたと言う経緯もあったのです。ライブが始まってこの曲を歌う前に童子さんは以下の説明をしました。「自分の意志で何かをやるということを私たちは美しいこととして教わってきました。そしていま私たちは自分の意志で何かをするということは困難であることに気づき始めました。失われて行くひとときはとても美しく思われます。だから美しいひとときは終わって行く始まりでもあります。いま僕は総てが遠く見えます。ラストワルツ…」 その後でこの歌を歌ったので、まさにこの日の為に作ったと思われる曲のように聞こえていて、曲中の『あなた』という呼びかけはこの場にいる聴衆全員に語り掛けているかのような印象をうけました。けれど、私が思うには『あなた』はあくまでもAさんであり、記憶の中のAさんに語り掛けながら空想の上で最後のダンスを一緒に踊っているのだと。そしてこのライブをもって、童子さんは歌いたいことを全て出し切ったと言えるようです。だからここでもう引退を決意していたのだと思います。この歌は3番までありますが、2番の歌詞でもう自分の若い日が終わることを歌っています。もう思い出の中のAさんよりもはるか年上になった童子さんはここで本当の意味で終わるためにこの歌を歌っているのだと思います。もう明日はないから語ることもできないと。
註15 『終曲の為に 第3番「友への手紙」』は3連からなる詩のような言葉が並べられています。そして分かりづらいです。1連目はAさんのことを愛してると言ってるような気がします。間違って?切った指の傷跡までも愛したと。この指が彼の指なのか童子さんの指なのかは分かりませんが、仮に童子さんの指だとすると、彼に拒絶された時に受けた心の傷の思い出さえも愛したという意味になります。2連目は鳩の死骸とその首の辺りが温もりがあったと。鳩は童子さんの心を表しているのではないかと思いますが、それが死んでいるということはもう夢に向かって飛ぶこともできない心の死を表しているのかなと。二人の間には優しさがあったけれど、それで鳩の命が助かることはない。友情で結ばれた優しい温もり……けれどもそれで僕の心は助けられない。君に愛されることがなかったから……。と言ってるような気がします。これが第3番なら1番と2番はなんなのでしょうか? 終曲の為とは童子さんが曲を作るのを終わらせるために、先に2つほど曲を作って、これは3番目で友…つまりAさんへの手紙ということでしょうか?
1番2番の曲については諸説ありそうですが、私はAさんが独りぼっちで人ごみを歩いていたという登場を歌った『さよならぼくのともだち』と、そのAさんが人ごみに消えた様子を歌った『赤いダウンパーカーぼくのともだち』の2つかなと思ったりします。または『ともだち、恋人』であるAさんに自分のことを忘れて欲しいと歌った『ニューヨークからの手紙』も外せないかなと。とすればその前に行き詰まった心を歌った『夜汽車にて』も入るのかなとか? けれども『ラストワルツ』も候補になる気がします。このそしてとても短い曲ですが、ラストワルツと同じように若き思いでに別れを告げている『哀悼夜曲』も候補に入るでしょう。むしろこの最後の2曲である可能性も濃厚です。このあたりの6つのうちの2つが1番と2番かなと。そして3連目では童子さんが遥か遠くに離れて飛んで行く……お別れするような書き方をしています。それは死と同じ意味でとても苦しいことだと。ここまで分かりづらいのは童子さんが自分自身の為にこの言葉を紡いでいるからで、しかも簡単に他人に知られたくない内容だからではないかと思うのです。そして私が勝手に読み解いた、上の説明も正解である自信は全くありません。分かろうとすることがそもそも間違いかもしれないからです。
註16 『淋しい雲』の題名はAさんと童子さんが二人であちこちさ迷うように歩いている様子を雲に喩えているのだと思います。この歌では童子さんがまるで子犬のようにAさんの後をついて行く様子がうかがえます。Aさんにとってみれば最初は弟か妹または後輩がなついてついて来る感じだったのかもしれません。でも童子さんはにとってみれば、Aさんの存在はただの先輩や兄貴分に留まらぬまるで唯一の『保護者』のような存在だったのだと思います。自分の淋しさを共有してくれる唯一の存在で、自分にとってすべてに相当するものだったのだと。歌詞の中に出て来るミセス・カーマイケルというのは彼らが小中学生の頃にテレビでやっていたアメリカ喜劇番組『ルーシーショウ』に出て来る、ルーシー・カーマイケルさんのことで、子供の頃の記憶としてお互いに共通の話題で楽しく盛り上がっていたのでしょうね。私はこの歌を聞くと、まるで雨に濡れた段ボールの中で震えていた子犬のような童子さんが、Aさんと出会って嬉々としてじゃれて一緒に散歩する幻覚を見てしまいます。それだけこの歌は楽しく幸せに見えます。家庭的に恵まれなかった童子さんがAさんに対して『すりこみ』をした様子がよく分かる歌だと思いました。それだけ童子さんの歌声は可愛らしく楽しそうに聞こえます。でも二人はあてもなく歩きながらとっても淋しくて一人じゃやってゆけないと最後に歌っています。この時の相手は前田亜土さんではないかという説もありますが、その辺は聞く人の好みにお任せしたいと思います。
註17 『グリーン大佐答えてください』のグリーン大佐とは何者かということですが、映画『戦場に架ける橋』に出て来る橋の破壊工作を指示した軍人のことにほぼ間違いないでしょう。『センチメンタル通り』でも『赤いダウンパーカー』でも出て来る映画館の名画座は童子さんがAさんとよく観劇に行った映画館であることがうかがえます。そしてラジオ番組に童子さんが出演したときに『戦場に架ける橋』のことを話題にしています。この映画ではみんなが物凄い努力をしてやっと建てた橋をグリーン大佐の指示で爆弾を取り付けさせて、最後に列車がその上を通る時に爆発が起きて橋も列車も壊されてしまうのです。罪のない人々も列車ごと葬られてしまうのです。そういう折角苦労して築きあげたものをぶち壊して台無しにする人間が童子さんの身近にいたのです。つまり彼女の父親の中西正一さんです。グリーン大佐とは彼のことなのです。またこの歌の中に出て来る『母』とは聖母マリア様のことです。その他にも海を二つに分ける旧約聖書のモーゼも登場します。でも屠所の羊や傷ついて盲目になった兵士や死の世界に向かう旅人も同時に登場させて、この人たちは救われていないではないかと歌っているのです。ここでは毒親である『父親』の象徴のグリーン大佐に自分たちが幸せでないのはお前のせいだ、と暗に責めているのです。それが『グリーン大佐答えて下さい』で、答えられないだろう! お前が何もかも台無しにしてるんだから!と怒りをぶつけているのです。それと同時に数々の奇蹟を起こして人々を救う筈の聖母マリア様にもいちゃもんをつけているのだと思います。でも童子さんは露骨に文句を言いません。『いまだ見ぬ母』というふうに、マリア様に今まで会ったことも見たこともない。どこにいるんだ?って感じで当たり散らしているのです。この歌は歌に隠された童子さんの本音を見抜かなければ、全く何を歌っているのかさっぱり分からないと思います。私も最初は何の歌か全然分かりませんでした。そしてこれはもう一つの仮説ですが、グリーン大佐は破壊工作の準備をさせてその場を立ち去る時、部下の兵たちに言った言葉があります。それは「準備が整ったあとに、もう1つのすべき何かが常にあるものだ」その『もう1つのすべき何か』は自分たちで考えなければならないということなのです。もし童子さんがこの言葉に注目したとすれば、グリーン大佐は父親の象徴であるかどうかは別にして、私たちが幸せになるためにしなければならない『もう一つのこと』って何ですか教えて下さいという問いかけの歌になります。だとしてももう一つや二つしても、この理不尽な不幸は解決するとは思えないという皮肉も突いて回りますが……
註18 『春爛漫』の1番の中で童子さんと肩を組んでいるのは彼女のマネージャーで童子さんの夫でもある前田亜土さんのことではないかというのです。前田亜土さんの本名は前田正春さんで、名前に『春』の字があるということ。そしてAさんの場合のイメージフラワーは陰のイメージの夜の菜の花であるのに対して、ここで歌っているのは陽のイメージの桜であるということ。そして1番の『春の春は遠く』とは正春さんの春は遠いという意味だと思います。何故なら童子さんがデビューする前から前田亜土さんは彼女と結婚していて、その事実をずっと隠し通す必要があったからです。だから夫としての彼の立場はだ童子さんが引退して表向きの結婚ヲ発表するまでは8年間も日陰者を通したということなのです。だから正春さんが日の目を見るという意味での春は遠いと言ってるのではないでしょうか? そして2番では空の青さの中に悲しみも何もかも吸い込んでしまえというような意志が感じられます。つまり童子さんはこの歌を通してAさんロスの悲しみを上書きしてしまいたいと思っているのではないかと言うことです。つまり歌手として歌っている間は夫の存在を消してAさんロスまたその奥にある家族問題、はたまた自分自身の心の問題を歌にして浄化し、歌うことによって上書きしてしまいたいということなのです。それを前田亜土さんも理解して支えてくれたということなのです。この春爛漫は童子さんの前田亜土さんへの感謝を表しているのだと考えて差し支えないのだと思いました。
註19 『船がくるぞ』も非常に謎に満ちた歌です。でも童子さんの中でははっきりと何かを表現していることには間違いありません。巨大な旅客船は『きれいに咲いた』にも出て来ていて、それには童子さんのお母さんと弟さんが乗っているらしいのです。その船はとても明るくて童子さんの泳いでいる暗い海とは対照的なのです。この船は運命共同体と考えます。母親と弟が大きな船に乗って良い思いをしているのに比べて童子さんは暗い海に取り残されて、まさに明暗を分けた扱いを受けているのです。童子さんの比喩は『クリスマスツリー』なら分かりやすいのですが、『新しいシーツ』とか『夕立雲』とか言うのは「えっ?」と一瞬戸惑うような独特な言い回しがあります。ともあれこの曲は『端午の節句』でも歌われていた母親の弟びいきと童子さんに対する差別に傷ついたことを表しているのではないかと思うのです。
最初は寒い季節の海に泳いでいて凍えて震えていましたが、途中で夏の海で砂浜で寝そべったり『君』と一緒に並んで泳いだりする空想部分がありますが、『去年の夏の海』という言葉はなにか暗いイメージの引き金になる時間と場所で、その辺りから明暗が二つに分かれて、童子さんは真っ暗な絶望と孤独の暗闇に取り残されているのです。
註20 『きれいに咲いた』は註19の『船がくるぞ』と同じく大きな旅客船が出て来て、そこには母親と弟が乗っていて童子を置いてどんどん行ってしまうのです。そして童子は『君』と一緒に夜空に打ち上げられクルクル回るのです。そして二人はちっぽけな船に乗っていた為それはすぐに沈んでしまうのです。シャイマンヒッキーさんはここで出て来る君は前田亜土さんのことではないかと言ってます。マネージャーであり夫である彼と一緒に頑張ってお金を稼いでいるのに、クルクル回ってしまいには乗ってる船まで沈没しそうになっているのに、自分たちは安定した大船に乗って優雅に生きていることを暗に責めているのかもしれません。というのがヒッキーさんの解釈です。共同研究者の意見そのままここに載せます。
註21 『孤立無援の唄』は高橋和巳さんが書いた『孤立無援の思想』と絡めてまさにAさんを失って文字通り孤立無援になった彼女の心境を4番で歌ったものです。1番から3番はAさんと過ごした同居生活の描写です。ここでAさんとプロレスごっこをしている様子を歌っていますが、思うに童子さんとAさんは体格差があまりないのではと思います。『早春にて』で童子さんの黒いトックリセーターとAさんの黄色いシャツを交換して着たという逸話を歌にしてますが、そこでもそう思われますね。そしてプロレス絡みで4番になるとタッグの相手がいないから困ってるように持って行くのはうまいですね。叔父さんのなかにし礼さんが彼女のことを『手に負えない才能』の持ち主だと評したのは頷けます。そしてこの歌は四番まで聴いても別にすんなり理解できる内容だと思うのですが、最後に言うセリフで躓くのです。就職のことを歌っていたけれど、確かAさんは死んでいる筈なのに背広を着て云々のところが混乱しますよね。そしてハガキの礼を言ってたりします。ハガキを死ぬ前に出したんだろうか?と混乱しますね?童子さんはこういところが悪戯好きなところがあるんですね、きっと。まず『ハガキ』というのはAさんの死を知らせたハガキのことです。もちろんAさんが出した訳ではありません。遺族が遺品整理して童子さんの存在を知り教えてくれたのかもしれませんが、死んだ人に向かってハガキの礼を言ってるのですね。そして死んだ遺影には男性には背広を着せますね。もちろん写真屋さんによる合成写真です。その遺影を見るのが怖いと言っているのです。怖いからきっと葬儀には顔を出してないでしょうね。いや、分からないけど顔を出していたら絶対歌にしそうだけど、その形跡がないから……。童子さんはこういう謎かけのような悪戯をするのが好きです。あっ、悪戯と言っても結果的にそうなのであって、本人は無意識というか天然にそうしてしまうのかも。
註22 『ぼくを見かけませんでしたか』は童子さんが東北岩手県の北上川のほとりを歩いている様子を歌にしています。それが実際のものか空想上のものか分かりません。時には童子さんの場合は空想の世界の方がリアルな感触を持つことがあるので。シャイマンヒッキーさんはユーチューブの動画で彼女がピーターパン・シンドローム故に『大人になりきれない自分を悩んでいる』と言ってました。それがどんなものか分かりませんが、彼女が大人になりきれないのは親の愛を受けられなかったことと、すりこみ対象のAさんと死別したことが深く関係していると思います。またシャイマンヒッキーさんは童子さんがLGBTQ?のQ?に相当するのではないかと思っていますが、私はあくまでも童子さんの性自認は女性だと思います。彼女は成長して大人の女性になることに抵抗感を持っていたと読んだことがあります。それは父親の女性遍歴を目や耳にしていたから、そういう者に忌避感を持っていた為だと思います。そして彼女のシンガーソングライターのスタイルが男性スタイルだった為、地方に行くときに背広姿で移動することもあったかもしれません。男性スタイルで売り出しているからには、ワンピースで移動するのは変だからです。だからすれ違う電車で背広姿の姿の自分を見かけませんでしたかと歌っているのだと思います。ともあれ童子さんの淋しさがこの歌にはよくあらわされていると思います。自分はどこに行くのだろう? 失くしたものはなんだろう? 台詞の部分で麦畑が海のように見えると言ってますが、海と言うのは彼女にとってトラウマになる景色だというのは『麗子像』などでも知られていることです。この場合の麦畑は童子さんの不安な心理を良く表しているなと思います。
註23 『今日は奇蹟の朝です』は一度しか発表してないのは、聖母マリアに対する皮肉?が入っているからです。同じようなことは『グリーン大佐答えて下さい』にも出て来ます。これも父親との関係もありますし、やはり一回しか発表していません。家族と場合と同じく発表に控えめなのは、聖マリア聖堂を借りてライブをした関係でさすがに気が引けるのだと思います、と私は考えています。
マリアが浮上する部分は実はニシンの群来が来たことを言っているのだと、いう有力な説もあります。確かにそれも説得力があるなと思います。そのイメージと聖母マリアを重ねたのかもしれません。父親の正一やなかにし礼さんはニシンの群来を目撃する経験をしていたのですから、昔話として童子さんが話に聞いていたと考えられるからです。
註24『151680時間の夢』は本文の中でも述べましたがこの表題の時間の長さは年数に直すと17年と何か月といったところでしょうか。ちょうどAさんが逮捕されて、それがきっかけで童子さんが高校を中退してしまった頃です。それまでは幼いころからの辛い思い出もあったろうしAさんとの出会いもあったと思います。そしてその別れも。謎なのは彼女が18才の時父親が借金を作って姿を消した時、彼女もどこかに身を寄せたらしいのですが、それが前田亜土さんのところではないかと言う説もあります。前田さんはそれ以前からなかにし礼さんの家に仕事上で出入りしていたので童子さんとは面識があったからです。ここで童子さんが歌っているのは17才までのことなので、歌の中で歌っている相手は亜土さんではなくAさんのことだと思います。童子さんは結構長い間Aさんロスを引きずっていました。そこから脱却する意味でもこの歌を歌ったのではないかと。17才までの思い出は夢のようなもので非現実だったんだ、と。でも童子さんは同時にもうこの夢の中で生きている自分は引き返せないのだとも言っています。脱却しようとしてもできないということに気づいた歌なのだと思います。夢に喩えているくらい、常にAさんのことを思い出すことが多かったんでしょうね。夫の亜土さんはそういう夢や思い出も童子さんの一部として愛して包み込んでいたのでしょうね。15才年上と言うこと以外にも亜土さんのマネージャーとしてまた夫としての器の大きさを感じます。
註25 『セルロイドの少女』のセルロイドとは初期に作られたプラスチックで昔の玩具に使われたものです。熱に弱く簡単に凹んだり壊れたりします。ですから人工的で壊れやすい脆い存在の少女とか作り物の儚い存在って感じでしょうか。彼女は曲馬団の花形スターとして作り上げられ、七色の脚光を浴びますが、それが家族を呼び寄せるのです。『夢の家族』と皮肉っていますが、要は砂糖にたかる蟻のようなものです。それが淋しい家族合わせだと言っているのでしょう。この頃童子さんの父親はなかにし礼さんから絶縁され収入源を絶たれているので、離散した家族もそれぞれ苦労していたと思います。そのとき童子さんがメジャーデビューして印税が入ったのではと父親が電話して「おめでとう」と言うと、童子さんは即「印税は入ってないよ」と言ったとか。きっと自分に冷たかった母親や弟にも同様に対処したことでしょう。弟は火を吹き、母は水芸というのはサーカスの芸のように見せかけて、弟は烈火のごとく怒り狂い、母親は童子にコップの水でも顔にかけたのでしょう。「この薄情者!」とかなんとか。
サーカス団の団長を父親に見立てて(歌には登場しませんが)母も弟もみんな私を食い物にしようとしている、と。童子さんは『みどりちゃん』であり、青春の思い出を歌にしてそれを何度も使って生活しているのに、それを狙って家族が押し寄せるという感じでしょう。実際その後すぐに印税関係は公人組織にしたところに入金するようにしたので、奪われることはなかったのです。例の毒親はなかにし礼さんの通帳や印鑑を勝手に持ち出し、合計6億円の借金を残して逐電したりしているのですから油断できなかったのです。ここに出て来る家族合わせと言う言葉には悲しい不幸な現実があるのです。一輪車で逃げるみどりちゃんは荒野をひた走り、がんばれがんばれと童子さんは応援するのです。つまりこれは家族への恨みと自分への応援歌なのです。何故一輪車なのか?普通の自転車にして二人乗りでも良いのではと思いますが、童子さんが30才になって引退するまで、夫の亜土さんは極力自分の存在を伏せるように童子さんにも言っていたのだと思います。だからみどりちゃんは一人で一輪車で耐えるのです。
註26 『憂鬱です』はAさんの死を知った後に無気力になっている期間の心境を歌ったものだと思います。その頃は充電期間と言う言葉もありませんでしたし、怠け病という現象の回復効果も知られていませんでした。何もしたくなく何もする気にもならないからただ自堕落に過ごしていながら何故か心地よいといった自己観察記録ですね。郷里から送って来た柿を食べる場面は多分空想だと思います。柿を送ってくれるような実家はありませんから。そうだったら良いなって感じで歌ったのだと思います。童子さんはこういう自堕落な自分を楽しんでいるところがありますが、そういうところが大物だなと思います。
註27『ぼくを見つけてくれないかなァ』の『ぼく』は童子さんで、『君』はAさんだと思います。夢去りし後ですからAさんはもうこの世にいない時での気持ちでしょう。本当は「君の好きな……」じゃなくて「君の好きだった……」なのでしょうけど、生きている人のように話しかけているのかもしれません。そして自分のことを見つけてくれる『だれか』を募集して呼びかけながら、最後には『君』が見つけてくれないかなと本音を漏らします。見つけた後どうして貰いたいかと言うと、自分を一緒に向こうの世界へ連れてってということでしょうか?童子さんらしいですね。ところでこの歌はライブでも歌っていたと思うのですが、募集?中のときは聴衆にもその気にさせていたのかもしれませんね。この歌の歌詞にはそういういたずらっ子的なあざとい部分もあるような気がします。それも童子さんらしいですね。
註28 『風さわぐ原地の中に』ではAさんと童子さんの一緒に行動してた頃の様子を歌にしています。でもロック調というのかそんな感じで、なんと童子さんがAさんの役で『俺』という第一人称を使って男っぽく叫ぶように歌っています。自分のことは『お前』呼びにして客体化して歌ってるのです。『俺は19でお前は17』と年齢差が2才くらいにしています。これもきっと合ってるのでしょう。歌の中で『二つ年下のお前はとてつもないことを思いついて俺を有頂天にした』というのがあって、歌の中で童子さん情報が伝えられるなんて面白いですね。そして、年下で女性の童子さんが結構茶目っ気を出してAさんを引っ張り回していたような感じも受けます。また、Aさんが主体で歌う関係から、『弱虫で静かで優しい無口な』筈のAさんがやや多弁になって結構やんちゃっぽくふるまってます。この辺は役割上改造したのでしょうね。それとこれはきっと童子さんの希望で実際と違うように変えたのではないかと思いますが、「あの娘のいる街へ帰れる筈がない」と言う風にしてAさんが自分を選ぶようにしてますね。歌の中でちゃっかり過去の事実を改変してるところが、女心でしょうか。童子さんはAさんを失ってからもなお、歌の中で何度も彼を登場させて8年間も歌い続けたのですね。夫の亜土さんに支えられながら。そして完全に心の中でふんぎりをつけてから引退したってことです。この歌もAさんを卒業するための礎石の一つだといえますね、きっと。
註29『ぼくと観光バスに乗ってみませんか』についてですが、童子さんがAさんロスから立ち直れず何もせずぼんやり過ごしていた時東京の鳩バスに一日中乗っていたことがあったそうです。その時にこの歌を思いついたんだとか。そして観光バスにAさんを誘う形で歌っています。この観光バスは童子さんの空想上の故郷である、小さな海辺の観光地の街を紹介しています。色々な意味で帰る場所である故郷を持たない童子さんは心の中で故郷を作って拠り所にしていたのだと思います。それは『レ・ミゼラブル』の少女コゼットが折れたナイフを人形代わりにして可愛がって話しかけていたのと同じもので、痛々しい気がします。『たとえばぼくが死んだら』でも2番では『暗い海辺の窓から』自分の名前を呼んでくれと歌ってますし、『夜汽車にて』でもAさんよりも年をとってしまった自分に気づきやるせなくなったときに『海を見たいと思った』と言っているのです。ある意味海は童子さんにとって救いであると同時にそれ以上に辛い外傷体験の場所でもあるのです。後の方のことについては『麗子像』とかで触れているので、繰り返しません。2番ではトランジスターラジオの曲に合わせてダンスを踊って浮かれてみようよと誘っています。もちろん既に亡くなったAさんに呼びかけているのです。ダンスについては二人が別れる前日酒を飲んで夜通し踊ったりしたらしいですね。『センチメンタル通り』の3番とかにそれらしい言葉がありますね。
註30『早春にて』では、空想と現実がどのように混じり合っているか不明です。他の歌との関連から夜通し飲み明かしたり踊って騒いだ次の日Aさんは始発の電車に乗って故郷に帰って行ったらしいと思ってます。そしてその時に『あのこ』も一緒に乗って行ったらしいということです。だとすると黒いトックリセーターと黄色いシャツは交換するのはまずいからしなかったのではないかと思います。全然別の時にそういうことをしたのをこっちに持って来たのかなと。そして飲み明かした後始発の電車に乗ったのは『あの子』ではなく童子さんになってますが、これは童子さんの空想かなと。というか潜在的な希望を歌ったのかと。肩を叩いて「友情だけは信じる」と言ったのは本当ではないかと。色々考えてしまいます。そしてこの別れを悲しんでいる気持ちだけは伝わります。空想の上で「あのこ」を削除して歌った別れの悲しみの歌だと思います。これが童子さんがAさんを最後に見た光景だったと思います。そして何年かしてからAさんの死をハガキで知ることになるのです。
註31『たとえばぼくが死んだら』は5番までありますが、1番と5番は同じ歌詞です。そこには童子さんが好きな菜の花畑が出て来ます。2番には海辺が出て来ます。3番に出て来る杏子の花はAさんを思い出します。杏子の実を食べて死んだAさんを思い出します。そしてここで童子さんは自分が故郷を捨てたと言ってますが。捨てたのではなく、故郷と呼べる場所がないのが本当の所でしょう。でもそれだと悲しすぎるから捨てたことにしてるのでしょう。それも悲しいことには違いありませんが。この場合の故郷は『両親を含む家族』のことかもしれません。そして4番の意味は『マッチを擦る』という行為は、自分の胸に溜まった気持ちを歌にして表現するということだと思います。『悲しみを燃やす』というのは『悲しみを歌に表現して浄化する』と言うことだと思います。童子さんの8年間のシンガーソングライターとしての活動は、すべてこのこと……自分の心の奥の悲しみや淋しさを歌に表現することによって上書きすることにあるのだと思います。夫の亜土さんは外向けには童子さんが独身で自分はマネージャーとして支え、内向きには夫として童子さんの中のAさんの問題を解決できるように励まし支えて来たのだと思います。
註32『ふるえてるネ』に出て来るアゲハ蝶は童子さんの分身だと思います。自分が死ぬことを何度も歌って来た童子さんですが、そういう自分をアゲハ蝶と言う形で客体化して掌で包むようにして見守るのです。このままぼくに看取られながら死ぬと良いよ。もう苦しまなくても良いよ。とでもいうように。死にたがっていた自分を、Aさんのいる向こうへ行きたがっていた自分を見送っている童子さんがここで区切りをつけるように。夫であり、マネージャーである前田亜土さんは、病んでいた童子さんを8年間かけて付き添って来たのだと思います。そのことが分かっていた童子さんは『春爛漫』や『きれいに咲いた』でさりげなく亜土さんを登場させているのだと思いました。
註33『ぼくたちの失敗』は『高校教師』の関係で知られている一番有名な曲ですね。ですから重複を覚悟で少し詳しく説明したいと思います。題名にある失敗とは何が失敗なのかというと、歌詞中にある『君』のAさんという男子大学生とその頃女子高校生だった『ぼく』の童子さんの二人が失敗したという意味だと思います。全共闘の闘争が失敗という意味も少しはあるかもしれませんが、それでは問題が大きすぎるのでその要素は考慮に入れなくても良いと考えました。Aさんも童子さんも、鎮静剤や鎮痛剤の原料になると言われるピラビタールという薬を一緒に服用して、気持ちを鎮めていたようなのです。童子さんは家庭的に恵まれない身の上でそれに同情した、そして自分自身もなにか心の問題を抱えるAさんが童子さんと一緒に薬がもたらす安らかな気持ちの効果に頼ったということです。そのことは結局薬による現実逃避になり、二人は少しも前に進めなかった、そのことが失敗ではなかったかということです。結果Aさんは逮捕をきっかけに童子さんから離れ、童子さんは高校を中退してしまいます。そしてAさんは釈放された後たぶん自殺で死にます。そして童子さんはAさんロスで苦しみます。童子さんが歌手としてデビューした頃は前田亜土さんと結婚していました。けれど童子さんは家庭的な問題で孤独に苦しみ愛情に飢えていた時に手を差し伸べてくれ自分の話を聞いてくれたAさんに、親に対してできなかった『すりこみ』をしたと思われます。だからAさんロスによる苦しみはかなり大きかったのです。そしてAさんロスのさらに奥には童子さんの心の闇ともいえる家庭的な愛情の飢えがあります。だから結婚ですべてハッピーエンドにはならなかったのです。仮面歌手として売り出す作戦上のこともありますが、前田亜土さんはマネージャーとして童子さんを支える側になって陰の夫としての面は隠し続けていました。それが8年間続いたのです。そして童子さんが30才になって歌手を引退したとき結婚したというふうに世間的には知らせたのです。
何故8年間も黙っていたのか、それは童子さんのAさんロスを含む心の問題を解決するのに8年間が必要だったからではないでしょうか?歌い続けることを通して童子さんは心の中の問題を浄化して行ったのだと思います。 15才年上の前田亜土さんは彼女のそういう苦悩も含めて引き受けてマネージャーとして夫としてサポートしていたのだと思うのです。この曲の1番の意味はピラビタールで逃避していた自分を弱虫だったんだねと歌っているのだと思います。2番はAさんと一緒に暮らしていた様子を歌っていると思います。多摩川上水沿いに歩くとAさんの小さなアパートがあったのですね。ああやってずっと話疲れるまで話し続けたのでしょう。そして3番では地下のジャズ喫茶ににも通って色々な人生を見て来たのでしょう。4番では童子さんがAさんのアパートに取り残されました。彼は出て行ったのです。逮捕されたことをきっかけにAさんは変ってしまったようです。友だち関係だった童子さんを残して恋人の『あの子』と一緒に去って行くのです。そのあの子とも終わってしまったAさんはどこか違う場所で杏子の実を食べ散らかした状態で死んでいたのを発見され、そのことが童子さんに知らされます。その結果童子さんはAさんロスになって『駄目』になってしまうのです。そして既に死んでいなくなったAさんに向かって謳ったのが5番なのです。つまり心の支えを失ってリストカットしたり死を夢見たりする状況が続くのです。メンヘラ状態ですね。そういう童子さんを陰から支えて救ったのが前田亜土さんなのでしょう。少し内容が他の部分と重複しましたが、このくらい書いておけばこの歌を理解できるのではないでしょうか。
註34『まぶしい夏』については私は少し踏み込んだ推理をしてみたいと思います。童子さんとAさんの出会いは『さよならぼくのともだち』の1番で人ごみの中から一人ぽっちで現れたAさんの姿が印象的です。たぶんこれが初対面の様子でしょう。そこでもう髭を生やした『やさしい君』と歌っているから、第一印象は童子さんにとってとても良かったのだと思います。いつも怯えて親に対して息を潜めて過ごして来たらしい童子さんには優しいということが好意を持つ第一条件なのでしょう。そして独りぼっちということも及第点なのでしょう。何故なら童子さんも孤独だったから。そうした方が劇的ですね。それから親しくなって2番のように待ち合わせて会うようになったのだと思います。そして3番にこの『まぶしい夏』と重なり合う場面が出て来るのです。窓もドアも締め切って暑い夏の部屋で汗をかいて眠っていたのがAさんです。たぶん睡眠薬自殺?の未遂かもしれません。そしてこれは私の想像ですが、このことが童子さんがAさんの部屋に住むようになったきっかけなのかもしれません。また睡眠薬を飲んでしまってはいけないと彼女は心配して一緒に住むようになったのではないかと推理しました。その後Aさんの悩みを聞いたり自分の淋しい思いを聞いてもらったりして『男のくせに泣いてくれた』または『きみは変っちゃったネ』の中にあるように場面が出て来るのです。そしてお互いの傷をなめ合うような関係になるのですね。『ピラビタール』とか『さよならぼくのともだち』の4番のように。Aさんは太宰治を読んでいて童子さんにも貸しているので、二人ともその影響を大きく受けているのかもしれません。自殺とか死に対する考えもここで育まれたのかもしれません。そしてこの『まぶしい夏』ではAさんが亡くなった後もこの時の場面を思い出しているのです。睡眠薬、自殺未遂、太宰治の本、これらが一つのトラウマになって童子さんを苦しめている気がします。そして一通のハガキでAさんの死を知ったときの童子さんの様子が『逆光線』で歌われている訳です。そうやって童子さんの歌は繋がって行くことになり、それはいつかAさんを通り越して自分の生い立ちや家族のことに広がって行く訳です。
註35 『雨のクロール』では冒頭でいきなり『二人は今日別れる』とあります。じゃあ、二人とは誰と誰だということになりますが? 二人とも女性で『君』はワンピースを置いて雨の中を川で泳ぎますし、『ぼく』は草笛を吹いています。そして最後に『僕』はもう泳がないだろうとか言っているいるのです。だから私はこの二人は二人とも童子さんだと思いました。つまり自分の分身を作って、いつまでも雨の中で涙色の水の中で泳ぐ自分と決別するためにこの歌を歌ったのだと思うのです。そうすると次の疑問は、涙色の水の流れる川を、しかも雨の中泳ぐ自分とは何か?という問いになりますが、雨も川も空想の心象的世界で悲しみや過去への未練を表しているのではないかと言うことです。いつまでも悲しみの中で泳いでいても駄目なんだ。それはさらなる悲しみを生むだけだから、もう決して僕は泳がないだろうと。
童子さんは『反社会的』『反体制』で売り出したので、体制の中でメジャーな『なかにし礼さん』と対極な立ち位置になるため、姪と叔父の関係がばれてはいけなかったのですね。だから常にスタイル的に反体制的な危険そして一般大衆に理解しづらい面を持ち続けなければならなかったのです。ラジオ番組で『食べてるところを人に見られるのは嫌ですね。ちょうど排泄するところを人に見られたくないのと同じで』のような発言をするのもそういうことと関係していたのかもしれません。だからこの歌もかなり謎に満ちた不可解な内容になっていたと思うのです。そして不可解なことは童子さんにとってもう一つに利点があるのです。つまり自分の内面の葛藤を歌の中で歌っても簡単に知られることはないという点で都合が良いのです。この歌を録音するときに童子さんはわざと音源を遠くして聞こえづらくし、最後の部分だけをはっきり大きく録音していますね。これも自分なりの決意を音のボリュームの大小で表現したということなのだと思いました。
註36『哀悼夜曲』は『美しき日々』とも『若き日々』とも呼んでいる自分の過去の部分を葬って送り出す歌ではないかと思いました。それは懐かしくも悲しく、そして決して取り返すことのできない失った宝石のようなものだけれども、童子さんはその思い出に深き眠りを与え引導を渡したかったのではないかということです。童子さんの8年間の作曲の活動は少なくてもこれが目的だったからだと思います。ですから哀悼歌というのは死者を悼む歌ですが、この場合の死者は自分の心の中にある美しき日々であり若き日々の思い出なのです。美しい……けれども悲しいそしてせつない……既に自分の心の大半をしめるものを葬り去らなければ童子さんは前に進むことができなかったのです。だから8年間を費やして成し遂げたこのミッションが終わった後は主婦として母として子育てに集中して二度と表舞台に出ようとしなかったのだと私は思います。その後『高校教師』のドラマで二度にわたり注目されて出演依頼が殺到しても決して応じなかったのは、折角葬った過去の自分を掘り返したくなかったのです。それh彼女にとって美しい思い出であり、悲しい切ない傷跡でもあったのですから……と私は考えています。
註37『君と淋しい風になる』では童子さんのAさんロスの苦しみ悲しみ淋しさが歌われていると思います。1番ではAさんを身近に感じるようにしてその思い出と共に過ごしていても、共に成長していく肉体を持たないAさんを想うことは『形のない愛』だと言うのですね。そして形のない愛は実体のないもので思われるAさんは勿論思う自分も実体のない『風』になって行くのだと、歌っているのだと思います。なんと悲しい言葉でしょう。 2番ではそんな形のない愛もいつまでも続くはずもなく、いつの間にかAさんの記憶は遠い過去へと遠ざかって薄れて行き、いつのまにか自分一人が取り残されているのに気づいてしまうのです。童子さんの一途な思いは意味のない未練になり、過去のAさんはいつまでも若いままなのに自分はどんどん歳をとって行く。そしてAさんと共に風になった積りが今は自分一人が風になって空しく漂っているという歌ではないでしょうか。本当に悲しくて淋しい歌ですね。そう私は思いました。
註38『みんな夢でありました』は、ある意味全共闘の闘いの敗北と童子さん自身のAさんとの別れなど彼女自身の夢やときめきが否定されたこととが重なった曲だといえるのではないかと考えます。童子さんは全共闘の運動そのものを理論的に理解していたとか主義的に信念を持っていたとかではないと考えます。ただ全共闘の闘争を通してAさんと出会い、共に行動することを通して自分の中にある問題の解決の糸口を探っていたのではないかと思うのです。実は多くの学生たちが全共闘の闘争を通して自分の中の問題をその中で解決しようとしていたことがあったと思います。中にはただの憂さ晴らしで暴力を振るうことに酔っていた者もいたかもしれません。時代の大きな流れがあってたまたまそこに居合わせた童子さんが自分の中にある空虚さ悲しさと重なり合ってこんな思いが生まれたのだと思うのです。けれど闘争が敗北に終わって、重なっていたものを取り除くと残ったのは素の童子さんであり、Aさんだったのではないでしょうか。自分たちの背中を押してくれる風は止まってしまって、今まで前に進めていた足が止まってしまったのです。そして時代の流れの向こう岸に取り残された自分たちを客体化して見ているのです。川の流れは帰ることはできません。やり直すこともできない人生に思いを馳せてどうだったら良かったのかと考えるのはとても空しいことですね。その空しさがこの曲から伝わってきます。もう全共闘の闘争は敗北に終わってそのことについて語ることも皆の志気を高める為に歌うこともないのだと言っているのでしょう。この闘争の終わりはAさんとの別れとほぼ連動しているように思えます。そしてこれをきっかけに童子さんは自分自身の問題と対面して行ったのだと思うのです。
註39『驟雨』は童子さんの歌としてはあまり知られてないかもしれませんが、私は童子さんらしい歌だと思います。童子さんの歌は何が良いかと言うと声の綺麗さ透明感。そして中性的な囁くような……そして淋しさと一途さが混然とした魅力ですね。あの少年のような声には他の女性歌手にない独特の味わいがありますね。そして声の幼さが小学生のような可愛らしさを感じさせます。
あの声で淋しさを訴えられれば、保護本能に火をつけられる人もいれば、子供時代に戻って淋しさに共感する人もいるのでしょうね。雨に濡れた路地裏に段ボール箱の中に捨てられた子犬を連想するような童子さんの歌い方ですね。水色のレインコートってきっとその言葉だけで淋しさを身に纏っている様子が伝わる気がします。『君と淋しい風になる』の時と同じく2番で一人っきりになった淋しさ悲しさを歌いきっています。曲全体を通して涙っぽい感じで最後は驟雨……号泣なのでしょうか? Aさんロスを悲しむ気持ちがこの歌の中で良く表されているのだと思いました。
註41『麗子像』はオリジナル盤の6枚目のアルバム『夜想曲』に収められています。そしてこの曲には『日本一切ない曲』という言葉が冠されています。『麗子像』というと岸田劉生が描いた娘の肖像画ですね。童女の頃から何枚も描いて、最後に書いたのが岸田麗子が15才のときに日本髪に結ったときの絵で2枚描いてます。その後間もなく劉生は死んでしまう訳ですが、童子さんは麗子像のことを知って何を思ったでしょうか? まず童子さんの父親は童子さんにそんなことをするでしょうか?そういうキャラではありませんね。だから童子さんはきっと『良いなあ、この娘さんの麗子さんって、日本一幸せな娘だね』とか思ったかもしれません。童子さんは註40の『a boy』のところでも書きましたが、自分は性自認は女性であることを訴えたくてたまらなかったと思うのです。いくら森田童子としてデビューするときの作戦だとしても「私だって女の子なんだよ」と言いたかったと思うのです。追記の最初の方に57曲のうち女性的な声で歌っている曲は15曲くらいありましたね。男装した永遠の少年って感じで登場した童子さんですが、女の子としての自分も出したかったのだと思います。『a boy』のジャケットでは咲き乱れた花々の中にうつ伏せに倒れる自分の絵を描いてもらいたかったってところでも分かりますね。花は草に変わりましたけれど。話が飛びましたが、だから童子さんはこう思ったかもしれません。「誰も私のことを麗子像のように描いてくれないから、私がわたしの麗子像を描いてみよう! でも絵は得意じゃないから歌で麗子像を描いてみよう」ってね。まず自分の分身をいかにも女の子らしい麗子と言う風に客体化します。それは17才のときの自分自身の等身大の姿です。でも絵に描くように曲を作りたいから視覚的に思い浮かぶようにやってみよう、と思ったのかもしれません。まず自分のいる部屋と落日の様子、そうそう指を切ったときにする包帯の白さ、それを蝶結びにしてみよう。視覚的に蝶結びは可愛いし女の子っぽいですよね。でも自分の指を切ったのに包帯して蝶結び迄自分でできるかな?はともかく今は亡きAさんへの女の子としての思いも……と言う風に歌詞を書いてみたのだと思うのです。2番も女の子として踊る自分自身を想像してうっとりしているのでしょうね。いい場面ばかり選んで書きたいのですが、どうしても暗い場面が描かれます。童子さんですから仕方ないですよね。3番なんかはそうですね。でも女の子らしい描写ができました。針のない置時計や四頭だての馬車とか……4番まで書いてみて、結局自分で自作自演していることが悲しくなりました。日本一しあわせな麗子像にしたかったのに、日本一切ない麗子像になってしまいました、という感じでしょうか?包帯を巻くなら蝶結びにしなくても良いし、馬車は四頭立てにする必要はないのですが、そこに格好をつけたかったのでしょうね。黒いアイマスクも含めて。結局最後の四頭立ての馬車にしろ、私の場合は霊旧馬車を思い浮かべました。またはアイルランド伝説の首なし騎士デュラハンが馭者をする四頭立てコーチですね。間違えてもベン・ハーのチャリオットとかギリシャ神話のアポロンの馬車は思い浮かびませんですね。私はこの曲は実に女性的な美しく悲しい曲だと思いました。童子さんが日本一切ない……と前置きしたのも、岸田劉生の麗子像に比べて対極的な麗子像であるからなのでしょうね。
最期にこの解釈の文は童子さんのファンでないと何のことか意味が分からないだろうと書きましたが、同時にこういうことが言えます。童子さんのファンならこういう解釈の文は読みたくないだろうということです。
ただ童子さんの悲しさや淋しさや切なさを一緒に共有したいという人が多いと思うからです。まるで『ぼくたちの失敗』に歌われていた『弱虫なぼく』みたいに童子さんの歌に埋もれていたいのだと思うのです。そういう方たちは歌の解釈などどうでも良い、ただ感じていたいと思うからです。まあ、とかくこの世は儘ならぬということです。そして童子さん自身もこのように解釈されるのを望んでいないと思います。そう思いながらも私がこれをやめないのは性とでも言うのでしょうか?
そして一部の歌だけ解釈をすると言いながら、最後には全曲が理解できるような方向で進んで来ました。
問題は正解を出すことではなく、自分なりの理解をすることです。ファンですから当然できるだけ好意的にです。だってもうこの世にいない方ですから正解は永遠に分からない、ご本人と一緒に土の下ですから。その後で歌をじっくり聞いて味わってみたいというのが私の本来の目的です。童子さんの歌を聞いて自分なりに共感して味わいたいからです。
さて、あと2話ほどお付き合いください。それで終わりますので。
上のオリジナル盤アルバム『a boy』の註釈の註40については長くなるので次話になります。