6
その翌週の金曜日。その日も皓太はいつも通り、会社に出勤していた。
「おはよう」
皓太がいつも通りの時刻に来て、自分のデスクにカバンを降ろすと、正面のデスクにいた諸見里さんが声を掛けてきた。
「おはようございます」と皓太も挨拶をすると、「ねえ、池田くん。今日、何の日か知ってる?」と、彼女が訊いた。
彼女にそう言われて、すぐに今日が何の日かを考える。しかし、皓太はそれが何かを思い出せなかった。
「何でしたっけ……?」
皓太が諦めてそう訊くと、「今夜は、親睦会だよ」と、彼女は言った。
ああ! 皓太はそこでようやく思い出した。
「すっかり忘れてました……。何時からでしたっけ?」
皓太がそう訊くと、「七時からだよ」と、彼女が言った。
「場所は、この前と同じ居酒屋だよ」
「そうでしたね。すみません、ありがとうございます」
「お礼にも及ばないけどね。まあ、そんなんだから、今日は六時半までには仕事切り上げてね」
それから、諸見里さんがそう言った。
「はい、分かりました」
皓太はそう返事をした後、席に着き、パソコンを立ち上げる。それから、すぐにメールのチェックを始めた。
お昼休みが終わり、皓太は午前中にやっていた仕事を引き続きやった。それがちょうど終わった頃には、午後六時十分になっていた。
皓太はまだやろうと思っていた仕事があった。けれど、この後親睦会であるので、それを始めてしまうと間に合わないだろうと思った。別にその仕事は急ぎでもなかったので、それは明日に回そうと思い、その日はそこで一旦切り上げることにした。
皓太は首を回し、それから、伸びをする。
「終わった?」
それから、諸見里さんがパソコンを見ながら皓太に訊いた。
「ええ。とりあえず今の仕事が終わって、キリがいいので」
「そう」と、彼女が相槌を打った。それからしばらくして、「よし! 私も終わった!」と諸見里さんが言って、肩を回した。
彼女はすぐにスマホの画面を見て、「六時十五分か」と言った。
「じゃあ、そろそろ準備して行こうか!」
「はい」
「私、トイレ行ってくる」
「分かりました」
「あ、そうだ。池田くん、河西さんにも声掛けてよ。一緒に行こうって」
それから、彼女がそう言った。
「あ、はい」
皓太がそう返事をすると、すぐに彼女はトイレへ向かった。その後、皓太も自分の席を立ち、辺りを見回した。皓太のデスクの少し離れた所に、河西さんはいた。彼女はまだ仕事をしているようだった。
「河西さん、終わりそう?」
それから、皓太は彼女の所へ行き、声を掛けた。
すると、彼女はビックリしたのか、身体をびくりとさせた。
「わあ、池田さんか! もう驚かさないでくださいよ……。」
彼女は皓太を振り返って言った。
「ゴメンゴメン。河西さん、どう? 仕事終わるかな?」
「もうすぐですけど」
「そっか」
「それがどうかしたんです?」
「諸見里さんが三人で行こうって言ってたから、声掛けて来てって言われて……。」
皓太がそう言うと、「あ!」と、彼女が声を上げた。それから、彼女は腕時計をちらりと見る。午後六時二十分であった。
「もうこんな時間ですか!」
「うん」
「ヤバいヤバい! もうちょっとだけ待ってて下さい」
彼女は慌てた口ぶりで言い、真剣な顔でパソコンを見た。
「うん。待ってるから、キリの良いところで終わらせてね。準備が出来たら行こう」
皓太がそう言うと、「はい、分かりました」と、彼女は画面を見ながら返事をした。
「すみません、お待たせしました!」
それから十分後に、ようやく河西さんが諸見里さんと皓太の前にやって来て言った。
「もう六時半だ。急がなきゃ」
諸見里さんがそう言い、すぐに彼女はその部屋を出て、エレベーターホールに向かった。皓太や河西さんもその後に続いた。エレベーターに乗り、三人は会社を出た。
親睦会の会場は、会社の近くの居酒屋で行うことになっていた。
五分程歩き、三人はようやくそのお店に着いた。
「よう! 来たか!」
三人がそのお店に入ると、戸田課長が皓太たちを見て言った。
「どうも」と、諸見里さんが挨拶をした。それから、皓太と河西さんも、彼にペコリと頭を下げた。
「なんだ三人して、冷たいな……。」と、彼は呟くように言った。それから、「まあ、いいや。さあ、こっちだ」と、広い座敷に案内してくれた。
そこへ行くと、もうすでに部長や皓太の先輩や同僚、後輩たちなどが集まっていた。三人はすぐに空いている席に座った。
その後も、続々と社員たちがやって来て、賑やかになる。そして、午後七時になり、ようやく親睦会が始まった。
「乾杯!」と、戸田課長が音頭を取った。
乾杯と、皆がビールグラスをめいめいに鳴らし、皆、一気にそれを飲んだ。
「ぷはー」
「うめー」
「おいしい」
と、皆が口々に息を吐いた。
皓太もビールを一口飲んで、息を吐く。諸見里さんもそれを一口飲んで、ふーと息を吐いた。河西さんも一口飲むと、皓太の方を見てにこりと笑った。
それから、コース料理がやって来て、皆それぞれが料理をつまんだり、ビールを飲んだりしながら雑談をしていた。
「そう言えば、この間のサッカーの試合観た人いる? 日本対スペインの?」
ふと、戸田課長がこの前テレビでやっていたサッカーの試合の話をした。
「観てないです」と、何人かの社員が言った。それから、「観ましたよ」と、言った社員たちもいた。
皓太はサッカーに興味がなかった。だから、その試合を観ていなかった。
「私も観てないです」と、諸見里さんも言った。
「私、観ましたよ!」
それから、河西さんがそう言った。「二対一で、日本が負けちゃったんですよね」
彼女がそう言うと、「ああ、そうそう」と、戸田課長が頷いた。
「だけど、途中までは日本とスペインが一対一だったんだよ。俺、この試合はこのまま同点で延長戦に入ると思っていたんだ。そしたら、試合の後半のアディショナルタイムでスペインが逆転ゴールを決めて、日本が負けてしまったんだよ……。あれは、観ていて悔しかったなぁ」と、戸田課長は言った。
「ですよね。私も、日本が追加点を入れて、この試合は勝つんじゃないかって思ってみてました」と、河西さんが言った。
「だよね」
「そしたら、スペインが決めて……。」
「でもそれって……。」
それから今度、諸見里さんが口を開いた。
「そうなる運命だったと思いますよ」
彼女がそう言った後、「運命?」と戸田課長が言い、笑った。
「でた! 運命って言葉! 諸見里のお気に入りの運命のお話」
「課長、やめて下さいよ! そう言うの! でも、本当にそれって運命だと思いますよ」
彼女がそう言うと、「というと?」と、戸田課長がにやりと笑って、訊いた。
それから、諸見里さんが話し始めた。
「そのサッカーの試合の話ですけど、日本はスペインに逆転ゴールを決められて負けた。それが今回、現実として起こった事実であって、あの逆転ゴールの直前までは、同点で延長に入る可能性もあったし、日本が追加点を入れて勝つ可能性もあったんです。それから、スペインにゴールを入れられて日本が負けるという可能性だってあった訳です。それが、今回負けるという可能性が事実に変わったということなんですよ」
「…………。」
諸見里さんがそう話すと、河西さんが目をぱちくりさせた。
それから、「なるほど……。」と、戸田課長が言った。
「つまり、三つの可能性のうちから、スペインが逆転ゴールを決めたことで、日本は負けると言う可能性が事実になった、ということだな」
戸田課長がそう言うと、「そうなります」と、諸見里さんは頷いた。
「諸見里はさ、運命運命って言ってるけど、そもそも運命って何なんだ?」
その後、しばらくして戸田課長が口を開いて、彼女にそう訊いた。
「運命ですか……。前にもお話ししたかもしれませんが、運命を考える上で二種類の考え方がありまして、一つは、『因果的決定論』という考え方。もう一つは、『神学的決定論』です」
「ほう」
戸田課長は頷く。
「因果的決定論というのは、因果関係が続くことで、現在の状況が決まってしまったとする考え方のことで。例えば、池田くんが大学受験に失敗したとします」
彼女はそう言って、皓太を見た。そう言われて、皓太はドキリとした。それから、皓太は皆に見られて少し緊張した。
「大学受験に失敗した理由は、受験前日によく眠れなかったからでした。どうして前日に眠れなかったかと言うと、夜遅くまで好きなテレビ番組を観ていたから……というような感じです」
「あー、なるほど」
「もう一つの『神学的決定論』というのは、簡単で、なぜ大学受験に失敗したのかというと、神様があらかじめ決めてしまっていたからで、いくら努力をしていたとしても結局は無理だった、というような考え方です」
「はいはい」
「それから、運命論にも二種類あって、『物語的運命論』と『論理的運命論』というものがあります。まず物語的運命論についてですけど、例えば、子ども時代に親から叱られたことがある人が自分の心に小さなを傷を作ってしまい、青年時代にぎすぎすした人間関係を築いてよりその傷が深くなっていったとします。そして、その人が結婚をして、ある日そのパートナーと口論になって、その末に刺してしまったという人生があったとしますね。その時、この人が『これが運命だったのか!』と思ったとすれば、そこで運命論は成立するんです。つまり、ストーリーや物語として成立した運命論を物語的運命論と言うんです。それに対して、人生のストーリーや中身とは無関係に、運命という概念を理屈によって詳しく掘り下げるだけで成立する運命論が論理的運命論というみたいです」
「ふーん、なんだか難しい話だな」と、戸田課長は言った。
「ですね」と、皓太も頷いた。
「あ、そうだ!」
それから諸見里さんはそう言って、目の前のレモンサワーを飲み干し、そのグラスを皆に見せて言った。
「この氷なんかがいい例です」
「氷?」と、戸田課長が首を傾げた。
「はい。この氷って、もともとは水だったのは皆さん分かりますよね?」
諸見里さんはそう言って、皆を見回した。
「ああ」と、戸田課長は頷いた後、他の皆も首を縦に振った。
「当然、中学で理科の授業を真面目に受けていれば分かる話だと思います。水が固まって、氷が出来ます。この氷は、水が『固体』になったもの。水は『液体』です。それだけでなく、水は『気体』として空気中にもあるわけです」
「うんうん」
戸田課長が頷く。
「このグラスに入った氷は今、水が固体として存在している訳で、水なので液体や気体にもなれたのです。けれど、今、その水は氷となっている。つまり、この氷は水でもなく、水蒸気でもなくて、『氷』となる運命だったのです」
「そっか。なるほどね」
戸田課長が呟くように言った。
「はい。まあ、もちろん、氷は溶ければ液体にも変わるし、しばらくして蒸発したとすれば気体にもなるわけです。だから、その氷は時間が経てばそのように状態変化します。ですから、氷が氷となる運命だったように、さっきのサッカーの試合で負けるということもそうですし、それから、私たちの人生を俯瞰して見た時に、そうなる運命であると言えるんです」
「そういうことね。なんだか、運命って奥が深いんだなぁ……。」
「そうですね。因みに、この氷の話は日本人の哲学者である九鬼周造という方によるものみたいです」
「へー」
戸田課長はそう頷くと、ビールをお代わりした。諸見里さんもレモンサワーをもう一杯頼んだ。
その後も、社員たちは色々と話しながら盛り上がっていた。