映画“メッセージ”を観ての習作
享和元年(一八〇一年)。春。
かしこに生命の息吹が感じられる、この季節。小用を済ませた銀象が神田の辺りを歩いていた。
と、
川の近くまで来たとき、一人の女に気がついた。
あのときの女だ! 間違いない。目の下のホクロも同じだ。
銀象は後をつけ始めた。
一緒にいるのは娘らしい。まだ、あどけない。
団子屋に入った。
真後ろの席が空いている。
銀象はそこに座ると同じく団子を注文した。
それから簪を懐から取り出した。
一瞬で済ませないと。
十年間、持ち続けていた簪の切っ先は、そのとき女の首筋に向けられていた。
●
今年で三十九になる銀象。十六のときに、彫金師、森井龍象の弟子になった。
二十を超えたくらいから、やっとなんとか食えるようになった。といっても楽な暮らしではなかった。
それでも銀象は研鑚を続けた。めげずに頑張ったのだ。師の龍象から「象」の一字ももらえた。
現在、銀象の銘があれば、例えば印籠なら簡単な細工でも五両する。手の込んだものなら、その十倍。
しかし、そうなったのは三十を超えてからで、まだ最近のことだった。
●
寛政三年(一七九一年)。
今から十年前。未だ無名の銀象は、とある古道具屋の前で、一人の若い女が立っているのを見た。目の下にホクロのある美しい女だった。
ふと女の簪に目をやった。
仕事柄つい見てしまう。
しかしその簪は偶然にも銀象が手掛けたものだった。
そんなことなど知るはずもない女は、その簪を銀象の見ている前で髪から外した。そして店に入ると古道具屋と値段の交渉を始めた。
簪を手にした古道具屋は、ろくに見もしないで、
「一朱だな」
「もう少しどうにかなりませんか。せめて二つ」
女は訴えた。
「二朱はうちの売り値だ。嫌ならお帰り」
結局、女は古道具屋の言う通り、一朱で簪を手放した。
その成り行きを銀象は店の外から眺めていた。
女が帰った後、店に入ると、
「その簪、幾らだ?」
「これなら一分でございます」
女に言った売り値の倍……。
ところが、
「もらおう」
銀象は、材料を仕入れるために持っていた全財産の一両(一分の四倍)を古道具屋の手に握らせると、代わりに簪を懐に入れて店から出た。
●
その数日後、どうやって知ったのか、古道具屋が銀象の家までやって来た。
一人の役人を連れていたので、心配した近所の人達が集まり始めた。
古道具屋は銀象を指さして、
「こいつです! 簪を持って行った盗っ人は!」
寝耳に水の銀象は、
「言い掛かりだ! ちゃんと金を払った!」
すると、
「金なら返してやる! この盗っ人!」
銀象に金を投げつけた。
「こいつ!」
怒った銀象が古道具屋に掴み掛かろうとした。
が、
「まあまあ。二人とも落ち着け」
割って入って役人が止めた。そして問題の簪を見せることを銀象に命じた。
一旦、奥に下がった銀象が、再度、二人のところに。
「どうぞご覧下さい」
そう言って簪を床の上に置いた。
「これに間違いないか? しかし、こんなのが一両以上するのか……」
「ええ。この簪は名工の作で、きっともっと値が張ります。お前はそれを知って持って行ったんだ!」
言い値以上の金を置いて帰った。古道具屋には、それ以外、考えられない。
「そうなのか?」
すると銀象が大笑いを始めた。
「どうした……?」
少し頭がおかしいのか? 役人は気味が悪かった。
「そいつの銘を見てみろ! ははははは!」
「銘だと?」古道具屋が確かめてみると、「銀象……?」
そのとき、
「みんな。騒がせて済まない。だが騒がせついでに、オレの名前と仕事を言ってみてくれ」
家の外から成り行きを見守っていた人達に向かって銀象が言った。すると中の一人が、
「彫金の銀象だ!」
「お、お前が作ったのか?」
古道具屋が驚きの声を上げた。
「ああ」
「幾らで売った?」
役人が聞いた。
「二分(一両の二分の一)」
手間を惜しむことのない銀象の仕事。二分は、ぎりぎりの額だった。生活が苦しいのも当然と言えば当然のこと。
「なら、どうして一両も?」
重ねて役人が聞いた。
「オレはそれ以上の価値があると思っている」
「そうか。だが、これで納得がいった」そして役人は、「おい。古道具屋。ん? どうした?」
さっきから困ったような顔をしていた古道具屋。慌てて口を開いた。
「い、いや。そ、その。職人魂というか……。いやあ。感服致しました……。それに免じて、へえ。簪はお譲り致します。で、では、わたしは……」
そう言うと一両を持って帰ってしまった。
「なんだ。安いと知ると逃げるようにして帰りやがった。しかし面白い! はははは!」
役人が腹を抱えて笑った。
銀象が一両も出して己の簪を買ったのは、客の足元を見るような商売のやり方が気に食わなかったからだ。しかしその底には職人としての自尊心があった。そして同時に、久しく胸中に居据わっていたものの正体を、図らずも己の発した言葉によって知ることが出来た。
「価値か……」
それは己で決めるしかない。いや。己にしか決められない。
この簪は肌身離さず持っていよう。
銀象は心の中で誓っていた。
●
そして今日、再びあのときの女を見つけたのだ。
団子屋に入った。
真後ろの席が空いていた。
銀象はそこに座ると同じく団子を注文した。
それから簪を懐から取り出した。
一瞬で済ませないと。気づかれたら騒がれる。
十年間、持ち続けていた簪の切っ先は、そのとき女の首筋に向いていた。それを頭へと。
後で気づいたとき、一体、どんな顔を……。それも十年も前に手離した簪……。
この細工、今なら二両。銀象は、なんだか楽しかった。
●
銀象は店から出た。
もう懐に簪はない。
空を仰ぎ見た。
己の価値は己自身で決めて常に研鑚を続ける。それが職人の命。
雲一つない青空。
春。
題名「映画“メッセージ”を観ての習作」(四百字×約五枚)
九歳になったばかりのマユミが真夜中に泣き付いて来ました。
「お父さんが死んじゃった……。まだ息子を失ってから一年も経ってないのに……。昨日は犬小屋を完成させて喜んでいたのに……」
どうしたことかと思いました。
彼女のお父さんと言えば私です。もちろん、言うまでもなく私は生きています。
「そういう夢を見たんだね」
テレビか何かの影響だと思いました。
しかし、その直後に娘は気を失うようにして眠り始めました。
朝になって聞いてみたのですが、娘は夢のことを全く憶えていませんでした。
早くに母親を亡くしたことが関係しているのでしょうか……。
その数日後、同じようなことが、また起こりました。
そのときも真夜中でした。
娘が泣き付いて来ました。
「息子が死んでしまったの! まだ五歳なのに! 腹痛が始まったときに、すぐ病院に連れて行っていれば死なせずに済んだのに! 医者にそう言われたの! 大したことないと思って、そのままにしておいたわたしがいけなかったの! 何故なの? 息子の腹痛は、お母さんの命日に始まったのよ!」
その直後、またも娘は気を失うようにして眠り始めました。
このときも夢のことは全く憶えていませんでした。
そして、その数日後。
三度目でした。
同じように娘が泣き付いて来ました。
「家が焼けちゃった! 庭の松に雷が落ちて家に燃え移ったの! 残ったのはドロップだけ!」
その後のことも全く同じでした。
おかしな出来事は三度で終わりました。
ところが、それから四年ほど過ぎたある日のこと、娘が言っていた通りに家が全焼してしまいました。消防車が来たときに気付いたのですが、何故だか私はドロップの缶を握りしめていました。
あのときの夢のことを娘に訊いてみましたが、お父さんの方こそ夢を見ていたんじゃないのと、そう言い返されてしまいました。
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二十二歳で娘は結婚して、翌年には孫が誕生しました。
男の子でした。
それからの数年間は瞬く間に過ぎて行きました。
妻の命日が近付いたある日、私は孫を連れて病院に行きました。特に腹部に重点を置いた健康診断をすることを求めました。
「もう少し発見が遅れていたら大変なことになっていましたよ。ですが、よく気が付かれましたね」
医者は少し不思議そうな様子でしたが、お陰で孫の命を救うことが出来ました。
その翌年の夏がきました。
野良犬が我が家の庭で子犬を産みました。ちゃんと飼ってあげたいから犬小屋を作って欲しいと、娘と孫から頼まれました。
“昨日は犬小屋を完成させて喜んでいたのに……”
私は忘れずに憶えていました。来るべき時がやって来たのかもしれません。
私はどうやって死ぬのでしょう……?
心筋梗塞、或いは脳梗塞、それとも事故でしょうか……。
どうであれ私は娘が見た夢の通りになればよいと考えています。
孫は救われました。この上、私まで助かろうとするのは欲張りというものです。
そんなことよりも私は立派な犬小屋を作ってやりたいのです。
いつまでも彼らに憶えておいてもらえるような立派な犬小屋を……。
了
題名「殺し屋」(2010)
俺は殺し屋。既に百人近くを殺っている。
俺の殺しはシンプル。擦れ違い様に、
「あなたの時間は終わりました」
そう、ささやくだけ。
今回のターゲットは、悪名高き市会議員。依頼主は知らない。知る必要もない。
今回も、いつものやり方で殺る。
が、
まさかの失敗。奴は死ななかった。
公園で孫と遊んでいるところを完璧なタイミングで仕留めたつもりだったが。
きっと風のせいだ。
くそっ! もう一回! 再チャレンジは二十分後。二十分後なら奴はまだ公園にいる。
俺は近くの王将に入って、ギョウザを五皿、注文した。
食べ終えて自分の息を確認する。
OK!
ささやくだけで殺人を完了する俺、完全復活!
了