波に揉まれて角が取れるように
ゆく当てなく浴びるのは、松林のやさしい木漏れ日。ところどころにある細い抜け道からは、海のきらめきがまばゆく映る。
陸上競技での推薦はもらえず、挫折を噛み潰しながら生きた夏からの半年。走るのが好きな私は、実業団に入ってプロのマラソンランナーになろうと思っていた。
だが、その道はもう絶望的。
夏をあきらめて、表立っては出さなかったが秋は絶望に暮れ、冬は締め切りが迫っていた卒業ソングを作った。
いっそ、音楽の道にでも進もうか。
最近はそんなことを考え始めている、フルーツの香りはしないと思う、夢のような女子でもない城崎まどか。
いつもの沙希に加えて全裸の河童まで湧いてきやがって、アタオカ案件が常態化しているから、きょうは社会通念上の『常識』を取り戻すため、単独行動をしている。
いま私が歩いている松林は、砂浜から街の中へ砂が飛ばないように設けられた砂防林。半世紀前、シンガーソングライターの桑田佳祐氏が在学していたころはまだ木の背が低く、第一中学校の校舎内から海が見えたらしい。現在では屋上に上がらないと海は見えないが、一中は原則、屋上立ち入り禁止。
当時、東海岸の学校といえば一中のみで、隣接する湘南海岸学院高等学校や東海岸小学校は後に建設された。
沖に凛々しい烏帽子岩、東に江ノ島、西に富士、そしてこの松林こそ、今昔とも共通する茅ヶ崎らしい風景だと私は勝手に思っている。
擦れる松葉の音は、荒んだ心を何度でも撫でてくれる。この音を聞いたからって性格がフラットにはならないだろうけど、いくらかは心が落ち着く。
街に出れば歩きスマホにぶつかられ、頭にきて喧嘩を吹っ掛ける。殴られたらメリケンサックで殴り返す。そんな荒れた私。それを咎められたり、中にはカッコいいと言う人もいる。だけどほんとうにカッコいい人は、喧嘩相手を穏やかに赦したフリをする。そういう人は孤独を抱えつつも仲間の助力を得て自らが望む幸福を手にし、やがて喧嘩相手など視界に入らない雲の上で、心穏やかな日々を送っているだろう。たまに雲が晴れたら、泥水をすする当人を、恵比寿顔で見下したりして。
だがそこへ辿り着くには、想像もつかないほどの修羅を乗り越えなければならないだろう。尖った石や瓶が丸くなるのは、穏やかな波が洗うからじゃなくて、荒波に揉まれて角が取れるから。痛みを知るから、表層的でない、真心のやさしさが身に馴染み、それが人格となり、運命となる。
ひねくれているかもしれないけど、いまのところ泥水をすすっている私は高みを目指し、そういう人間になりたい。
松林を抜け、サイクリングロードに出ると、ヘッドランドを中央に広がる青い海。波打ち際まで下りれば人通りはまばら。少なすぎず、多すぎず、2分に一人擦れ違う程度。
足元まで届く波は、砂に掘られた文字をさらって、世界へ散らしてゆく。それが愛する者の名前であればロマンチックだが、いま私の足元で世界へ旅立ったのは、うんこの落書き。
お洒落で塗り固めようとしている茅ヶ崎だけど、実態はこんなもん。特に沙希とか沙希とか沙希とかまみ子ちゃんとか、全員とは言わないが地元の人間はおおよそ下品なネタを大層好む。
打ち寄せる波、松風の囁き、いっしょにいると肩の力が抜けるゆるい人々。この穏やかな環境は、荒くれ者の私を、努力や日ごろの行い次第でやがて高みへと導いてくれる、そんな気がする。