表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/51

1ダース(回想)慈悲深き人

宜しくお願い申し上げます。



 まだ夜明け前のせいか、肌寒い。

不意に空を見るとまだ資格は暗く空は青紫色の夜明け前だった。

少女はアパートの前に自転車を止めると、少しばかりか丸めた新聞紙を器用に次々とポスティングし投函してゆく。



 早朝の新聞配達は彼女の日課だった。

街外れの小さな町にとって、情報源は紙派という事もある。

住宅地を何軒も囘り、器用に新聞配達をこなすと、

 (やが)て少女は町の入口に近い

マンションに入り最上階のメゾネットタイプの部屋に入る。


 玄関先でコートを脱いでかけると、

リビングルームに繋がるドアから顔を半分出してちらりと此方を見ている女性の視線に気付く。


「………香菜ちゃんが帰ってきたわね」



 香菜は、まるで悪い事が見つかった子供の様に身を、すぼめる。



「…………ただいま、帰りました」






「堅苦しくならならなくていいのよー? 

 遠慮しなくていいのに。もう水臭いんだから」


 堅苦しい香菜に対し女性は微笑んで朗らかに告げる。

…………香菜、と呼ばれた娘は、変わらず固まって目を伏せている。


 そんな彼女の、頬を女性は手探りに両手で包むと顔を寄せた。


「本当に遠慮はなしよ。

 まあ、ほっぺたがとても冷たいわ。とても寒かったでしょう? 

ちょうどね、ココアを入れたばかりなの。タイミング良かった」

「あ、ありがとうございます……」



緒方香菜(おがた かな)




兄夫妻と暮らしている。



 この女性は美琴。兄の妻であり香菜の義姉にあたる。

踵を返した美琴の後ろを、香菜は見守る様に着いていく。


美琴は盲目だ。

家の位置は把握していて、全てをそつなくこなしている。



 美琴は光の彩度をぼんやりと掴める。

しかし念の為に香菜は常に警戒心を張り巡らせていた。

テーブルにはふんわりと暖かなココアパウダーの香りがして、マグカップには湯気が優雅に踊っている。


 ココアを一口飲むと、寒さで強張っていたほんのり心が落ち着いた。

春の陽気の様な養母と暖かな飲み物。

それらにぼんやりとしていたが、美琴が隣の席に座ると香菜は、一番大事な事を思い出した。



 

 バックの中から点字が刻まれた冊子を取り出す。

 



「美琴さん。これ今日の新聞です」

「あら。有難う」

 

 

 淡い花が咲いた様な優しい微笑み。

冊子を渡すと美琴は微笑んで受け取り、

早速 冊子を広げて刻まれた点字を指先でなぞっていく。


 白い紙に点訳した項目を重ねて、閉じているだけなので

見た目は何の変哲も無いものに見える。


 点訳用紙に点字盤と呼ばれる道具で

新聞記事の内容を墨字を刻み込み、折り目をマスキングテープで貼った細やかな簡易的な冊子。



 香菜は点訳が得意義で、

大切な人に渡す為に点訳を打つ事は愛おしくもあった。

新聞紙の情報を全て点訳し、義姉に渡すのは香菜の日課。


 美琴は知性的かつ聡明で、

社会の情報を知りたいという気持ちが強くとても物知りだ。

香菜にも生きていく上でのノウハウや知恵を惜しみなく教えてくれる。


 慈悲深いだとか、優しいだとか

世の中は簡単に綺麗事な人物像で溢れているけれども

目の前の女性こそ、本当の優しさや強さを称えている人だと思った。


 完成してから

間違いはないかと毎回、香菜も点字を確認するので

いつの間にか香菜も点字が読める様になっていた。



「香菜ちゃん、有難うね。

この量は毎日大変でしょう。ごめんなさいね」

「………そんな。私は……

美琴さんの読む情報を点訳出来る事が、とても、嬉しいです。

それに……私にはなんの取り柄もないから」


 香菜は俯いた。

誰かの為になっている事は、とても嬉しい。大切な人なら尚更だ。


その横顔は儚さを感じる淡い端正な顔立ち。

それを誇張するかの様に薄幸な雰囲気を佇ませている。




(なんて謙虚で、健気な子なの)




 美琴は嬉しくも、何処か心配そうな気持ちを抱く。

表情は伺えないけれども、置かれた沈黙に感情の粒子を感じては抱きしめたくなった。


 美琴は香菜の頭に手を当てて、頭を撫でる。



「そんな事ないわ。香菜ちゃん。

 香菜ちゃんはとても謙虚で健気で優しい子よ。

現に私にとって、この手作りの新聞紙を読むのが、毎日の楽しみで喜びなの。


でもね、喜びだと思うのは、

香菜ちゃんが気持ちが詰まっているものだからよ」


 香菜はちらりと上目遣いをする。

そしてまた少しばかりか顔を俯かせた。



(点訳している時だけ、

生きている、という実感を抱いている事は事は内緒にしよう)



 この家に、

兄に、兄夫婦に引き取られてもう8年になろうとしていた。

緒方香菜。それが自分自身の名前だけれども、なんだか実感がない。

  


 何事もそうだ。

生きているという実感は香菜には存在しない。

生まれてこの方、内心は地に足が着いていない感覚にずっと苛まれ続けている。

だからこそ、御伽噺(おとぎばなし)の世界にいる様な感覚が否めない。




 

 元々、香菜は

生まれたばかりの頃か孤児院の前に、置き去りにされた赤子だった。

本当の誕生日は知らない。年齢は16歳くらいという推測で本当の事は何も知らない。



 置き去りにされた孤児院で過ごした後に

一度養女として迎えられた夫妻は、香菜をネグレクトしていた。



その夫婦は『養女を引き取った、慈悲に満ちた夫婦』という肩書きが欲しかっただけだったのだ。

肩書き欲しさに養女を引き取りぞんざいな扱いを繰り返し、時には躊躇のない虐待も現れた。




(あの頃は思い出したくもないけれど)


 

 

 偽善に飽きた夫婦に追い出される形で、孤児院に還り、

間もなくして8歳の時、孤児院にある人がきた。








「香菜」



 その青年は疲労と共に、何処か安堵感を抱いている様に見えた

見るからに穏和で優しそうな面持ちをした青年。

穏やかで柔和な顔立ちが印象的だった。



「……………ど、なたです、か」



 ネグレクトの影響で、発音にも障害が出始めていた。

今にも掻き消えそうな声音でそう尋ねて、首を傾けた。

彼は少しばかり苦笑を交えながら



「突然、呼ばれると困ってしまうよね。

僕は、緒方准。実は、君のお兄さんなんだよ」





 青年は、香菜の兄だと告げた。





 ずっと生き別れた妹を捜して施設を回り、ようやく見付けたのだとも。

戸籍の諸事情により曖昧になっているので、

兄とは養子縁組という形を取り、緒方夫妻の娘になっている。



 准と共に現れた美琴は、

当初からとても献身的で慈悲深さに満ちた心優しい人だった。


夫の妹を引き取るという事に難色を示す人もいるだろうに


彼女はなんの抵抗もなく、加えて申せば

准よりも熱心に妹の捜索も、家族になる事も一言返事で

承諾してくれたのだ。


香菜を引き取ってからは、

優しくもあまり干渉せず、付かず離れずの距離感を保ちながら、

香菜が心を開くまでずっと見守ってくれたのである。

 

 

 今では美琴は香菜の理解者で、姉の様な、

そして時に母の様に接してくれるその温度差は変わらない。

寧ろ、兄よりも義姉の方にかなり懐いているのは、香菜自身も否めない。


 別け隔てのない愛情。

それは心が抉られる様に、優しさが心に染みた。




 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ