海が見える宿屋、再び
富裕者層向けの宿屋が、今ではならず者の冒険者に占拠されていた。
ケッセルでは数少ない憲兵が投入されていたが、今では物言わぬ骸となって地面に転がっている。
法の秩序が及ばなければ、人は簡単に獣に変わる。
酒と肉を食い荒らし、無抵抗の職員を戯れに殺した。
この宿屋の中で、命を保証されているのは二人だけだ。
大広間で投げナイフの的にされた『英雄』と、その姪である。
胴の鎧だけ残され、屋敷の石柱に鎖で縛りつけられた姿は、無残なものと成り果てていた。
――――ただの暇つぶし。
何をやっているのかと問われれば、ならず者たちはそう答えるだろう。
酒を一杯飲み干し、ナイフを投げ、『英雄』が動かなければ、姪に危害は加えられない。
ただし、少しでも動けば、姪の一部が切り取られる。
最早、気力しか残されていないゲルダだった。
死に難い所へナイフが刺さっているとはいえ、刺さったナイフの数が多く、血が流れ過ぎている。
それでも肉親のためにナイフを避けもしないのは、流石としか評せない。
「おう、今、動いたな」
次第に飽いてきた来たならず者は、難癖をつけて、ルイナの耳を切り落とそうとした。
「……やめなさい!」
朦朧とする意識の中で、必死に叫ぶ。
決して『餓狼殺しのゲルダ』が弱かった訳ではない。
単に、彼女の連れてきた護衛が裏切って、ルイナを人質に取られた結果がこれだ。
その裏切った護衛もまた、投げナイフの的になって殺された。
全く以って、度し難い。
怒りで気が違えそうになり、涙が出る。
その涙が一筋だけ、左頬の傷に沿って流れた。
刹那、宿屋の玄関ドアが開かれた。
蝶番が音を立てて軋む。
そこには、異形の鎧を身に着けた男が立っていた。
「てめぇは?」
門番らしき冒険者が、無遠慮に近づいた。
既に殺傷圏内に入り込んでいる。
死地も分からぬ粗忽者が、はらわたを垂れ流しても仕方あるまい。
じわりと熱くなって小便でも漏らしたのかと、己の腹を見た冒険者が、垂れ下がる腸を見つめて叫ぶ。
「あ、ああああ、あががあああああぁぁぁ」
うるさい半死人の首が、斬り飛んだ。
東方の蛮族の顔は、面頬に隠れている。
だが、素顔はその面頬と同じく、ひどく笑っていた。
「今では名乗る名も無いが、別に貴様らも俺の名前など知らんでもよかろう」
「何だこの野郎ぉぉぉ!」
剣を振りかぶって突進してくる冒険者がいた。
構わず歩を進めて、剣の間合いを潰す。
この距離では、剣も振るに振れない。
「貴様は技量不足である」
東方の蛮族は、反りが入った大太刀の根元を冒険者の首元に押し付けた。
上から下に、ゆっくりと擦る様に切り落とす。
「いぎゃぁぁぁぁ、いてえぇぇぇぇぇぇ」
鋭い刃がずぶずぶと入り込み、皮を裂き肉を切り骨を断つ。
鎖骨から腰元まで押し込まれた大太刀が、血に濡れて煌めいた。
「うるおおおおあああああ!」
絶叫を上げて、大柄なならず者が斧を振り上げていた。
背に石柱を背負い、大太刀が振り抜かれることを防いでいる。
「たわけ。小賢しい」
大太刀の柄を両手で握りしめ、袈裟懸けに振り下ろした。
剛の刃が石を断つ。
石柱が切断される斬撃で、生身が無事であるはずもなく、ならず者が内容物を撒き散らして地面に倒れた。
東方の蛮族は、一瞥してから視線を横へ向ける。
彼の背後から、ルイナを人質に取った冒険者が叫んだ。
「お、おいっ! こいつを殺すぞ!」
「ああ?」
不機嫌な声で、得物を肩に担ぎながら振り返った。
泣いて震えるルイナの首元に、ナイフが突きつけられている。
東方の蛮族は、怒気を露にした。
「貴様っ! それでも冒険者か!」
「な、はあ?」
今更言われるまでもなく、このナイフを持った男は、ならず者で冒険者である。
冒険者が悪事を働くことで、異形の戦士が怒って叫ぶとは、意味があるとは思えない行為だ。
そうであるならば、その怒りが届く先が違う。
涙の浮かんだ瞳は、誰のものか。
冒険者になろうと思った少女の心に――――僅かでも火が灯ればよい。
いずれは越えねばならぬ場所だ。
「冒険者ならば、踏み越えよ! 踏破しろ! 斃れるならば前に征け! それが本懐であろう――――やり遂げよ」
「うん」
ルイナが、ならず者の腕に噛みついた。
「いだぁ、は、離せぇ!」
ナイフの柄で頭を殴られる不格好さだが、これは反撃の狼煙だ。
お前に屈せぬと、心の火が燃えた結果だ。
此処で死ぬことになろうとも、お前だけは許せぬと、己の意志を通したのだ。
勝つか負けるかは、この際どうでもよろしい。
まっすぐな意地を通してこそ、人は美しい。
「その意気や良し!」
東方の蛮族は、間合いの外から大太刀を振った。
普通に考えれば、届かない距離だ。
踏み込んで、腕を伸ばして、なお足りない。
それはそうだ。
その大太刀は斬ることが目的でなく、意地を燃やす『英雄』に貸し与えただけなのだから。
「やめろと言いましたよ、私は」
斬られた石柱の影から踊り出て、大太刀を受け取ったゲルダが振りかぶる。
その剣技は出鱈目だったが、ならず者を斬るには余りあった。
斬撃が横に薙がれ、冒険者の頭部上半分が回転して飛んで行った。
ゲルダが安堵した表情でルイナの無事を確かめ、大太刀の柄を差し出しながら振り向く。
「助力、感謝いたします。……助けられるのは、これで二度目です」
「知らん。感謝を受ける理由もなし」
大太刀を受け取った東方の蛮族は、にべなく吐き捨てて得物を肩に担ぐ。
ゲルダが何かを口にしかけた。
それを遮るように、彼は叫ぶ。
「『何でも屋』っ! どうせついてきておるのだろう! こやつらの面倒を見てやれ!」
「ったく、俺にばっかり何でも押し付けやがって」
禍々しい擦り切れた外套を頭から被り、東方の踊りで使われる老人の仮面を被った男が、柱の陰から姿を現した。
特徴的な黒革の手袋に覆われた義手が、外套から二つのガラス瓶を取り出した。
それを、ゲルダに差し向ける。
「……まずはこれを飲め。その後で回復魔術を受けろ。あと、そこのガキ。手を出せ。指を繋げてやる。その方が奇麗に治るからな」
ゲルダが信用できない目で、翁の仮面を見つめた。
翁の仮面が、苛立った声を出す。
「おい、こっちは助けたくもねぇ人間の面倒を見てやってるんだ。必要ねぇならさっさと失せろ」
「その口ぶりからすると、貴方は魔族ですね?」
ゲルダの警戒が露になる。
人類が魔族と争った歴史は、根深いものがあった。
それを考えると、素直に治療を受けてよいものか判断がつかない。
彼女の葛藤を余所に、ルイナが手を出した。
「お願いします!」
「……おう。だが、勘違いするんじゃねぇぞ。大将の頼みだからやってやるだけだからな」
翁の仮面が、外套の中から小指を取り出した。
いつのまにか義手に握られていた針が、すいすいと神経と筋肉を繋げていく。
「待ちなさい、ルイナ!」
「大丈夫だよ。だって、冒険者は冒険しろって、オウジさんが言ってたから」
彼女が縫われる痛みを堪えて、強がった笑顔を浮かべる。
ルイナの目は、縫合される小指を見つめ続けていた。
彼女のメンターが言っていたように、ルイナの素振りは『悪くない』。
石柱を斬り落とす腕前の戦士が、そう太鼓判を押したのだ。
身近で『英雄』の剣技を見続けて、それを完璧に再現させる目が、彼女の持ち味である。
よく転ぶのも、力加減をも違えるのも、全て自慢の叔母である『英雄』を模倣しすぎていたからだった。
己の冒険を始めた彼女の才能が、開花した瞬間だ。
そんな彼女の目が、異形の鎧を着て態度が変わっただけで、人違いを起こす道理はない。
「――――なっ、んですって」
ルイナの言葉に驚愕したのが、ゲルダだった。
恐る恐る、恩人の大太刀を握った己の匂いを確かめる。
記憶の中で、匂いが合わさった。
「あ、あわわわわわわ」
途端に震えだすゲルダであった。
彼女が慌てて東方の蛮族を見ると、彼は開け放たれた扉から、砂浜へ出て行くところだった。