25ダース・水面に浮かぶ苦味
大変、お久しぶりです。ご無沙汰しております。
「_____待って!!」
廊下ホールに絶叫が響く。
そう叫びながら綾は玄関に向かって小走り気味に歩き、
そして麻緒の華奢な腕を掴むと、無理矢理、此方へ振り向かせた。
麻緒は目線を合わせない。
(お父様に拒絶されて多少は、傷付いた?)
『…………(なんでしょう?)』
鞄からメモ帳とペンを取り出すと、そう書かれていた。
「まさか、お父様が、あんなに否定的だったと思わなくて………」
(焦燥感に駆られて、首の皮一枚で繋がっている貴女)
(何かを繋いでおかないと、呼吸すら出来ない)
他者の心が熱を帯びれば、己の心はどんどん冷えていく。
憎しみ、不信感を抱く相手ならば、それは尚の事だ。
人間という者に不信感を抱いた時、気付いた。
………それは、今も変わらない。
『(私はお祖父様から受け入れられなかった、それだけです)』
「そんな事はないわ、お父様も気が動転しているだけよ。
私が説得するわ」
『(どうやって?)』
訝しげな面持ちで
綾に包まれた両手を、静かに麻緒は引っ込めた。
『(守山社長。………気持ちのない人に接し、
縋っても、そこから生まれるものはないと思います)』
麻緒の言葉に心を抉られた感覚がする。図星を突かれた様に思う。
その言葉は力は、
綾の頭に血を昇らせるのは容易い事だった。
_______例え、相手が正しくとも。
(人が、どんな気持ちで生きてきたか知らない癖に___)
パシン、と乾いた音が玄関ホールに響く。
肩で息をしながら綾が麻緒の頬を打っていた。
そのあまりの衝撃に耐えられず、麻緒は膝から崩れ落ちる。
すかさず麻緒の両頬を包む様に掴むと、睨み据えた。
「貴女はいいわよね。涼宮弁護士という味方がいるもの。
でも私はお父様に振り向いて、赦して貰う為に、必死なの。
どうでも良ければこんな惨めな思いしたくないわ!!」
麻緒の表情は変わらない。
今更、気付いた。
彼女の双眸は“曇り、虚空の様に茫洋としている事に”。
何を考えているのか、その意図が読めない。
喜怒哀楽も見せずただ空虚なその眸は、時間が止まっている様に見えた。
その
(お願いよ、何か言葉をかけてよ)
「………私がこんな惨めな思いをしている現況を作ったのは、誰だと思う?」
(例え、誰かが慰めようとも、
それを貴女は、怒りとしてしか受け取らない)
『……………』
「娘よ。あの子なの。
あの子が生まれたから、私は苦しみ続けてる。
母親を不幸の沼に突き落とした。私だって受け入れたい訳が無い。
でも仕方ないの。守山家を護る為には………」
(ずっと憎まれていたのね)
何処かで感じていた違和感。
でも何処かで思ってしまった。綾は傑から“赦され、救われたい”のだと。
“安心に浸りたいのだと”。
どれ程に彼女がどれ程の横暴を働いても、
それは全て自分自身が救われたいからだ。
____けれども、もう綾は救われる機会がない事を知らない。
(貴女が救われると思う?
貴女は____私の大切の人を奪ったかも知れない人なのに。
自業自得かも知れないのに………)
手紙がひとつ。
それに緒方香菜、と書かれていて、綾は目を向いた。
“お元気にされておりますか、緒方香菜です。
その説はどうもお世話になりました事を、感謝申し上げます。
生活が落ち着きましたので、
誤解を解きたく今、この文に認めております。
私は26となりました。
あの日。火葬場で偶然、お会いした際、
守山様は、養父と養母は亡くなったと解釈されたようですが、
あれは、養母の兄の葬儀でした。
現在も、両親は健在です。
慈悲深き養母の計らいもあり、
私はまた両親と、そして生まれた妹と、暮らしております。
沢山の試練がありました。
ですがこれは____”
思わず手紙を手放し、
衝動的に傍にあるワインボトルを投げた。
ガラスのボトルに満たされたボルドーワインは
粉々に割れて壁に鮮やかにゆっくりと赤色に染めていく。
緒方香菜からの2通目の手紙。
全身に鳥肌が立ち、悪寒と戦慄が走る。
「なんで、今に、なって…………」
(…………緒方香菜が、生きている?)
綾は怯えながら自身の両肩を抱く。
違う。間もなく牢獄に入れられた後に命を落とした筈だだ。
生き人は生き還る事はない。
けれども。
【緒方香菜に関する報告書】
生年月日:19xx年 3月6日
没年月日:19xx年 2月10日 (享年:16歳)
死因:拒食症による体重低下に伴う栄養失調。
その刻まれた言葉に、綾は膝から崩れ落ちる。
【備考欄】
少年審判にて5年から10年の不定期。
医療少女院にて、間もなく要因は(神経衰弱に起因する)
神経やせ症(拒食症)を発症。
治療プログラムが作成されておりましたが
緒方香菜は拒食症の他に、メンタル面で重度の疾患を
抱えていた、とのことです。
(………もう、いない筈よ)
写真を睨みながら、思う。
そう呟いた刹那に、涼宮麻緒の言葉が思い出される。
先日に聞いた涼宮麻緒が言いにくそうにしていた秘密。
今から10年前に起こった女性連続殺人事件、未解決事件の案件。
『(被害者は10代の少女から20代の女性が的が絞られています。
犯人逮捕には至らないものの、
現在になって、身元不明の女性の死体が見つかる度に
実は関連があるのではないか、と専門家達の意見が枝分かれしているのが事実です。
緒方香菜さんと関連が
気になりまして、独自に調べてみたのです)』
「____何故?」
『(10年前、緒方香菜が逮捕された時期と一致しております。
___そして分かった事があります。
緒方香菜は密かに脱獄していて成功していました)』
『(彼女のみ脱獄したまま、現在に至るまで行方不明だそうです。
そして此方のリストのこの項目が気になりました。
此方が拡大して詳細情報です。目を通して頂けますか)』
被害者女性達のリスト。
身元が判明している者は年齢と名前、出身名や在住地。
身元不明者は在住地と年齢のみが記載している。
【推定年齢:13歳から20歳前後
当時の在住地:〇〇県 〇〇町】
『(憶測でしかありませんが、
この部分が緒方香菜さんの出身と一致しています。
推定年齢に関しても、当時、緒方香菜さんは16歳です?)』
「でも、報告書には没、と書いていたわね? 嘘を書いたの?」
『(憶測でしかないからです。ただこの事件の生存者は絶望的ですし、緒方香菜さんの生死も曖昧です。それに望みを抱いても
裏切られた時に、社長の傷心を鑑み、省きました。
また、
医療少女院側は現在、緒方香菜は死亡扱いだと)』
緒方香菜は、生死が曖昧____。
諦観しつつあった思惑と企みがゆっくりと水面に浮かんでくる。
頭が混乱する。
窓鏡に写る自身は、
何処か怯えた顔をしていて、綾は戦いていた。
湿気の重圧感に、頭痛がする。
重い身体を引きずりながらエントランスホールに入り、
ボストに手を伸ばす。
普段なら無興味な広告のチラシが入っているくらいだ。
中身を確認するとA4サイズの茶封筒が佇んでいた。
何も書いていない。
加えて糊付けは厳重にパッキングされていても、中身は軽いが分厚い。
部屋に入り、封を麻緒は丁寧に開けた。
_____そして、固まった。
___夫妻殺人事件、犯人は夫妻の養女だった。
動機は、夫人の妊娠による家庭内孤立を示唆してからか。
___16歳が健気な顔の裏は殺人鬼、
無慈悲な養父母を殺害事件。町は騒然。
____夫妻が引き取ったのは、悪魔の娘。
瞳が揺らぎ、呼吸が止まりそうになる。
封筒に詰められていたのは
週刊誌や新聞記事に、准と美琴の事が書き連ねられたもの。
その記事の切り抜きや抜粋されていて、広げて見ると床一面を覆い尽くす。
涼宮麻緒になった事を誰も知らない。
涼宮麻緒が、緒方香菜である事を、世間は知らない。
「…………いや、」
闇の部屋に、淡い声色が、溢れる。
(過去は消えない。例え、偽りだとしても)
渦巻く人々。沢山のフラッシュの光り。
何かを伝えるアナウンサー、手首に掛けられた鎖。
少年法だからとひと目でも、少女の顔を見ようとする者。
「_____やめて、やめて、」
冷たい遺体。生気のない瞳。昨日の様に思い出される記憶。
切り裂かれた様な赤の世界、目眩がする程の____悲哀。
あの日が脳裏に不協和音として、木霊する。
まるで万華鏡の様に重なる、無慈悲で冷たい光景に意識が遠退く。
過呼吸を繰り返しては、後ろ髪を引かれてしまう。
耳を塞ぎ闇の中に佇んだ時、哀しそうな美琴と、
冷たい氷の様に見下ろしている准の姿。
何も言えない。
真犯人は違えど、世間では、緒方香菜が引き起こしたこと。
頬に一筋の光りが伝った時。
糸の、切れたマリオネットの如くドサ、と倒れ込んだ。
「……………ごめん、ごめんなさい………」
どうしてこの時だけ、声音が出るのか。
悔恨を抱えながら月夜の下で、彼女は、気絶した。
「………気が付きました?」
憂いを帯びた瞳は、曇り続けている。
わざと伏し目がちに天井の蛍光灯だけ、見詰めた。
フラッシュバックに、過剰な心労とストレスから倒れていたそうだ。
喉元に触れても、もう声は出ない。
(………これは、“私”が見ているものじゃないわ)
_____離脱症状。
「取り敢えず、良かったです」
普段は余裕を持って、微笑みを返せるのに
今はその声音は棘となり、耳にするだけで、気が狂いそうだ。
平気です、と音もなく話した後に起き上がろうとする。
それを響介が止めた。
「横になっていた方がいい」
『……………(離して)』
虚空の瞳が音もなく、訴えている。
響介はこの瞳をする、麻緒が不安だった。
刹那的に危うく脆い存在感。それはあの頃よりも酷くなっている。
聴こえない残響。
人の間をすり抜けてリビングルームから去ろうとする麻緒。
けれど腕を掴まれて、立ち止まる。
「………………原因は分かってるつもりです」
『____……………』
感情が彷徨う。瞳孔が視点を求める様に彷徨う。
緒方香菜だった自身と、
養父母の存在が現れれば正気ではなくなる。
そして重ねるのだ。叔父に似ている弁護士の存在を。
響介は全部知っている。下手をすれば、
もう准や美琴と居た時間よりも上回っているのだから。
ただ、今は。
(______今は………貴方から逃げたい)
響介を見れば否が応でも、叔父を、思い出してしまう。
麻緒は、再び倒れた。
_____エスケープクロックホールディングスグループ 社長室。
『守山社長、涼宮弁護士からお話がしたいと』
「通して」
慎ましやかなノック。
現れた響介は何処となく、その面持ちは険しい表情だ。
「涼宮弁護士、どうぞ、其処へお座り下さい」
猫撫で声の、聞こえない裏声。獲物を逃さない双眸。
誘惑しているけれど気付かないふりをした。
「いえ、すぐ終わりますので」
穏やかな表情を見せた後に怜悧な声音であしらう。
社長の椅子に座る綾に、胸をポケットから
白い封筒を机の上に、差し出した。
「涼宮麻緒を、しばし休職扱いにして頂けませんか」
「は?」
綾の声音が、固まっている。
威圧感のある瞳は変わらないが、響介は心底どうでも良さそうだ。
「少し根を詰め過ぎたようです」
「あらもうリタイア?」
「いえ、妻は元々虚弱体質ですし、現に今は入院中です」
「へえ………なんか残念だわ。見込んで上げたのに」
その声音に残念さは滲んでいない。
寧ろ謳う様に軽やかで愉しげに聞こえてくる。
人の不幸は蜜の味というけれども、
守山綾にとって、緒方香菜と涼宮麻緒の不幸は
それらを上回る美酒なのではないか。
「一つお聞きしても?」
「なにかしら」
その瞬間、響介はデスクに数枚、写真を置いた。
最初こそ、余裕綽々だったものの、どんどん綾の顔色が青褪めていく。
そこには____麻緒に対して横暴に振る舞う綾の姿。
(そんな筈はない。だって此処は守山家の領域よ?)
家族以外に知り得る事が出来ない。
「妻から大体の事情は聞いています。ですが、それで
はいはい、どうぞで容易く渡す筈がないでしょう」
「貴方………まさか束縛体質なの?」
「いいえ。どちらかと言えば放任主義です。
ただ今回は
ご親切に会長が防犯カメラのスクリーンショットを渡して下さいました」
その瞬間、綾は目を見開いて、音を立てて立ち上がる。
傑が、協力した?
(お父様は、裏切ったの………?)
献身的に支える娘ではなく、跡継ぎを選んでいる?
あんなに拒絶したふりをしながら、実は涼宮麻緒の事を……。
それとも涼宮響介に対して
守山傑が、寵愛めいた感情を抱いているから?
「手を出してますよね。色々と。
守山家と関わる様になってから、彼女はますます衰弱気味だ」
「気のせいじゃないの? 貴方も大変よね」
「いえ、特には」
思わず、視線を寄せた。
「そんなの、どうでもいいんです」
「え?」
「個人の意見は尊重する。
だから何事もなければ一歩引いて
見守っている立場で居ようと思っていたのにな」
伏し目がちに響介は、枯れた薔薇の花弁に触れている。
その姿は映画俳優を思わせ、同時に弟との姿とも重ねてしまった。
思い込んでしまえば、准が、其処にいるようで___。
(枯れたものは、戻らない。心の傷の様に……)
その姿と思いに綾は鼻で嘲笑った。
「まあ、出来た純愛出来たことで」
「それは違いますよ。言葉に失礼です」
綾は目を丸くした。
「ほぼ、惰性的に生きているようなものです。私も妻も。
其処に感情が発生するのか、と言われれば微妙です」
「まさか、政略結婚なの?」
「まあそれは、人様によって解釈は違うのでしょうけど
守山様にはそう見えるかも知れませんね。
____傍から見れば」
ねえ、と言いかけて、綾は言葉を飲み込んだ。
響介の瞳が何処か逆鱗に触れる様なものだったから。
(涼宮麻緒に、何があったの?)
シークレットな存在感。
誰にも紐解けない過去。緒方香菜にそっくりな容貌。
疑問は沢山あるのにどれもがパンドラの箱の中に閉じ込められている。
誰も彼女を暴けない。
___それに加えて、
涼宮響介というまた、謎めいた者が盾としている。
(この感情は、気のせいじゃない)
カラクリなのは、響介も麻緒も同じだ。
「会長は今、会議中です」
「離して!! 私は娘よ!! 止める権利なんてどこにもないわ!!」
宥める秘書の腕を振り払い、綾は躊躇いなく、会長室に入った。
会長と役員が取り囲む様にソファーで話し込んでいたのだが
綾が現れた瞬間、皆が固まる。
そして、傑は、何処か険しい面持ちで
「よし、大体は通じただろうか。済まないが、
午後からまた集まる様に招集を下す。では解散」
揃ってそのまま、社員は立ち上がり、去り際に綾に会釈をする。
「なんの様だ?」
「防犯カメラの映像のスクリーンショット、涼宮弁護士に渡したんですって?」
「ああ、そうだ」
傑は、視線だけ斜め上に上げて、訝いぶかしげに綾を見詰める。
「お父様、私を裏切ったの?」
「人聞きの悪い事を言うな。元は、貴様が私の信頼を裏切ってばかりだろう。
それに何故か涼宮弁護士の夫人には、
何かと感情的になるからな。…………目が離せるまい」
「……………」
『____満足ですか。
僕は何も知らないとでも?
探偵事務所につけていた防犯カメラや盗聴器に貴女は映っていた。
妻を責める状態でね。………彼女に、
なにかしらの恨みがあるとでも?』
まだ綾の激情的な感情的は、侮辱。
響介にも警戒され、傑は娘を信用していないところまできた。
涼宮麻緒にした仕打ちは立て続けで、
おざなりにしていた残業は鳴り止まない。
「脅迫、プールへの突き落とし、それに今回は平手打ち……。
何か恨みでもあるのか。貴様は尋常ではないぞ」
「………酷い人だわ。拒絶したふりをして………。
お父様は、あの子を守山家に、迎えるのね」
「それは、」
「もういい!! 聞きたくないわ!!」
感情のままに扉を乱暴に閉めると、綾は出ていく。
そして会長室のドアをの前で膝を落とし人目も憚らず泣き崩れた。
(____涼宮麻緒、貴女は、私から全てを奪い上げていく)
(どうしても割り切れない)
あの日、現れた時から、今日まで。
けれども普段は何気無くとも、フラッシュバックする度に
響介を准に重ねてしまうのは。
忘れられない。
緒方香菜という人格の基盤を創った人。無条件に赦してくれた人。
(単なる、他人の空似なのに)
あの日、准の最期の姿を見たのは、自分自身だ。
響介もそうだ。弁護士と割り切った関係といれば事を
後見人になってくれた末に今では日常に馴染んだ様に傍にいる。
准の他人の空似。響介には関係がない。
それに………彼には恩がある。
だからこそ、募るのは疑心暗鬼。
(ねえ、どうして、私から大切な人を奪ったの?)
『………私がこんな惨めな思いをしている現況を作ったのは、誰だと思う?
娘よ。あの子なの。
あの子が生まれたから、私は苦しみ続けてる。
母親を不幸の沼に突き落とした。私だって受け入れたい訳が無い。
でも仕方ないの。守山家を護る為には………』
(25年前に、守山家でなにがあったの…………?)
何故、綾は自身に憎悪を?
そして何故、傑には愛情にも似た執着を?
(私が彼女に憎悪を抱かれながらも、執着されているのは
守山傑に、許して欲しいが為?
ただ本当に、それだけ……?)
何か裏がある。何か色香を残している。
それでも。
(守山傑の赦しが出るまで、守山綾はなんでもする筈よ)
真犯人を捕まえるまで、確かめるまで、討ち死になんてしない。
准にも、美琴にも、顔向けは出来ない。
負けるものか。




