魔物狩猟とレベルアップで、私は田舎暮らしを気ままに満喫するべさ。
はあ、と吐き出した息が白く染まる。
11月になったばかりなのに寒いべさとボヤきつつ、後ろ手にカララと玄関の戸を閉めた。
都心に住む人たちから見ると、この辺りは信じられないほど冬が厳しくなる。
とはいえ東北や北海道などにお住まいの方々には、まだまだ生ぬるいぞと言われるに違いない。
まあ、私も年頃ですし、いつかはちゃんとした都会に住みたいという気持ちもあるけれど、そのあたりは大人になってからのお楽しみでいいかなぁ。単純に、田舎者にとっては人が多いと疲れるべさ。
ゴーグルつきのヘルメットを抱えて、コケコケとやかましく鳴く鶏小屋の先まで歩いてゆくと、ボロっちい納屋にたどり着く。
そこにはすっきりとしたラムネ色の単車があり、なかなかのかっこよさに私の気分はアガる。
「よっ」
手にしていた鞄を取りつけると、私はドルドルという振動音を響かせながら路上に出た。
うん、普通に寒いべ。
顔に当たる風が冷たい。冬を迎える前に、ちゃんと顔まで覆ってくれるメットを買おう。ずびっと鼻を鳴らしつつ、そんなことを決意した。
斜めになった電柱。
草が伸び放題になった畑地。
割れたアスファルト。
通り過ぎていった自動販売機はサビだらけで、硬貨を入れてもまったく反応してくれない。
荒れ果てた光景だし、終末世界と思われてしまいそうだけど、それとはちょっとだけ異なる。遠くまで単車を飛ばせば繁華街が待っているように、この辺りだけが無人なのだ。
ではなぜ無人なのかというと……。
キィキィ、チチチ。
藪のなかで野鳥の声を聞きながら、私はじっと待つ。
手に構えた銃は上下二連装式の狩猟銃で、ずっしり重い。しかしこの重さが私にとっては心強い。
やがて野鳥とは異なる鳴き声が聞こえてくる。
アヒルのようにガアガアと鳴くそれは、二足歩行の醜い生き物だ。
私が子供のころに読んだ生物図鑑には載っていなかったが、今ならば新たなページが加わっていることだろう。などと思いつつ、ガチッと撃鉄を鳴らす。
――どぱオッッ、オンッ、オン……!
山にこだまする轟音により、野鳥たちは驚いてどこかへ飛んでしまった。
じいと硝煙のただよう向こうを眺めていると、チチッと腕時計が鳴る。そこに表示されたのは「報奨金4200円」という文字で、うわ、また値下げされているのかと私は呻いた。
「まったく、役所連中のケチさときたら」
そうボヤきつつ藪から出ると、先ほどの場所に一体の魔物が倒れていた。タールのような真っ黒い水たまりを見るまでもなく、すでに絶命している。
ネズミが人に進化したらこうなるのだろうか。体長1メートル程度のそいつらは、小柄な私よりもずっと小さい。
じいと眺めてから私はため息を漏らした。
「こんなのがうようよ出て来ちゃったら、そりゃあ人も減るべさ」
小さな村から人がどんどん離れていって、本格的な避難区域に指定されたのはおよそ一年前だ。
もともと限界集落化に待ったなしの村だったとはいえ、こうも人がいないとその静けさに驚く。
とはいえ私にとっては大事な稼ぎの元なので、丁重に葬ってあげなければ。手にしていたスコップでざくざくと穴を掘り、そこに埋めた。
『熊谷様、申請書類が完成いたしました』
腕時計にしては少し大きめのものから、上品な女性の音声が聞こえてくる。そうだなぁ、スマホを横にして腕につけたくらいかな。
最近のAIは流ちょうに話すものだと感心しつつ、ざくっとスコップで土を盛る。
「ありがとう。いつも助かるよ」
どういたしまして、と答えられた。
書類というのは、先ほど倒した魔物の報奨金を受け取るためのものである。
本来なら一匹倒すごとに指定形式の用紙に書かなければならないけど、さすがにそれはダルすぎる。無理。
しかし、素晴らしきかな現代文明。
なななんと私の代わりにAIがやってくれるのだ。偉い。頼もしい。ずっと壊れないでね。
しばし画面を眺めて、問題なさそうだと思った私は「完了」のボタンを押す。ポンとついた熊の絵、そして熊谷という名は、私のふざけた提出印である。
『経験値を500獲得しました』
腕時計がそんな音声を鳴らす。
数秒ほど経ってから私は口を開いた。
「どういうこと?」
『熊谷様の討伐数が一定数を超えたことで、正式に狩猟者として認められました。そのため経験値を取得できます』
なんのこっちゃ。
最近の機械はとても便利で、さっきみたいな書類申請はAIがこなしてくれる。しかし経験値などというおかしな機能があるとは知らなかった。いや、もしかしてバグなのだろうか。
「えっと、経験値ってなに?」
『魔物から得た力と言っていいでしょう。これを使い、熊谷様の能力や技能を高めることができます。これまでにない新しい自分を見つけるチャンスですよ』
なんのこっちゃ再びである。
とはいえお金にはならなそうな感じだし、また辺りに魔物どもの気配はない。なので新しく追加されたらしきメニューを、ピッと押してみることにした。
そこには生命力や知性、そして機敏性など表示されていて、なんだかゲームっぽいなと思ったが、とある項目に私の目はくぎづけとなった。
「こ、この魅力度ってなんだべさ!?」
『熊谷様が美しくなりますよ』
えぇ!? 本当に!?
そりゃあ私も女性ですし、多少クールぶってはいるけれど、おしゃれなファッションに興味がないわけじゃない。
というよりも飢えている。私だけでなく、田舎出身の女性は特に!
ああ、代官山とかシロガネーゼみたいにおしゃれな地名の場所に住んでみたい!
ん、シロガネーゼは別に地名じゃないか。
先ほどの成果でどうやら1ポイントだけ振れるようなので、ものは試し、ものは試し、と思いつつ、そーっと指で押してみた。
ちなみにその日の夜、お風呂上りに鏡を見てみると「あ、肌の艶がちょっと良くなった気がする」などと私は思ったものだ。
うむ、どうやら嘘ではなかったらしい。
検証できて私は実に満足だ。
あとすみません、どう見ても地雷ステータスらしきものに振っちゃって。
この春に、晴れて16歳となった私は、熊谷千鶴という名である。
本来であれば高校に進学するべきだが、祖父が亡くなり、その家督を継ぐために諦めた。
そう、私は進学したくてたまらなかったのだ。
決して高校受験が面倒だったり、報奨金でがっぽり稼ぎたいなどと思ったりしたわけではない。
仕方なく……そう、別に誰からも強要されていないが、私は仕方なーく家督を継ぐことにしたのだ。
私の名誉のために、そう補足しておく。
うん、あれは一年半ほど前だったかな。
木造の古びた校舎でテクテク歩く私は、当たり前だけど学生服姿だった。
周りの者よりも小さな身体。
短めのボブは、もちろん不良ではないので染めていない。
赤く見えるほど色素の薄い瞳であり、夏の日差しに目が開けられないほどのまぶしさを覚えてしまう。
そのように私という人間にはある程度の個性がある。人との会話があまり好きじゃないのも個性……というか、単なるめんどくさがり屋なのかもしれない。
がらりと戸を開けて入ると、そこは職員室だった。
先生たちがたくさんいるなかで、眼鏡をかけた厳しそうな人が「おいで」と呼んできた。私の担任だ。
「熊谷、これはどういうことだ」
そう言って見せてきたのは、進路希望と書かれた一枚の紙だった。
「はあ、書いた通りですが」
「猟師ってなんだ! ああ、大声をだしてすまない。あのな、熊谷。お爺さんと同じ道を無理して歩む必要はないんだぞ。魔物を殺して金にするなどという生きかたは、見習うべきじゃないと先生は思っているからな」
私の祖父は、銃で獲物をとり、生計を立てていた。あえて過去形としたのは、すでに亡くなっているからだ。
祖父は尊敬する人だった。
気の好い性格も、仕事に対する姿勢もだ。
しかしあくまでそれは私の考えに過ぎず、先生からはまったく違うように見えたのだろう。でなければ祖父を卑下しないはずだ。
まったく反応しない私を見てか、先生はがしがしと頭を掻いた。
「あのなぁ、最近は魔物だなんだと物騒になりつつある。安全に暮らせていた昔とは違うんだ。この学校も今年で廃校になるんだぞ」
それはもちろん知っている。
しかし、むかむかするので素直にうなずけない。この胸に溜まった毒を少しだけ吐いてみるとしよう。
「路頭に迷うのです? 先生こそ進路希望を書いたほうがよろしいのでは?」
だんっ! と机を叩いた先生は、周りに「すみません」と何度も謝っていた。ああ、担任のみっともない姿を見ちゃったな。
「とにかくだな、どうして猟師などというものになりたいのか私に教えてくれ」
きっと彼は良い先生なのだろう。
同級生たちが頼りにしているようだし、相談すればちゃんと答えてくれている。しかし私の相談には応じてくれなそうだ。
先生を非難しているわけではなく、もともとの価値観が異なるのだからしょうがない。また、多大な労力を使ってまで彼の価値観を変えたいとも残念ながら思わない。
しばし悩み、私は先生に言った。
「これがすごくいいんですよ」
言いながら見せたのは私の指だ。
現金を表すそのサインに、先生はがっくりとうなだれていた。
というわけで、本来であれば高校に通うところだが、私は大した勉学も積まぬまま猟師となったわけである。
ただし、頭の固い先生は、それで良しとしなかった。
とある高校のとある教室。
そのかたすみには安っぽいモニターがある。そこに映し出された人物こそ私である。
頭にヘッドフォンをつけて、こっくりこっくりうたた寝しつつもグッとこらえる。
難解な授業よりも、どうにかして起きている映像をこのモニターに映せないかなと考えていたとき、キンコンカンとチャイムが鳴る。どうやらお昼を迎えたらしい。
ふぁぁ――っ、とあくび交じりに伸びをした。
あのクソ担任め。
なにが高校の通信教育だけでも受けておけ、だ。
てっきりビデオ映像で習うものだと思っていたら、まさかのリモート出席だとは思わないべさ。詐欺師。アホ。
学校に通えるのは、しっかり学費を用意してくれたお爺さんのおかげだし、その点はものすごく感謝している。だけど、正直なところテスト勉強をまたしなければいけないのは気が重い。
まあいい。さっさと飯でも食べよう。そう思い、焼うどんに箸を伸ばしていると、画面の向こうから見つめられた。
「お、熊谷、なんか可愛くなってねーか?」
むふぉっ、と焼きうどんを吹き出しかけた。
慌ててコップに手を伸ばしたが、それよりもニヤけそうになる口元を抑えるほうがずっと大変だった。
いや、彼らには言えない。
せっかくの経験値を魅力度とやらに費やしてしまったなんて口が裂けても言えない。あまつさえ、あれから調子にのって2ポイントも加えてしまった、などということは。
「そ、そんなことはないべさ」
「いや、マジでそうだって。おーい、見てみろよ。なんかアイドルっぽくねーか?」
なんだなんだと他の男子たちまで集まってしまうと、嬉しいを通り越して気持ち悪さが勝ってしまう。あれだ。蜜にむらがるカブトムシを見ている気分だ。正面からのアップで。
とりあえずボタンをぽちっと押して、背景が七色の「しばらくお待ちください」という画面表示に切り替えた。ふう、これで安心だべ。
「あーあ、だめだ。もう魅力度に振るのはやめよう」
たったの3ポイントだと自分に言い聞かせていたが、思ったよりも効果が大きい。嬉しいんだけど、さすがにちょっと困るべさ。
おかげで眠気はどこかに飛んでくれたけど、あれこれと私は考え始めてしまう。
どういう理論なのかは分からないが、彼らの反応を見る限り、能力アップというのは効果的な感じがする。となると強靭度や知性などの見た目と異なるものを上げたらどうなるのかな。
はて、他の人はこれをどうしているのだろう。
日本で狩猟している人は、もちろん山のようにいる。というよりも私は新参者だ。ならばそれなりの人数が経験値を得ているはずだろう。
試しにサイトで検索してみたが、それらしいのがひとつも見つからない。というよりも、悲しいことに猟師たちのほとんどが廃業していたことを初めて知った。ガーンである。
ま、まあね、危ない職業だし、続ける人なんてかなりの変わり者だよね。
「うーん、ヒントでも見つかればと思ったのに。でもまあ、効果があると分かって良かったかな。これからは役立つものに振るとしよう」
そうひとりごとを漏らしつつ、私は食事し終えた。
うむ、やはり焼うどんは最高の保存食である。
山は危険だ。
そう昔から言われているけれど、最近の山はまた事情が異なる。
ドドオッと土砂を巻き上げて、藪から飛び出してきたのは巨大な熊だった。
いや、熊らしきものと言ったほうがいい。なぜならば、その全身には模様が浮かんでおり、サーベルタイガーのような牙さえ生やしている。
あれでどうやって噛むのだろうと考えたとき、口から喉にかけて、ばくっと開いた。うーん、きっしょ。
ドンッッッ、と撃ち放った鉛玉は、スラッグ弾と呼ばれている。貫通力に優れており、これ以上のものは日本に存在しない。
狙い外さず、正面から額に命中させたが、頭骨がブ厚すぎてわずかに足を緩めさせるくらいにしかならない。うん、失敗した。
慌てず騒がず狙いをやや下、心臓のある位置に修正する。そして、すう、ふう、というひと呼吸のあと、ゆっくりと引き金を絞った。
恐ろしいまでの突進は斜めに傾き、お腹を見せる形で巨大熊は私の横を抜けてゆく。
草木の折れる音をしばらく響かせたあと、それはピクリとも動かなくなった。
「ん、殺れたか」
熊であれば心臓を狙うべきだけど、あれはどう見ても普通の熊じゃない。ただ、心臓をつぶされて無事なやつはあまりいないか、と考え直す。今後も同じ場所を狙うとしよう。
『経験値を1000ポイント獲得しました』
「あ、ちょっと多めだね。このあいだのより強そうだからかな。じゃあさっそく能力値と技能を上げちゃおう」
このあいだ確認したところ、技能を得るためには、ある一定以上の能力値がいるらしい。
大きめの腕時計をピッピッといじり、上げたのは機敏性、それに知性だ。
また魅力度についてはすでに3ポイントほど取得している。
他の項目に振ったほうが役立っただろうけど私はまったく後悔していない。なぜならば可愛いと言われて嬉しいからだ。
「で、この技能が取得できる。といっても今回は1ポイントしか振れないな」
・【索敵】 レベル1
なぜこれを選んだかというと、狩猟している者であれば、ほぼ全員が「当然」と答えるほど魅力的だからだ。
猟師の仕事で最も辛いのは、獲物を求めて山を歩き回ることだろう。
狩猟に適したスポットを見つけたら、知人にさえも絶対に教えないくらい大事な情報となる。
その手間が省けるのなら、ポイントのひとつやふたつを費やしたところでお釣りがくる。
「えーと、索敵ってどうやるの?」
『音声で命じる、あるいはメニュー項目から直接実行することもできます。周囲の索敵を開始いたします』
うわっ、すごい!
私は目を見開くほど驚いた。
どういう原理かは知らないが、私の視界に三角マークと「兎」という文字、そして72メートルという距離まで表示されたのだ。
どれどれと樹木から顔を覗かせてみると、こっちに気づいたらしく茶色の兎が跳ねていった。うわぁ、マジだべさ。
『索敵にはフィルター機能があります。魔物、動物、人という風に切り替えることも可能です』
「う、うん、便利すぎて引いたわ。ちょっとしたチートだね、これ」
100メートルくらいまで索敵できるようだし、おそらくはポイント加算することで距離も伸びるだろう。
しかしこうなると悩ましい。
『どうされました?』
「うん、1ポイントでこれだけ便利だと、他の技能もたくさん覚えてみたいなと思って」
『ふふ、実りある狩猟をお楽しみください、熊谷様』
機械とは思えぬ流ちょうな言葉づかいで、腕時計はそんなことを言う。もっと聞いていたくなるほど綺麗な声が実にいいね。
うーん、どうしよっかなぁ。
ひとまずは狩猟のプロになる道を進みつつ、面白そうなものがあれば手を伸ばしてみていいかもしれない。
よほどポイントが余るようなら魅力度をまた上げてみても……いやいや、それは控えようとさっき決めたばかりじゃないか。
などと今後のことを算段しつつ、ガシャッと上下二連装式の銃を開いた。
新たな獲物のために、弾を装填しなければならない。
どるどるどる。
軽快なトルク音を響かせながら、私は山道をのぼってゆく。
以前と違い、このあたりは道の整備がされていない。
枯葉や枝などで埋もりかけているため、土地鑑のない者には走りづらい道かもしれない。夜間は特にそうだろうね。
だけど地面まで紅葉で染まっている道を走るのは、そんなに嫌いじゃないかなぁ。
私だけの道という感じがして、ちょっとだけお得な気になれるべさ。
ちなみに今日に限ってサイドカーを単車に取りつけてあるのは、買い出しのためである。
イヤホンでジャズを聴いているのは、このドライブをとことん楽しむためであり、また対向車など絶対にいないのだから事故など起こるはずもない。
良い子の皆さんは、私の真似をしては絶対にいけませんよ。
艶のある女性ボーカルの声を聴きながら、じっくりと単車は加速してゆく。
たくさんの枯葉が舞うなかで、一人きりのドライブを私は楽しむ。
そのとき、イヤホンを通じて話しかけられた。
『熊谷様、当日でも宿泊予約できるホテルが近郊に3件あります。いかがですか?』
「ううん、大丈夫。あんまり無駄遣いしたくないし、今日は雨も降らないってさ。若いんだから体力もあるし、大丈夫大丈夫」
などと自分から若いと言うのはどうかと思うが、花の高校生ではあるのだし、なんら問題ないだろう。ブレザーには一度も袖を通していないが。
『経費申請できますし、それほど無駄遣いになりませんよ』
「えー、そうなんだ。というかいま幾ら稼いでいるんだろう」
『今月に入っての収入は、52万円です』
ごっ、と私は呻いてしまった。
いやー、えー、嘘でしょう?
52万円といえば大人でも早々に稼げないような額じゃないのかな。
思い返してみると、確かにポイント獲得のためにいつもよりがんばっていた気がする。
能力値だの技能だのと気になるものがたくさんあったしね。
調子に乗ってバンバン撃っていたけどさ、まさかそんな高額になっていたとは……。
「で、どれくらい税金として取られるの?」
『最終的な収支でまた調整されますが、このペースですとかなりの割合ですね。買い物で経費にできるものは、こちらですべて記録いたします』
あー、そうしてくれると助かる。ありがとう。
通信教育とはいえ現役女子高生に、帳簿や税金支払いなどの管理なんて絶対に無理。無理無理、かたつむり。
なのでAIが味方だと心強いったらない。私と違って、絶対にミスしないだろうし。
さて、今回の遠出では、足りないものを買い足すつもりだ。
町に行くため、当然のこと狩猟銃は持ってきていない。それが心細いなと思うほど、私は狩猟生活に慣れきっているらしい。
こっそりナイフを忍ばせているのもちょっとヤバい。
ただの買い出しだが、遠方であるぶん気をつけるべきポイントがいくつかある。
たとえばスペアのタイヤや修理用の工具、それに携帯食や飲料水などもきちんと用意しておかなければいけない。
まったくの無人地帯に住むというのは、半分以上サバイバルみたいなものだべさ。
いざというときには修理サービス会社に電話することもできるが、いったい誰が好き好んで避難区域まで来るのだろうか。割り増し料金待ったなしだ。
「うーん、このペースなら車も買えるかな。免許が取れるようになったら考えよう」
『それがいいです。安全ですし、荷物がもっと多く運べます。せっかくなら車中泊できるものにしましょう』
「ん、いいね! どうせ人がいないのなら、湖のあるところで一泊とかしてみたい」
道具を積めるのならキャンプ用品だって持っていける。
まあ、そんな綺麗な景色のなかで、ドンパンと銃を撃ちまくるのかもしれないが。
そんなことを考えていると、ようやくにして避難区域の境界線が近づいてきた。
山あいからふもとに下りてゆくと、ダムみたいなネズミ色の壁が見えてくる。あそこから先は人にとって安全な地域だと示しているのだ。
また、逆に言うのであれば、山間部のほとんどを人は手放してしまった。
つまりは日本国土のうち75%ほどが魔物のものとなったわけである。
これに危機感を抱く度合いは人それぞれだが、住めば都というべきか、同級生の子たちは大して気にしていなかった。
遠くの山まで行くことなんてまずないし、それよりもゲームとかをして遊んじゃうよね。むしろ昔からの生活に慣れていた大人のほうが辛そうかな。
どこか古めかしいジャズを聴きながら、きっちり法定速度まで私は減速させる。
ここから先は、魔物ではなく人の土地なのだ。
単車の風圧で、ざあっとたくさんの落ち葉が道を流れていった。
店内に流れる音楽と、窓一面が曇るほどの湿度。
暖色に染められる店内で、私の瞳はきらきらに輝いていた。
うわー、おうどんだー!
ついでに頼んだのは、おでん、漬物、そして茶碗蒸しという私の好きなものてんこ盛りだ。くーっ、生きていて良かったべさ!
ではさっそくという風に、ふうふうとうどんに息をふきかけて、漂う醤油の香りもまた楽しむ。えへへ、美味しそう。
ここは駅前にある小さなうどん屋さんで、急いでいる人は立ち食いできるスペースを使うみたい。
私は久しぶりの食事をきっちり楽しみたいから、二人掛け用のテーブルにさせてもらった。
卵、刻みネギ、厚揚げ、それに茄子とピーマンの天ぷらと、トッピング山盛りだ。
その天ぷらに七味唐辛子をたくさん振りかけておくのが私の隠れたこだわりでもある。
ずっ、ずずっ、とすすれば口内につるんとした舌ざわりの麺が入ってくる。もちもちで噛みごたえのあるものだ。
小麦、塩、水、というシンプルな材料だからこそ、この優しい味わいが生まれるのかもしれない。
あー、写真を撮っておけば良かったぁ。
などと後悔するけれど、ずるずると麺を啜ってしまうのは止められない。
そうしてうどんの味わいを楽しんだあと、じゃくっと天ぷらを食む。
うっま、と一人であれば口にしていただろう。
口いっぱいの衣は、いい感じにじゃくじゃくと小気味よい音を立てて噛み砕かれてゆく。それに唐辛子の味わいが加わって、どうこらえても私の口には笑みが浮かんでしまった。
うんうん、うまうま。
やっぱり町に出たらこういう食を楽しまないと。
なんとなく思うんだけどさー、高級店よりも庶民的なお店のほうが美味しく感じられるんだよね。
もちろんお高いほうが良いお肉を使っているんだろうけど、これこれ、こういうのが良いのだと私の舌が喜ぶ味なんだわさ。
ふっふっふー、と息を吹きかける。
頬にかかった髪をかきあげて、そこに汗が浮いていても気にしない。
たくさんの蒸気を上げながら、熱々のそれが口内に入ってきた。
この幸せなひとときが、お腹いっぱいになるまでずっと続いてくれる。それが嬉しくて、やはり私はまた微笑んでしまうのだ。
「熊谷さん?」
しかし、まさかのまさか。
まさにいま、おうどんを口に入れたそのとき、私に声がかけられた。
「んっ、んん?」
思わずそんなまぬけな声を漏らしたのは、意識の半分以上をうどんに割いていたからだろう。
そしてあろうことか、どんぶりを手にした男が目の前にどっかと腰かけてきた。
「奇遇~、中学以来? あはっ、俺も部活のあとでさ、もう腹減っちゃって」
見るからに野球部員っぽい坊主頭の男は、確かに中学生のころの同級生だ。
だけどこのバカっぽいな笑いかたがあまり好きじゃなくて、あんまり話したことがない。
「んで、なにしにきたんだ? 俺らの村で猟師やってんだろ、お前」
「食料品とかの調達」
「わざわざこんな距離を? アメゾンで注文したら? あはっ、絶対に届かないだろうけどな」
うーん、頭が痛いなぁ……。
もぐもぐ噛みつつ、どう答えようか私は考えた。
「私、ご飯を食べてるんだけど?」
「見れば分かるよ。ここの席、空いてんだろ。ちょうどいいじゃん」
「あっち、空いてるよ」
「え、なんでわざわざ立ち食いのスペースに行かないといけないんだよ」
「私がご飯を食べているから」
ふぁっ、という変な声をイガ栗頭は漏らす。そして頭を掻き、参った参ったとボヤいた。
「相変わらずだな、そういうトコ。久しぶりに会ったっていうのに冷たくね? だからお前はクラスで孤立するんだよ」
うーん?
なんだこいつ。どうして上から目線で私の悪口を言うんだ。孤立といっても、ただスマホをいじっていた感じだぞ。まあ、それを孤立というのかもしれないが。
そんなことはどうでもいい。
私はただ熱々のおうどんを早いとこ楽しみたい。でないと天ぷらにつゆが染みすぎてしまい、べとべとになってしまう。
「悪いけど、下らない悪口を言うのなら、どっかに行ってくれる?」
「ハア? それが同級生への態度かよ! お前、頭がおかしいんじゃねーのか!?」
なにが彼の機嫌を損ねたのだろう。周囲の客まで振り返るほどの大声に驚く。
そういえばと思い出すのは、一見気が好さそうに見える彼だが、他の男子生徒を率先して虐めている姿だった。
その点についてはなにも言わない。
だが、彼の唾が私のどんぶりまで飛んでくると話は別だ。これはもうだめでしょう。さすがに腹が立つ。
怒りで身体が震えそうになるのをどうにかこらえる。そして私はそっと箸をテーブルに置き、どうにか笑顔を作った。
「小林君。悪いけど、私は一人で食事したいんだ。ここがいいのなら私は向こうに移るから」
「ん、もうどうでもいいよ。好きにしたら?」
あからさまにふてくされた態度で、取り出したスマホを眺めつつ彼はそう言った。
いいんだ。構うな。
この手の奴は相手にしないほうがいい。
そう自分に言い聞かせて、どんぶりを手に私は立ち上がる。そして立ち食い用のスペースに歩きかけたとき、グッと私の足がなにかに引っかかった。
ガシャ! ばしゃんっ!
目の前で割れたどんぶりと、床にこぼれてしまった食べかけのうどん。
思わず振り返ると、見下してくる彼は「悪い」と言い、出していた足を引っ込めた。
あー、だめだ。
店員さんが「大丈夫ですか」と慌てて声をかけてくるなか、私はもう震えたよ。怒りでさ。
このうどん坊主は、私がどうにかしてやらなきゃな!
つかつかと私は雑踏を歩く。
いつも人のいないところに住んでいるけれど、このような人ごみにも私はまったく動じない。なぜならば視界に「小林」という文字、そして「43メートル」という数字があるからだ。
憎きうどん坊主を許してはならない。
それこそが私を突き動かす原動力となっていた。
『いけません、熊谷様。一般人となにかしらの問題を起こしたら、狩猟免許が取り上げられてしまいます』
そうイヤホン越しに諭されても私の足は止まらない。
AIがそう言ったように、狩猟免許の件があるからあの場では騒ぎを起こさなかった。しかし店内ではなく、通報されない場所であれば話は別だろう。
「私の神聖なるうどんを汚した。あいつにはそれ相応の報いを与えるべき」
『あなたがなにを言っているのか分かりません。とにかく考え直してください。でないと私が通報しますよ!』
AIにしては珍しく感情的なその声に、うぐっと私は唸る。
「そうだった。つい忘れちゃうけど、私は管理されているんだった」
『はい、市民と狩猟者に安心と安全を、というのが私の存在理由です。熊谷様が違反した場合もきっちりと記録いたします』
はー、とため息を吐いた。
いつも頼りにしているけどさ、この子は国から支給されたものだったっけ。
魔物対策のために、私みたいな低年齢でも猟銃が扱えるようになった。そんなバカげた法改正を通すことができたのは、この端末できちんと管理できるからだ。
規則に違反したときはすぐに指摘されるし、それに従わない場合は減点となる。もちろん人を撃つなどの犯罪を犯した場合、すぐさま逮捕だ。
むーんと唸りつつ、私は歩みを止めた。
「分かった、諦める」
『賢明な判断です。あのような下衆な男に、熊谷様が振り回されるなど許せません』
んっ? なんかいま変じゃなかった?
たまにだけど、本当にAIなのかなって疑うときがある。妙に感情的だったり、人間の欲みたいなものを感じたりするのはなぜだろう。
そんな私の思考は、電子音による問いかけによって中断された。
『それで、あの男になにをする気だったのですか?』
「どうもこうも、まず家と連絡先、それにSNSを特定してからじゃないと始まらないよ。バカそうだし弱みもすぐ見つかるでしょ」
『そうでしたか。てっきりあの男を闇討ちするものとばかり思っていました』
闇討ちって……、私をいったいなんだと思ってるのさ。拍子抜けさせちゃってすみませんね。
まあ、今日の目的は買い出しなのだから、貴重な時間を浪費するのはもったいない。そういう意味では血迷った私を止めてくれて助かったかな。うん。
あいつを追うのに使っていた索敵も切ってしまおう。
そう思ったとき、私はおかしな表示に気がついた。
――狂い鼠。
三角形のマーカーつきで、そんな文字が視界に浮かぶ
色で分かるが、あれはただの鼠ではなく魔物だ。しかも数が多く、排水溝あたりにうようよいる。
「町って安全じゃなかったの?」
『壁で覆うだけではすべての魔物に対策しきれません。小さなものは町に紛れ込んでおり、これは大きな問題になりつつあります』
あらら、ここも安全とはいえないのか。
そう言われて気づくのは、あちこちに防護服を着た人たちがいることだ。以前とはちょっとだけ町の景色が変わったのかもしれない。
「ん? ヤバ、うどん坊主に近づいてる!」
わさわさと動く魔物たちは狙いをつけたらしい。
つい先ほど満腹になった男は、彼らにとって素晴らしいごちそうになるかもしれない。
『熊谷様、人を守らねばならないという義務はありませんよ?』
タッと路地裏に駆けだした私に、AIはそんなことを言ってくる。
「そうも言ってらんないでしょ。あんたも早いとこ通報でもなんでもして人を呼んで」
『……分かりました。手助けいたします』
ちょっと、どうしてしぶしぶなのさ!
さっきまで私に論理感をあんなに訴えてきたじゃん。
などと文句を言う暇もない。
ふんふんと鼻歌を漏らして歩いていく男が見えたし、そのすぐそばの排水溝に魔物たちがぞろぞろと集いつつあった。
それらの気配が伝わったのだろうか。
彼は「ん?」と漏らして横を向く。
いけない、急加速した!
ザザザと音を立てるそれは、まるで一体の獣のように固まって男を飲み込もうとしていた。
チャッと腰から抜いたのは、刺突用のナイフだ。
プッシュナイフとも呼ばれるそれは、刃渡り6センチという規定を守り、かつグリップを握ると手のひらで固定できるため私は採用した。
あ、いつもと違う。
能力値で敏捷を上げたからだろうか。
ぎゅっというこれまでにない加速を感じて、しかし戸惑うことなく私は駆ける。
狙うはあの男の背中だ。
もちろん刺すつもりはないし、決して先ほどまでの恨みがあったわけじゃないが、私は「どらあっ!」という掛け声とともにドロップキックをかました。
「ぐぇあッ!」
あはっ、きったない悲鳴!
身体を「く」の字にさせて飛んでいく様は胸がすっきりするったらないね! うーん、合法的な暴力って最高っ!
じゃなくって、これは人命救助だから。みんなも勘違いしちゃだめだよ。
『実に滑稽ですね。あの男の無様な姿を、8K画質で動画保存いたしました』
こらこら、そんなのどうでもいいって。
ん、この場合は人助けした証拠を残してくれたほうがいいのか。あとで文句言われたら嫌だし。
ザクッ、ザクッ、ザクッ!
近くの魔物から一匹ずつ刺殺して、距離を詰められないように後方へと飛ぶ。
真っ赤な目が恐ろしいけれど、決して恐れたり足がすくんだりしない。
ギャッ、ギィッ、という悲鳴は、チャリンチャリンと小銭が生まれる音でもあるのだ。
そのように強くあるべきだ。
私は狩猟者であり、こいつらはただの獲物。
今後も常にそう考えたほうがいい。そんな気がする。
ぞろりと鼠どもは左右に分かれる。
毛並みが真っ黒で、大きさは猫ほどある。そして私が知っている鼠よりもずっと早い。
シャッと飛びかかってきた速度も恐ろしいが、慌てず騒がず、その軌道上に私はナイフの切っ先を置いた。
がつッ、という重い手ごたえに対して、私はなるべくこらえない。受けた力を無駄にせず、また後方へと下がった。
こいつらは逃げる者を追う習性でもあるのだろうか。
目玉をより残虐なものに染めて、致命傷となりうる血管や手足の健を狙ってきた。
「技能を取得する。近接格闘術を可能な限り上げて」
『強靭度、機敏性を上昇させて、近接格闘術を取得いたします。保有ポイントをすべて消費し終えました』
ん、対応が早いね。さすがはAI。
そう感心するのと同時に、私自身に大きな変化が起きた。
「ああ、だめだ。ぜんぜんなっていない」
タタッと後方に下がりつつ、そんな言葉を漏らす。
先ほどまでただ力任せにナイフを振り回していたことに気づき、それが恥ずかしいと感じたのだ。
ナイフを持つ腕の力がごく自然と弱まる。
まるで卵を持つように優しくて、もしも相手から蹴られたらどこかに飛んでいってしまうだろう。だが、これでいい。
私の武器はナイフだけではない。それに依存することなく、ゆらりとした動きで、飛びかかってきた鼠を素手で払う。そして晒された喉を真横に二度、スッスッと切り裂いた。
ん、いいね。
さっきと違い、身体の体幹がぜんぜんぶれない。
どんっ、と死んだ魔物がアスファルトに落ちる。そのときの私は「どうやって全滅させてやろうか」と考えつつ、空いている手で腰から携帯ライトを取り出していた。
魔物にも個性がある。
攻撃的ですぐに飛びかかる奴や、隙を狙い続ける奴、そして己の命を最優先する者などなど。
だから無数の相手であっても、攻撃には波がある。
問題は、いかに効率的とするかだ。
ひとつの答えが、この携帯ライトではなかろうか。逆手に持ったそれを鼠の目に照射すると、ギッと呻いて、動きが止まった。
ざくざくざくっ!
ライトを見たせいだろうか。他の奴らが二の足を踏んだとき、私は先ほど動きがにぶった奴をめった刺しにした。
少しくらいは恐ろしい感じがいい。ただの女子高生ではないと思わせるくらいがちょうどいい。
恐れ、迷い、そして哀れな集団心理によって、一か所に固まって狂い鼠は近づいてきた。
取り囲まれるよりもずっと対処しやすいってことに気づかないのかな、こいつら。
先ほど言ったように、魔物たちには個性がある。
攻撃的なやつはすぐ襲い掛かってくるので、真っ先にそいつらが死に絶えた。
距離にして約50メートルの路地裏には、ごろごろと死体が転がる。
そして、もう間もなく大通りにたどり着くというときに、鼠どもはふと気づく。
もう攻撃的な奴も、隙を狙う知能的な奴もいない。ここにいるのは自分の命が大好きで、群れのなかに潜み、ぬくぬくとしていた連中だけだ。
「おいでえ。怖くないよお」
にたりとした優しい笑顔を浮かべたのだが、いくら魅力度にポイントを振ろうともだめだったらしい。恐怖心に駆られて一斉に逃げだした。
「あー、ごめんねー、私の機敏性が高くって。そら、逃げろ逃げろ。追いつかれたら殺されちゃうぞー」
ぎゅむっと踏んづけたり、見せしめに数匹ほど殺したりしたけど、私は別に残虐的な性格というわけじゃない。
地上、そして人間は恐ろしいのだと知らしめるためであり、逃げおおせたとしても、こいつらは巣穴でビクビクして過ごすだろう。
結果、チュウと鳴きながら排水溝に逃げたのはたったの数匹程度だった。
ふう、と私は息を吐く。
そして背後に振り返ることなく話しかけた。
「そろそろ出てきたら?」
黒い血を頬に垂らしながら私は振り向く。
するとそこには坊主頭の男がいた。信じられないことにスマホで撮影しながら。
「ヤベえよ、お前ってマジ強かったんだな。猟師になるとか言って、すげえ頭のおかしい奴だと思ってたけ、ど……あ、おい、返せよ俺のスマホ。警察に通報すっぞ」
まあ、憎たらしいのなんの。
助けてやった恩なんて、これっぽっちも感じていないだろうね。
『熊谷様、暗証番号をお伝えします』
「ん、ありがとう。えーと、さっきの動画データは、と」
「なんで普通に開けるんだよ! あーっ! 俺の動画がーっ!」
ぽちぽちと操作して、撮影されていた動画データをさっさと消す。そして憎たらしい坊主頭の男に放ってやった。
「あぶねっ! 投げんなよ。これ高かったんだぞ」
こいつ、死にかけたのに元気だな。
そう思いはするが、正直なところ彼とはあまり話をしたくない。
床にぶちまけられたうどんを思い出すと、ムカムカしてしまうし、おかしなことを口走ってしまいそうだ。
なのでさっさと踵を返す。
しかしなぜか分からないが、男は背後から追ってきた。
「いやぁ、ビビったのなんの。さっきのアレ、魔物ってやつだろ? 俺、生で見たの初めてでさ、見て、まだ脚が震えてら」
無視だ無視。
大げさな身振り手振りで話しかけてくる態度だけでも腹が立つ。
どうあっても私はこいつのことを好きになれない。できる限り、関わりたくないと感じる相手なのだ。生理的に無理というやつである。
「あ、おい! なあって、話を聞けよ」
ようやく追うのを諦めてくれたらしく、彼は足をゆるめる。
遠ざかってゆく気配にほっとしたとき、背後から大きな声でこう言われた。
「待てって、食料の買い出しに来たんだろ? あとさっきは俺が悪かった。ごめん。マジで死ぬかと思ったんだ」
振り返ると、彼にしては珍しく神妙な態度で頭を下げていた。
がらがらとシャッターを開けてくれる方は、少し太りぎみなおばさんだ。
振り返る彼女は、気の好さそうな笑みを浮かべた。
「うちのバカ息子が世話になったね。背が小さいせいか口の悪さを覚えちまって、あたしも手を焼いているんだよ」
「うっせ、背が小さいって言うな」
むすっとした態度で彼はそう言うが、いつも見る横柄な態度はなりをひそめていた。
そんな息子に呆れ混じりの息を吐き、おばさんは笑いかけてくる。
「千鶴ちゃん、卸値でいいから好きなだけ選んでいいよ」
「え、本当ですか? ご迷惑でなければ良いのですが」
「もちろん。こいつを助けてくれて、ありがとうね」
こいつ呼ばわりされた彼は、じろじろと私の単車を眺めている。そんな我関せずの態度に腹が立ったのか、おばさんは彼の頭をぱかんと叩いた。
「お前も千鶴ちゃんに礼を言いな!」
「いてえっ! 言ったっての! さっきちゃんと言った!」
「なら何度でも言いな! あ、ごめんなさいね、千鶴ちゃんの前で」
いいえと言いはしたが、正直なところ胸がどきどきしている。こんな風に怒鳴るなんて、おっかないなと思ったのだ。
ただ、まあ、悪い気はしない。
たくさんの荷物を積み、単車を走らせたときに私はそう思う。
さようなら、またねと手を振られるのは久しぶりだったしさ、あのとき逃げずに良かったなと思ったんだべさ。
ドルドルとエンジン音を響かせて、陽が傾いてゆくなか私は走る。
もう枯葉ですっかり覆われている道であり、人の世界からはだいぶ遠ざかった。
身分証を首にぶら下げたままだと気づき、それを胸ポケットにしまったとき電子音声がイヤホンから響く。
『良かったですね、熊谷様』
うん、と私はうなずく。
そしてアクセルを効かせて、じっくりと加速させてゆく。
もう人の定めた法定速度を守る必要はないのだ。
AIもそうと悟ったのだろう。イヤホンには軽やかなジャズの曲が響き、女性ボーカルによる艶やかな歌声が聞こえてくる。
単車の発する風圧で、ざあっとたくさんの落ち葉が道を流れていった。
お読みくださりありがとうございました。