第八話
顔を上げ、振り向くと。
忞番対が短剣の切っ尖をこちらに向け、静かに突進していた。
「ぬ!」
兜を脱ぎ、晒された後頭部や首を狙ったか。そんな思考も、一瞬のことである。
「覚悟っ」
切っ尖の風圧を右耳に感じる。
が、その時すでに吼了欽のしなやかな脚の筋肉は躍動しており、大きく背中の方へ飛びすさったのである。
「う」
忞番対はなまじ紙一重で避けられたために、前方に泳いだ。
吼了欽はそれを逃さぬ。
「おのれ、主に、家に、叛きおるか!」
懐の短剣を抜いて、忞番対の背中に振り下ろす。丸みを帯びた忞番対の体を背後から抉る。
ゴトーン
忞番対は背中に吼了欽の短剣を突っ立てたまま、家具にぶつかり、倒し、床に転がった。血飛沫を撒き散らしながら、彼は叫んだ。
「お前を殺さねばぁ!」
吼了欽は暗澹たる思いで、己れの部下に馬乗りになった。
「女に言われたか?戦場を共にしたわしとお前の月日は何だったのか?」
しかし忞番対の眼にもはや生気はなく、空洞の如き瞳にはただねじれた悔恨のみが溢れている。
「お前を、殺さねば」
「死ねっ」
吼了欽は泣いていた。
腰の長剣を抜いて、部下の首を掻く。生首の髪を掴んで持ち上げ、顔を覗き込む。
いつもの人懐っこい忞番対の笑顔はそこに無い。想い人と添い遂げられなかった悔恨で、顔は歪みに歪んでいた。
吼了欽は涙を拭い、白布に包んだ配下の首を左手に持って講堂へ向かう。昨夜、圃勒春に逃亡者のことを具申したばかりで自分の側近が謀反するなど、情けない限りであり、監督不行き届きと言われても仕方がない。
だが講堂に着き、そこの風景を見て、些細な杞憂と思い知った。
講堂の床に、むっちり肥った女が仰臥していたのである。
「こ、國世殷?」
國世殷であった。圃勒春の側近として、戦中片時も主のもとを離れず衛士の役もこなした女官だ。胸のあたりに鮮血が吹き出している。
吼了欽が驚くと、國世殷の脇にしゃがみ込んでいた圃勒春がゆっくり振り返った。
「國世殷は一番古い侍女でした、それが内通していました。城方の情報を敵に流していたのです ― あ。」
圃勒春が、吼了欽が左手に掴んでいる白布の包みに気づいた。包みの下部は赤黒く血に染まっている。
「それは」
「忞番対です。」
吼了欽は首を振った。
「彼もまた、私の幼馴染で、共に過ごしてきた仲間でした。」
その時、わああ、という城内の歓声が聞こえた。何事か、と講堂にいた者皆、ざわめく中、注進が入ってきて、
「圃韓様、ご帰還です!」
と、告げた。
「おお!」
唱来昔は思わず手を打って喜んだが、
「奥方。この二人は、どうされますか?」
すぐ真顔になって圃勒春に聞いた。
「お、お義父様には知られぬように。」
圃勒春は、仰臥する肥った女の遺体と、白布に包まれた男の生首とに目を向ける。
「皆。いいわね。」
やがて講堂に、圃韓が入ってきた。
遺体は片付けられ、床の血も拭き取られている。
「美獣公子の六万を相手に、健闘したようだな。圃勒春。」
だぶだぶの紗の長袍は、ところどころ擦り切れ、破れていた。また、ごくりと喉を鳴らしたが咳を我慢したようである。肺病に蝕まれていることを圃勒春は知っている。
老いた義父が越えてきた啻万麓からの道程はさぞかし過酷であったろう。圃勒春は気遣いの言葉をかけたかったが、名を呼ばれてとりあえず返事した。
「は、はい。」
「聞いたであろうが、お前の夫は死んだ。」
「あ、はい。」
この時、圃韓の後ろには握放元だけが一人立っている。夫のことは先に聞いているからともかく、圃勒春は一つの嫌な予感に全身をさいなまれた。義父への配慮なぞ、この時彼女の頭から吹っ飛んだ。
「國朶鎮への途中で、穆薀が討たれた。」
「ええっ」
彼女の予感は当たったのである。
圃勒春の意識は朦朧としたが、必死に踏みとどまった。唱来昔が無遠慮に口を挟む。
「公子から討手が出ましたか。」
「左様。なんと『青光麗弟』が自ら来られてな。穆薀が身を投げ出し、我らを救ってくれたのよ。」
「場所は」
「因黒溪。」
圃韓は隙間なく沁みや皺で埋めた顔を、さらに皺くちゃにして、その忌まわしい地名を吐き出した。
穆薀は、家中の皆が圃家の若き柱石と目してきた人材である。家長の圃韓が痛恨の思いでいるのは当然であった。そして講堂の各将が茫然自失の体であるのもむべなるかな、である。
圃勒春もその中の一人と見える。
だが、吼了欽なぞは彼女の心情を推し量って、不安そうに視線を向けている。いや、しかし彼をもってしても、圃勒春が今心中に渦巻く思念を、ある形に凝固させつつあることに気付きはしなかった。
(私、野戦で散るわ。もう、穆薀がいないのなら。)
國朶鎮城主府には、城主たる圃韓が帰還したにも関わらず、沈痛な空気が覆いかぶさった。




