第参話
9月3日の宵。
「國豹芽楼」は賑わっている。
不夜城はいよいよ明るく、夜の蝶たちが振りまく脂粉の芳香に、國朶鎮の男どもが吸い寄せられているのである。
「掟考がまた禾奔頭に攻め込んだらしいなあ。州境警備で忙しくなりそうだよ。まったく。」
忞番対もまた、そんな國豹芽楼に通う酔客の一人だ。丸々と肥えた短躯で椅子をきしませている。
対するのはこの楼閣でも上位に入る売れっ妓、描初處である。
「本当、とんでもないことになったわねえ。」
躑躅色に塗った厚ぼったい唇に長煙管を咥え、紫煙を宙に吐く。胸元をしどけなく開き、裾から露わになった太腿も艶々しく、男が絡め取られるのもむべなるかな。
妓女に向けられる忞番対の眼は血走り、頰は紅潮していた。
「ああ。だからさ。」
そして男の丸太のような腕が伸び、剥き出しになった描初處の太腿をまさぐった。
描初處は躑躅色の唇をいやらしく歪めてから、忞番対の手の甲をはたく。
「いて」
「ったく。この大事に興醒めな真似しないでよ。」
「興醒めって。これから忙しくなって、ここになかなか来れなくなるんだ。だからさ。」
「ンなことは分かってるよ。あんた、今回のこと」
描初處は途中でガクン、と声を潜めた。
「今回の掟考の侵攻、ただで済むと思ってるのかい?」
忞番対は重そうな目蓋を何度か上下させ、口を丸く開く。一瞬言葉に詰まったが、
「掟考が禾奔頭に出兵するのは今回が初めてじゃないし」
「今回は違うよ。」
描初處は言下に否定した。小声だったが。
二人は個室にいる。
個室は大部屋より料金は高い分、気に入りの妓女と心ゆくまでのめり込めるが、壁は薄い。部屋の調度は豪奢なものの、店としても内壁なんぞをしっかり造る必要はない。全ては女に目が眩んだ男に金を使わせる為だけに造られた装置なのである。
ともかく個室といっても、政治向きの話を大っぴらにできる環境ではない。隣の部屋の客に聞こえるやもしれぬ。
描初處は長煙管を傍らの卓に置く。乾いた音が鳴る。
「いいかい。秦州の民はもう限界だよ。黄翼山噴火による冷害、奏同啄飯道の跋扈。これは我が因州だって同じだけど、お隣さんは州王府が無能ときた。今度の掟考侵攻で、多くの者が秦州に見切りをつける。流民や流賊になってね。で、そいつらがどこに行くかと言えば」
「因州だよな。」
「そう。その数は生半可じゃないわよ。ここ國朶鎮だけじゃなくて哥辣も陥されるわね。」
「そ、そんなまさか。」
「そうなるわよ。この城が難攻不落ったって、数が違う。相手が流民なら、手引きされる内応者だって多いでしょ。隣州だから血縁も多い。」
紅潮していた忞番対の顔が俄かに青ざめていく。流民や流賊の数は想定していたが、國朶鎮内の内応には思い至らなかったらしい。
「それほど危ないかあ。どうすればいいかな」
「それはね、」
栗色の巻毛を大きく揺らし、描初處はぐっ、と顔を近づけた。
「公子についていけば良いのよ。そうすれば大丈夫。」
そして忞番対の後頭部に手を回し、白い指で髻をがっきと掴む。妓女の甘い息はたっぷりと忞番対の顔にかかる。男はまた、この妓女に絡め取られた。
「ねっ。貴方はきっと成功する。」
唇が触れる。
忞番対の頰に血の気が戻る。
妓女の躑躅色の厚ぼったい唇はやわやわと男を包む。男は引っ込めていた丸太の如き腕を、再び繰り出し、描初處の太腿から背中、胸元、まさぐり始める。
難しい話を急に止めた妓女と客は、いつもの行為に耽り始めた。
刻々と夜は深まりゆく。
しかし、國豹路に並ぶ全ての楼閣で繰り広げられる痴態、その熱情が煌めいているのだろうか、繁華な街路は昼のように明るい。
そしてここ「國豹芽楼」はその内の一軒でしかなく、描初處と忞番対の蠢くこの部屋はまた、その中の小さな一部屋にしか過ぎぬ。
常と変わらぬ歓楽の情景がそこにはあった。
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その頃。
國朶鎮の北に200km超、州都の啻万麓でも、ある一室でひそひそと話が進んでいた。
「捻州には先月、使者を遣ったに。必黄站もまったく抑えが利かぬのう。」
啻万麓の西、啻山の麓に建つ邸宅。
その一番奥の上房で、邸の主である圃韓は椅子に深く腰掛け、喉の縦皺を上下させながら呻いている。
「同意でございます。そして。」
それに対してゆったり頷く隻眼の男は、「檗輪単眼」穆薀。圃家の若き家宰である。金糸編みの大きな眼帯で顔の左半分を覆い、異相であったが、その声音は湖面の如く穏やかであった。
「攻め込まれた秦州の方は、もういけませぬ。民心は州王・穂泉煎から離れ、此度の侵攻に州内は浮き足立ちましょう。多くは流民となり、我が因州に雪崩を打って押し寄せるは必定。そしてその後を追って流賊も流入しまする。」
「じゃろうな。」
今度は圃韓が頷く。
因州龍眼という州王府の頭脳は、即座に州境の防備を思考する。
「圃勒春に伝えよ。州境の要所、各路の関に派兵し、難民・賊軍の類いは良民・悪民の別なく、呵責なく追い返せ。ただ國朶鎮の守兵も籠城可能な分残すよう。さすれば州境警護は自軍に倍する賊軍が来たらば、即座に撤退して國朶鎮に籠れ。」
「は。すぐ伝えまする。」
だが指令を受けた穆薀には、さほど切迫感が感じられぬ。大きな一重の右眼には、いつもの獣の如き光が無い。圃韓はそれを察し、老いて濁った眼で緩やかに視線を返す。
「まだ若いが、あっちには吼了欽もいるからのう。まあ、大丈夫だろうがな。」
穆薀は口角を上げ、厚い唇の間から真っ白な歯をのぞかせた。
「御意。それに城代は『金鴻猛妻』様です。奥方と『金八光』吼了欽が二人揃っているのです。此度の御心配は無用かと存じます。」
「ふふ。國朶鎮に『両金』有り、か。」
穆薀はここでふと、真顔になった。
(囿治果はどう対処するだろうか。)
囿治果 ― 因州公子・美獣が、どう動くか、ふと気になったのだ。
そしてほぼ同時に、契冬蹊の小さな栗鼠の如き丸顔が脳裏に浮かぶ。続けて彼女の家での情景も。
穆薀は素早く首を振り、脳裏から妄想を取り払った。
「兎に角、咽諄醸を早々に國朶鎮に遣りまする。」
穆薀の動きは一瞬のことである。
圃韓は何も気付かず、
「頼む。」
と一言言うのみ。
穆薀の退室を鷹揚に見送った。
夜は更けゆく。
一人残った圃韓の耳には、房内各所に設えられた燭燈の小さく爆ぜる音しか聞こえない。




