胸に情熱を、未来に夢を
「それで、どうして嬢ちゃんは、こんな辺境の街に来たんだ?」
サザンの音楽が何曲か流れ、音楽が途絶えた。今夜泊まる予定のビジネスホテルの前を通過すると、茅ヶ崎駅前交差点で赤信号にかかった。
「巡です。廻谷巡。茅ヶ崎に来たかったというよりは、猪苗代から近すぎず遠すぎずの、イヤになったらすぐ戻れるような場所で、人間関係をリセットしたくて来ました」
閉鎖的な田舎の、時代遅れな人たちの中で正義を振りかざされたくない。だから私は、ここに来た。ううん、郷から逃げてきた。
「おお! そうかそうか! それでこんなちんちくりんと出逢っちまったわけだ」
「そうなんです、公園でギター弾き語りしてて、楽しそうだなあって」
微少に身をよじり、荷室に置いたギターケースを盗み見る。
「ちんちくりんは否定しようね。でも、弾き語りは楽しいよ」
「私も、音楽っていうか、アニソンが好きで、アニソン歌手になりたいとか思ってイラストつけて動画配信なんかもやってるんですけど、なかなかヒットしなくて、音楽を楽しめなくなってきてます。周りの目だって冷たいし」
「周りの目? んなもん気にすんな。好きなことやれ」
「そう言ってくれる人に出逢えただけでも、茅ヶ崎に来た価値があったと思います。しかも学校の先生に」
「なんだ、学校でイヤな思いでもしたか」
「学校でも家でもです。私みたいなオタクには否定的です」
「そっか、そりゃしんどいな。しっかし古くせぇな、10年前ならまだしも、今どきオタクなんざ、そこらにゴロゴロいるぜ?」
「ゴロゴロいても、普通になっても、気持ち悪いものは気持ち悪いんですよ。ゴキブリが日常的にたくさん視界に入る世界になってもきっと気持ち悪いのと同じです」
「そうか、オタクはゴキブリか」
「ちょっと、酷いよまみちゃん」
「いいんです沙希ちゃん、事実ですから」
「いやいやんなこたない。大事なのはオタクかどうかじゃない。胸にパッションが宿っているかどうかだよ」
胸に拳を当て揚々と言う沙希ちゃん。その目は妙にきらめいている。
「胸に、パッション?」
「イエース、パッションインマイハー」
クールにネイティブっぽい発音。
「パッションインマイハー?」
対して私は日本のイントネーションで棒読み。
「胸に情熱を、未来に夢を」
「沙希ちゃんいいこと言うね」
シンプルだけど、きらきらした人生を送れそう。
「でしょでしょー」
「沙希、お前の夢はなんだ」
「決まってるよまみちゃん、毎日ハッピーに生きる!」
「おう、そりゃ至上命題だな」
「まみちゃんのくせに難しい言葉使うね」
「知ってるか? 実は私、現国の教師なんだ」
「うっそーお!?」
「驚いただろ?」
「もう、まみちゃん冗談キツイって」
「私はいつだって真摯だ」
どこまでほんとうでどこから冗談なのかわからないおしゃべりをしている間に、クルマは高速道路の下を抜けて裏道に入った。たぶんこのクルマは、山のほうに向かっている。山を背景に高速道路が通っている景色は、猪苗代と少し似ている。
それからしばらく閑散と古びた住宅地をとことこ走ると、まみちゃんは休耕田の脇にクルマを停めた。
「よーし、ちょっくら降りるぞ」
まみちゃんの号令で、私たちはクルマの外に出た。クルマの前に立つまみちゃんはボンネットに手を添えて、後ろに立つ私と沙希ちゃんは西の空を見た。
ずっと先まで広がる休耕田、右数百メートル先には小さくも鬱蒼とした山。左数百メートル先は高速道路。猪苗代をコンパクトにしたような景色。
「ほら見て、あれ、なんだかわかる?」
沙希ちゃんが指差すのは、白んだ空とオレンジの先、澄んだ空気に烈火のような紅が南北に広がる空。そこにくっきり、黒い稜線。
「富士、山?」
富士山は確か静岡県と山梨県に跨がる山。神奈川県の中部でも、猪苗代湖から見る会津磐梯山くらい大きく見える。よく見ると、うっすら冠雪している。
「ザッツライト! 海岸から見る富士山もすんごい綺麗だけど、田んぼの先に見える富士山もまた良きかな」
猪苗代は湖と会津磐梯山、茅ヶ崎は海と富士山。なんかちょっと雰囲気が近い感じ?
「私は猪苗代を感じられる場所だと思って連れてきたんだけどな」
「ああ、なんだっけ、百目ぬき? あの辺に似てる景色かも」
「百目貫なんて、沙希ちゃんよく知ってるね!」
「あ、そうだ百目貫! 思い出した! あそこの踏切を渡って畦道を抜けて湖に出たんだよ。あと、砂利道沿いの川を渡ったの」
小黒川だ。駅から保育園沿いに歩いて百目貫踏切を渡って畦道を歩いて国道49号を渡って仁蔵に出て、バス停の脇から砂利道を南下して白鳥橋を渡ったんだね。すごくリアルに想像できる。
「わっ、すご、あそこ私の家の近所なんだけど、なんかすご、こんな遠いところにあんな人通りない場所を知ってる人がいるなんて」
「えっへん! 夢のような女子は神出鬼没!」
沙希ちゃんはちょっと変なギャルっぽいし、まみちゃんはヤンキーっぽいけど、ほんの数時間前、ひとりで知らない街に来た私を受け入れてくれた。それは、これから始まるこの地での暮らしに、すごく心強い。
でも、これから私の色んな部分が露見して、嫌われるんじゃないか。その心配は、やっぱり抜けない。