死んだ父は、私の嫌いなweb作家だった。
ーーーweb小説なんてくだらない。
父はそう口にしたアカリに、軽く笑いながら首をかしげた。
『そうかなぁ? アカリは何でそう思うんだい?』
その問いかけに、なんて答えたんだったっけ……。
居間で、父の遺品である本を整理しながら記憶を探っていると、キッチンスペースにいた妹がひょい、とポニーテールを揺らしながら顔を覗かせた。
「ねぇ、お姉ぇ」
「……」
「お姉ぇってば!」
「え? あ、何?」
姿は見えていたけど、思索にふけっていて反応が遅れた。
あいまいな笑みを向けると、去年社会人になったばかりの妹、ミヅキは両手を腰に当てて呆れた顔をする。
「時間ないんだから、ぼーっとしないでよ。お姉ぇらしくもない」
「そう? ごめんね」
自分ではそうは思わないのだが、両親には昔からしっかり者と言われていた。
伴侶にもよく言われるので、自覚はないがそうなんだろうと思う。
もう大昔の記憶だが、もしかしたら自分は母に似ているのかもしれない、とアカリは思った。
よく父に『しっかりしてよ!』と怒っていた彼女は、もう10年以上前に病気で他界している。
『末期ガンで、もう、手の施しようがないって……』
しょぼくれた父にそう告げられた日のことは、よく覚えていた。
父は、いつだって子どもみたいに感情豊かな人だった。
母の病気が分かってから本格的に動けなくなるまで、父のほうが落ち込んで病人みたいになっていたのだ。
『私が死んだ後まで、そうやってずっと落ち込んでるつもりなの!? あなたがこの子たちをこれから育てるのよ!?』
『うん……』
気が強く歯に衣着せぬ母は、最後まで私たち3人のことを心配して、弱音も吐かなかった。
そんな母にいいように怒られて、ちっとも反撃しない父。
父は、毎朝同じ時間に出て行って夕方の同じ時間に帰ってくる生活をしていた。
あの人がどんな仕事をしていたのかアカリは知らない。
学校の課題も母の仕事を書いたのだ。
たまに残業することはあったが日付が変わる前には帰宅していたので、何か定時制の仕事をしていたんだろうと思っていた。
その父の仕事場が、今、遺品整理しているこの場所だ。
8畳一間のフローリングに、キッチンスペースにお風呂とトイレだけがある少し広いワンルーム。
冷蔵庫とエアコンと机、それに壁の片面に本が満載の本棚がある。
本はそこには収まりきっておらず、キッチンにも棚が作られていて、さらに床にもいっぱい積まれていた。
ミヅキは、そのキッチンで本の整理をしていたのだ。
彼女は一冊の文庫本を掲げると、こちらに向けて軽く振ってみせる。
「この本ってさ、お父さんの書いたヤツだよね? どうする?」
「ああ、そうね」
「これだけさ、冷蔵庫の近くの棚に大事に飾られてたの」
少し色あせたその本をミヅキがピタリと止めて、タイトルが見える。
【娘の肖像】ーーーその文字を見た瞬間に、心臓が跳ねた。
その本はまるで純文学のようなタイトルだが、中身は日常コメディだ。
帯も外されておらず、キャッチコピーと表紙にはタイトルに見合わないフォントの文字やポップなイラストが踊っている。
父が書いていたミステリー小説のシリーズ。
その端役で出てくる父娘のスピンオフ作品で、父の軽い持ち味の文面が存分に活かされた、でも少し異色の作品。
番外編として無料のweb連載から始まり、最後にはドラマにもなったその一冊を見て、アカリは少し切ない気持ちになった。
「……それは、遺品として残しておく箱の方に入れておいて」
「うん」
父の著作は全て本棚に差されていたのに、それだけがキッチンのほうにあったから聞いてきたのだろう。
ミヅキが本を避けながら移動するのを目で追いながら、アカリは詰めていた息をこっそり吐いた。
ーーー父は、web小説家だった。
定時の仕事だなんて、とんでもなかった。
今の自分だから……3歳になった息子を伴侶に預けて、この場所に来ているから、分かる。
……父は、自分たちの為に、決まった時間に帰ってくるようにしていたのだと。
母は死ぬ前から共働きであまり家におらず、自分たちの保育園の送り迎えも父がしていたし、平日の家事の大半は父がこなしていた。
自分たちが成人して家を出るまで、ずっと。
父はそうして、家にいた。
あの人は小説投稿サイトからの拾い上げで本を出していたのだ、と、アカリは家のすぐ近くにある、このワンルームのことを教えてくれた編集者に聞いた。
『webに投稿しなくても、もう仕事の依頼も来るし生活も出来るようになっていたのに、小説投稿をし続けていた』と、彼は父の著作を一覧にしたものを見せながら説明してくれた。
【娘の肖像】がドラマ化された時。
テレビをあまり見ない父が、珍しくそのドラマをつけていたのを知っている。
父は、割といつも笑っている人だった。
『何これ?』
私がたまたまリビングに降りて問いかけると、父はその時も嬉しそうに笑った。
『珍しいよね。いや、少し気になったからさ』
その珍しい、は、テレビを自分がつけていることに掛かっていたのか。
あるいは当時、父とあまり接しないようにしていた自分が話しかけたことに掛かっていたのか、どちらかは分からなかったけれど。
『……私、このドラマ嫌い。web小説から本になったんでしょ?』
アカリがそう吐き捨てると、父は笑みこそ消さなかったものの、首をかしげた。
『おや、アカリはweb小説が嫌いなのかい?』
その時自分は、父の好きなものまで含めて、あの人の全てを否定したくてたまらなかった。
少し前に、目撃していたのだ。
フォーマルなスーツ姿で、綺麗な女性と会っている父を、高校の帰り道で。
浮気、ではないだろう。
だって母はもう亡くなっていたから。
それでもアカリは、裏切られたような気持ちになったのだ。
だから言った。
『嫌いよ。お金にもならない、大して読まれもしないようなポエム晒して……たまたま人気が出たからって、いい気になるような素人が書くものじゃない』
だから、web小説なんてくだらない、と吐き捨てた。
別に本当はそこまで嫌っていたわけではない。
でも、父が好んだものを否定したくて、言い捨てた後はさっさと自分の部屋に戻るつもりだったのに。
『そうかなぁ? アカリは何でそう思うんだい?』
父は、珍しくそれに対して反論してきた。
『物語をどこで書くかなんて、関係ないんじゃないかなぁ。それに、お金がなくて本が買えないけど、物語が好きな子もいるかもしれないし』
『……だから?』
『そういう子たちが、物語に触れて楽しむ機会の一つになるじゃない。そのweb小説で、今の辛さを一時的に忘れられるかもしれない。もしかしたら大人でもさ』
アカリは父の言っていることが、まるで理解出来なかった。
いや理解できないのではなく、したくなかったのかもしれない。
『……そんなの、ただの現実逃避じゃない』
『そうかなぁ。……そうかもね』
そこで背を向けたから、父がどんな顔をしていたかは分からないけど。
アカリの態度が寂しかったのかもしれないし、傷ついたかもしれない。
そう思うと、少しいたたまれない気持ちになる。
ーーーごめんね。
今さら遅いけど。
そう思いながら心の中で謝った時、いつもの父の笑い声が聞こえたような気がした。
「あ、ねぇ」
アカリが軽く頭を横に振っていると、本を箱に入れたミヅキがまた話しかけてくる。
目を向けると、彼女は少しためらうような顔をしながら、さらに言葉を重ねた。
「お姉ぇはさ、お父さんが小説書いてたの、知ってたの?」
「ミヅキは?」
「……知ってた」
バツが悪そうなのは、きっと彼女はこちらが知らないと思っているからだろう。
それが少しおかしくて、アカリは父の机に目を向ける。
一台のノートパソコンと『ネタ帳』と書かれた数冊のノートとボールペンだけが置かれた机を。
「来て、ミヅキ」
アカリは立ち上がると、ノートパソコンを開いた。
スリープモードだったそれはすぐに起動する。
画面にはweb小説の投稿サイトが開かれた画面があり、パスワードを要求していた。
「どうしたの?」
後ろから覗き込んだミヅキの目の前で、アカリはパスワードを入力する。
現れたのは、父のペンネームが表示された作者画面だった。
「……え、なんでパスワード知ってるの?」
「あの人自身が教えてくれたから」
「え!?」
驚いた顔をするミズキに、アカリはうなずいた。
「私も、お父さんが小説書いてたの、知ってたのよ」
アカリが息子を産んだその日。
父からねぎらいの言葉とともに、ここのサイトのリンクとメールアドレス、そしてパスワードだけが送られて来たのだ。
「これ」
アカリはその画面を操作して、非公開で投稿されている一つの小説を開いた。
そこに表示されたのは、3000を超える話数の大長編だ。
「これ……どんな小説なの?」
「小説じゃないわ」
アカリは、ミヅキに向かって笑いかけた。
『私の日常』というタイトルのそれは、『妻に向けてつづる』というあらすじが一言添えられている。
最後の日付は、去年、ミズキが家を出た日。
「これは、お父さんの手記よ」
綴られているのは、10年以上に渡る父の想い。
「中にはーーー私たちのことが、書いてあるのよ」
※※※
20××年5月15日
君が亡くなって一週間が経った。
忙しさに追われて、君がいなくなったことに未だに実感は湧かないけれど、僕なりに出来ることをしていこうと思う。
君と結婚した時、何もできなかった僕に家事を教えてくれてありがとう。
おかげで、娘たちになにもかも任せっきりの生活はしなくて済むと思う。
君のいた頃のように完璧には出来ないかもしれないけれど、なるべくあの子たちに苦労をかけないように頑張っていこうと思う。
そのために、この日記を綴るよ。
毎日ちゃんとあの子たちのことを見ていることを、君に言い続けていれば、手を抜いたりしなくて済むかもしれないから。
……
20××年8月3日
まずかったかなぁ。
編集者との打ち合わせを、アカリに見られた。
声をかける前に、青ざめた顔ですぐにどこかに行ってしまったので、誤解しているかも。
君の怒った声が聞こえた気がしたけど、なんかゴメン。
でも、自分が小説を書いているって娘に言うの、なんか気恥ずかしいんだよ。
だから君にも協力してもらって黙っていたけれど、こんなことなら言っとくべきだったかなぁ。部屋に引きこもって口をきいてくれないんだ。
どうしたらいいだろう? ご飯くらい食べてくれると良いんだけど……。
20××年10月8日
アカリと、久しぶりに話をした。
あの誤解からあんまり進展はしてなさそうだけど。
今日、僕が原作をしているドラマの最初の放送があったんだ。
僕の書いた話なんだよ、って言ったら、あの子どう思うかなぁ。
web小説家が嫌いみたいで、もしかしたらもっと幻滅されるかも。
そうなったらイヤだから、やっぱりまだ黙っておこうかな。
あの親子はね、僕らがモチーフなんだ。
しっかり者のアカリと、おっちょこちょいな僕。
あの子もね、ミヅキのことはちゃんと僕に話してくれる。
怒っているんだろうに、そういうところは君にそっくりだなって思うんだ。
いや分かってるんだよ? 僕がもっとちゃんとすれば、アカリの手をそんな風に煩わせずに済むんだって。
あの子も次の年になったら受験だね。
ちゃんと行きたいところに行って、やりたいことをやってくれるといいなと思う。
僕は、作家以外の何にもなりたくなくて、親に言われたから大学に行って、そこで君と出会ったよね。
僕の物語を初めて面白いと言ってくれたのは君だった。
そういえば、ミヅキはお話を作るのが好きみたいだ。
この間、僕が部屋に入ったら慌ててノートを隠したから聞いてみたら、恥ずかしそうに教えてくれた。
僕がお話を書いてる、って教えようか迷ったけど、やっぱりアカリからかなぁって思う。
20××年12月10日
アカリは彼氏とお出かけらしくて、今日は少し遅い時間に帰ってきた。
大学に入ってから、あの子はまた変わったなぁ。
三年目に彼氏が出来てから僕とまた話してくれるようになったのは、あの彼氏くんが何か言ってくれたのかも。
何回か話したけど、落ち着いたいい子だよ。
僕の目じゃ信用できないかもしれないけど、就職が決まったから、ってアカリが席を外している時に話をしてくれてね。
プロポーズしてもいいですか、ってそれ僕に訊くことなのかなぁ?
なんだかこそばゆい気持ちになったけど、世の中で言われているような憎らしい気持ちにはならなかったよ。
君が昔よく言ってたように、ぼーっとしてるからね。
心の動きが鈍いのかもしれない。
20××年10月10日
ミヅキに、僕が小説を書いていることを教えたよ。
進路に悩んでいたみたいでね。
お話を書くのが好きだから、そういう道に進みたいんだって。
アカリが就職しても結婚も一人暮らしもせずに家にいるのは、ミヅキのことが心配だからだってあの子自身も分かってる。
堅実な道に進まないといけないかな、って、そういう悩み方をする歳になったんだねぇ。
だから教えたんだ。
驚いてたけど、お話を作る道に進みたいなら一度見せてごらん、って言うと、見せてくれた。
拙いけれど、瑞々しく感性に溢れたお話で、若い子の書く話はいいなぁ、って思ったよ。
だから、web小説で一度書いてごらん、って教えた。
今は色々なサイトがあるからね。
なるべくあの子の作品を出すのに合った場所を見つけてあげた。
まだ、あの子の高校卒業までには一年ある。
やってみてどうするか決めればいい、って言い添えてね。
20××年9月9日
どうやらミヅキは、大学への進学を決めたみたいだ。
お話を書いて、恥ずかしいけど僕の小説を読んで、働きながら書こうかな、って言ってた。
ミヅキも僕よりよっぽどしっかりした子に育った。
だから今日、ようやく言おう言おうと思ってたことをアカリに話を切り出したよ。
そろそろ身を固めないのか、って。
あまり彼氏くんを待たせるのも可哀想だしね。
ちゃんと話し合って、ミヅキが大学に受かったら決めるそうだ。
もうとっくにプロポーズはされていて、せめてそこまで待ってほしいとお願いしていたらしい。
ちょっと酷だなぁと思ったけど、うん、ゴメン分かってる。
僕がもっとしっかりしてればアカリも安心して出て行けたんだよね。
結局、ダメダメなままだったなぁ。
20××年8月16日
アカリと彼氏くんが結婚した。
なんかこう、頑なに名前を呼ばないのが、自分が実はモヤモヤした気持ちを抱いているって証拠なのかもと思った。
でも、泣いたなぁ。
感謝の手紙は、君と僕に対して読んでくれたから、スクショしてここに貼っとくね。
……最近、少し体調が悪くてさ。
でも今日は倒れられないから気を張ったよ。
一回病院に行かなくちゃね。
ミヅキもアカリの結婚を喜んでたし、あの子のために後三年は元気でいなくちゃ。
20××年10月2日
ちょっとバタバタしてて、病院に行きそびれてたんだけど。
今日やっと行ってきたよ。
参ったなぁ、君と同じ病気だった。
まだ早期だけど、手術しなくちゃいけないみたい。
黙ってようかと思ったけど、どっちにしろ入院したらミヅキにはバレちゃうし、正直に言ったよ。
アカリも駆けつけてきて、すごく怒られた。
体調が悪かったならなんでもっと早く言わないの、ってそんなこと結婚式の前に言えないよね。
って言ったら、命とどっちが大事なの、ってさらに怒らせちゃった。
君がこの場にいなくて良かったなぁってちょっと思ったけど、これ、死んだら今までの分も合わせてめちゃくちゃに怒られるパターンじゃない? もしかして。
20××年6月30日
病院に通うのってめんどくさいね……再発の危険が、みたいに言われたら行くしかないんだけどさ。
アカリが妊娠したって、今日聞いたよ。
孫かぁ、って嬉しかったんだけど、死んだら見れないんだからね! ってミヅキに怒られた。
なんだろう、僕の話相手になってくれるようになると、君といいアカリといい、怒りやすくなるのかなぁ。
最近あんまりwebのほうの小説更新できてないなー。
この日記も、もしまた入院とかになって滞ったらごめんね。
20××年3月10日
アカリが無事に出産した。
今日、このサイトとパスワードをあの子に教えたよ。
決めてたんだ。
子どもが生まれたら教える、って。
最近また体調悪いし、再発しなくてももしかしたら倒れるかもだし。
仕事はね、少し量を減らしたよ。
家のローンは君が自分が組む、って言ってくれたから、なくなってたしね……感謝はしてる。
死んじゃったことに、ありがとうって言ってるんじゃないからね?
でも、君がしっかりしててくれたおかげで、今すぐ死んでもミズキの学費や生活費くらいは賄えるだけの貯金が、お釣りが二回くるくらいある。
あとは僕が、なるべく無駄遣いしなければ十年は年金と合わせていけるかなぁ。
でもその貯金が尽きるまで、生きてるかな?
もし死んじゃっても、あの子たちの記憶には、笑顔の僕が残るといいなぁ。
※※※
「お父さん……」
いくつか、私たちの転機になった部分を読ませた後、ミヅキは泣きはしなかったけど目を赤くしていた。
「お姉ぇ」
「うん」
「私さ……お父さんのお話、読んで」
グス、と鼻をすすったミヅキは、目元を手で拭った。
「すごいと思ったの。すごく面白いと思った。……でも、お父さん、自分で『ただ教えただけ』みたいに書いてるけどさ」
「うん」
「『どうしても物語を書く道に進みたいなら、止めないよ。お話を書くのは楽しいからね』って言ったの。『でも、物語を書くだけでお金を稼ぐのは、すごく大変だよ』って……よっぽど大人気にならないと、一年間に何冊も書かなきゃいけないからって……」
その時の父は、真剣な顔をしていたらしい。
「『自分一人生きていくだけでも、きっと今からはもっと大変だ』って」
「そうだろうね」
「お母さんに苦労させたって。ようやく食べていけるくらい稼げるようになった時に死んじゃったんだって……」
アカリは、ミヅキに対して微笑んだ。
自分も目頭が熱くなってしまったけど、グッとこらえた。
「ミヅキは、まだお話を書いてるの?」
「……書いてるよ。お父さんみたいに、大人気になんてなれてないけど……」
死んでしまった今もまだ、父の作品には感想がついている。
元気をもらった、楽しかった……そんな風に言われる父の物語は、きっといろんな人に力を与えたんだろう。
だからアカリは、ミヅキにさらに語りかける。
「お父さんは、ダメなんかじゃなかったよね?」
反抗もしたけど、それは高校生の途中から大学生までのほんの一時期だけだ。
アカリの夫は、いつも父を褒めていた。
穏やかで、博識で、距離感を分かってる人だって。
付き合い始めた頃は父の愚痴ばかり言っていたアカリは、会った後にそう言い始めた夫と喧嘩もした。
でも、夫の一言で気づいたのだ。
ーーー『君は自分を嫌っていると分かっている相手に、いつでも笑顔でいられる?』と。
父は優しかった。
父の物語も人柄も、優しさで溢れていた。
いつだって我慢して、我慢していることを表には見せない人だった。
ガンが再発しても、辛かっただろうに、いつだって笑顔だった。
『孫の顔も見れたし、ミヅキも大学を出せた。僕は幸せだよ』って。
ーーー記憶の中にいる父は、いつだって笑っていた。
「ミヅキ。私もね、お話を書いてみてるよ」
「え?」
それは、夫にすら告げていない話だった。
スマホでぽちぽちと、ほんの短編くらいのものだけど。
子どもが生まれて、父の日記を読んで……そうして、しばらくしてから父ときちんと話をした。
遅かったかもしれないけど、再発して家にこもりがちだった父と、少しでも共通の話題になるかと始めてみたのだ。
小説の話をする父は楽しそうで、ついに入院しなくちゃいけなくなってからも、アカリが話を振ると笑顔を見せてくれた。
顔を上げると、ダンボールに入れた父の著作がある。
初版のものだけをミヅキと自分の二冊ずつだけ集めても、五箱も六箱もあるその物語の数々。
父は多作で……年に何冊も本を出していた。
それも、家にいる時間をきちんと守りながら、だ。
家庭もないがしろにせずに、父は印税でアカリたちを養ってくれていた。
「お話を書くのって難しいよね。全然なんにも思いつかなくて。……お父さんは、すごいなって、やっと分かった」
「……えっと、なんで、書いてるの? お姉ぇは小説が嫌いだって、お父さん言ってたのに……」
「お父さんと喧嘩してた時に、つい口を滑らせちゃって」
本心からそう思っていたわけではないことを、アカリはミヅキに伝えた。
「最初はね、お父さんと話をするために始めたけど。今は、違うの」
アカリは、父のパソコンを指差した。
あの人の気持ちと物語が詰まったそれは、死んだ後もこうして、自分たちの心に根付くものを残してくれた。
「私は、お父さんの『物語』を読めて良かったと思うから」
『web小説で、今の辛さを一時的に忘れられるかもしれない。もしかしたら大人でもさ』
かつての父の言葉は、本当だった。
アカリの心にあったつまらないわだかまりを、父はたしかに、その文章で溶かしてくれたから。
死んだことを悲しいと思う時に、笑顔を思い出して欲しいという父の気持ちを知れたから。
「ミヅキも、時間があったら全部読んでみて」
父が、どんな風に自分たちのことを、皆のことを見ていたのか。
それを知ることは、きっと自分よりも素晴らしい物語を書くんだろうミヅキの、糧になると思うから。
「……そうする」
グズ、とまた泣きそうになっているミヅキの肩を軽く叩いて、アカリは腰を伸ばした。
「さ、休憩は終わりにして、また片付けよ。私もそうそう家を空けれないだろうし」
「時間なくなったら、私が続きやるからいいよ」
この部屋に思い入れはないけれど。
父の全てが詰まった物語は、ずっと手元に残り続ける。
本にならなかったものも、落ち着いたら全部プリントアウトしておこう。
昔から大好きだった、一時期少しだけ嫌いだった父は。
ーーーいつだって人を幸せにしようとしていた、web作家だった。